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2 祖父という人

 用意されたのは高級ホテルのセミスイート。正直、色んなものがすくみ上がる気分だった。だって部屋に入ってまず目に入る展望が凄い! 街のきらめきを独り占め状態だ。しかもそこはリビングで、いったい何人座るんだ? 的なソファーに、馬鹿でかいテレビとかもある。バーカウンターみたいなのもある。

 そして寝室は二つ。主寝室のベッドはキングサイズでふっかふか。逆に落ち着かなくて眠れない。いっそ床で十分な気がする。

 他にもツインの寝室があり、鳥羽はそちらで休ませてもらうと言っていた。

「黒田さん、俺こんな所で寝られないよ」

 ベッドが広すぎて眠れない。むしろベッドなんて久しぶりで落ち着かない。何あのスプリング、ふかふかもふもふ。わたあめかマシュマロか!

「気に入らないならスイート……」

「ここでいいです」

 アップグレードしようとしないでほしい。

 溜息をついた悠はリビングのソファーに腰を下ろす。その間に鳥羽はお風呂の用意をしてくれたようで、今湯を張っていると声をかけてくれた。

「有難う、鳥羽さん」

「このくらいのお世話は当然です」

 特に感情の起伏もなく言う鳥羽に、黒田は疑心を含む視線を向けた。

「ところで、こいつの祖父ってのはどんな人だったんだ」

 声を向けられ、鳥羽は黒田に視線を向ける。悠もこれには興味があったので鳥羽を見た。何せ小さな頃の話で、あまり覚えていないのだ。

「……分かりました、お話いたします」

 しばしの逡巡後、鳥羽は溜息をついて全員の前にグラスと炭酸水を置き、座った。

「雅楽代直之様は、少し人嫌いな所のある難しい主人でした」

 そう話し出す鳥羽は、思った事を伝えているのだろう。亡くなったとはいえ包み隠さぬ表現に、黒田はちょっと驚いている感じだ。

 だが、ちょっとおかしい。悠の僅かな記憶では、祖父は悠には優しかったような気がする。少なくとも嫌いではなかったのだと思う。

「特に息子については側に寄らせようとはせず、体調を崩されるまで事業の手綱は直之様がお持ちだった印象があります。何度かお住まいに息子さんが尋ねていらした事がありましたが、大抵が喧嘩別れです」

「随分な爺さんだな。雅楽代家は手広くやってるし、息子もそれぞれの会社のお偉いさんだろ? 今じゃ珍しい、家族経営企業」

「はい。それが上手くいっていたのは、直之様の手腕だと思います」

 随分凄い人だったんだな。そんな事を今更ながらに思う。知らない顔があるのは当然なのだが、ギャップが大きい気がする。

「それでも、直之様は娘のあかね様についてはとても可愛がっておられまして、本当に目に入れても痛くはないという様子でした。ですので、あかね様が男の方と駆け落ちのように家を出られた時にはショックで寝込まれました」

 声を僅かに落とした鳥羽に、悠はなんだか申し訳無い気持ちになる。母と駆け落ちした男というのは、父の事だろう。悠はその息子な訳だし。

「お嬢様育ちでおっとりしていたあかね様が、そのような思い切った行動をお取りになるとは夢にも思わなかったのでしょう。裏切られたと感じた直之様は、更に人嫌いを加速させておりました」

「なんだか、気の毒な爺さんだな」

「父と母が、申し訳ありません」

 もの凄くいたたまれない気持ちになって軽く頭を下げると、鳥羽は人らしく苦笑を見せて首を横に振った。

「元々、そのような気があったのです。実はひっそりと、あかね様の様子を探らせておりました。ですので、孫の悠様がお生まれになったのも知っておりましたよ」

「ストーカーかよ」

 黒田が若干引き気味な顔をした。

「生活が困窮している事を知り、直之様はこっそりとあかね様と悠様をお住まいへと招いておりました」

「そこで金渡してたのか?」

「そのような事もありました」

 そんなに心配させてしまったのか。確かに住んでいたアパートも古かったし、いい生活はしていなかったけれど。

 それでも父も仕事をしていた。学がないからいい仕事にはつけなかったらしいが、毎日ちゃんと仕事をしていたと思う。おかしくなったのは、母が死んでからだし。

「何より直之様にとって、孫である悠様と過ごす時間が人らしい時間だったのです。優しい顔をされて、帰られてからもしばらくは悠様のお話をされておりました。ですので、あかね様が亡くなり、悠様が姿を隠してしまったことをとても悲しんでおりました」

