『悠、この世には人の及ばぬ住人がいるものなんだぞ』
茜色に染まる縁側で、悠は祖父の膝の上に乗って古い本を広げたままそんな声を聞いて振り向いた。
『人の及ばぬ住人?』
『あぁ。幽霊や妖怪、神や仏の類いのことだ』
『いるの?』
幼い悠は首を傾げて問いかける。
それに祖父は思わせぶりな笑みを口元に浮かべ『どうだろうな』と言う。だがその笑みは悠には、「いる」と肯定しているように見えた。
足下に、祖父の飼っている三毛猫がきてすり寄ってくる。
『いたら、すごいね』
『怖いか?』
『分からないけれど……ちょっと、ワクワクする!』
子供らしい好奇心に目を輝かせた悠を見上げて、足下の三毛猫が一声鳴いた。
§
【10年後】
悠は夜の町をトボトボと歩いていた。つい1時間程前にバイトをクビになったのだ。
仕方が無い、年齢を偽ってバイトしていた。しかも未成年が飲み屋でだ。流石に容認できなかったのだろう。
「はぁ……どうしよう、今月」
まだ月の始めなのにバイトを失ったら、今月食べて行けない。財布の中を見てみると一万あるのみ。これで今月を乗り切るのは流石にしんどい。
日中の仕事もしているけれど、そっちは給料があまり良くない。中卒では仕方が無いけれど。
「どうしよう。これで親父に持っていかれたら、俺飢えるしかないよな」
ギャンブル好きで酒が好きなクズ親父は、悠を殴ってでも金を持っていく。当然借金が三桁後半くらいある。それを返す為にも夜の割のいい仕事は必須だったのに。
どうにもならずに肩を落として繁華街を歩いていくと、不意に誰かが肩を掴んで引き留めた。
見上げた先には明らかに気質ではない強面のお兄さん。その後ろにも同