 母が病気をして、闘病していたのは1年と少し。悠は小学6年生から、中学1年生の初夏くらいまでの間だ。

 その後は引っ越して、今のおんぼろアパートに住んでいる。

 実は一度夜逃げをしそうになったことがある。複数のヤミ金に追われて居場所がなくなった時だ。

 だがその時、一番力を持っていた黒田が周囲に話をつけて真っ先に乗り込んできて、親父に置いていかれた悠を見つけて同情してくれて、話を聞いてくれたのだ。

 そうして黒田は複数いたヤミ金の分を自分の金で返して手を引かせ、その分を親父に上乗せした。そうして今に至る。

「悠様を探そうともしましたが、周囲はあかね様が亡くなられたのならもう手を引くよう言いだし、その頃には事業からも半分手を引いていたので思うように行かず。それから数年でお体を悪くされて入院なさり、つい先日」

「そう、だったのですね」

「あまり記憶に無いかもしれませんが、直之様は本当に悠様を気にかけておられました。明日は雅楽代の本邸に行きますので、よろしければお線香を上げていただければと」

「勿論! あの、でもご遺族の方は許して下さるのでしょうか?」

 不安になって問えば、鳥羽は途端に腕を組んで厳しい顔をし、首を捻った。

「おそらく、嫌な顔をなさいます」

「ですよね」

「ですが、僕が側にいる限り何も言わせはしません。何人も、貴方に指一本触れる事はできません。不躾な視線だけは遮る事ができませんが、1時間程度の事だと思いますのでどうかご辛抱ください」

 とても真摯な面持ちで頭を深く下げた鳥羽に、悠は胸の前で両手を振って頭を上げるようにお願いした。何せこの人にこんな事をされる理由はないのだし。

 だが、隣の黒田は更に鳥羽へ疑いを持ったのか、腕を組んで足も組んで、難しい顔をした。

「随分力を持ってるんだな、あんた。たかが秘書だろ?」

「私は代々当主にのみお仕えしてきた者です。仕事から、身の回りの世話まで全てです」

 代々秘書の家柄ということだろうか? 本の世界だと、代々家に仕える執事の家系とか読んだことがある。鳥羽も、そういうものだろうか。

 見た目は20代後半か、30代前半くらい? なのに、随分としっかりしているし、落ち着いているし、頼もしい感じがする。やっぱり教育とかが違うのだろうな。

「次のご当主様が、明日集まる中にもいるんだろ? 媚びとかなくていいのか?」

「構いません。明日、次の主人が決まるまでは直之様が主です。亡くなったとはいえ、その意志を無視する事は僕の矜持に反します。雅楽代家当主の秘書として、僕は明日も動くのみです」

 そう淀みなく言い切った鳥羽に、黒田はしばらく黙ったまま見据えた。鳥羽もその視線から逃げなかった。

 だからだろう、黒田は深く息を吐いてパンッと強く膝を叩いた。

「とりあえず、信じる。そういう融通の利かない頑固な所、俺は嫌いじゃない。悠を任せる」

「かしこまりました」

 頭を下げた鳥羽に頷いた黒田は、次に悠には優しい笑みを見せて大きな手で頭を撫でた。

「明日、俺直通のスマホを渡す。通話押したら直ぐに俺の所に通じる。何か困った事があったら、直ぐに連絡しろ」

「でも、お仕事じゃ……」

「お前以上に優先すべき仕事は今んところはないな。おやじのお使いも明日はない。心配すんな」

 とても優しく、大きな安心を与えてくれる黒田に申し訳なく思いながらも頷いた悠に頷き、黒田は部屋を出ていった。

「あの方は、アホですね」

「え! あの、鳥羽さんそれは」

「あの手の仕事をしている者にとって、金は誰からのものでも構わないはず。仁義なんて、今の時代にはそぐわない時代遅れな事でしょうに」

 そう、あまり感情の見えない表情で鳥羽は言う。

 だが悠にはその声音で、彼が黒田を買っているのだと伝わった気がした。

「アホは嫌いですが、気持ちのよいアホは好ましい。信念を持っている頑固者は、尚のこと」

「俺は黒田さんにとても助けられました。中学の学費や給食費、制服から修学旅行費まで全部、黒田さんが出してくれたんです。それどころか生活費まで。俺、大人になったらあの人に何かご恩返しがしたいんです」

「……お体、大丈夫ですか?」

「? はい、おかげさまで健康です」

「……左様でございますか」

 もの凄く訝しんだ様子で問われたけれど何のことだか分からない悠は首を傾げる。それに溜息をつきながら、鳥羽はそれ以上何かを追求する事はなかった。

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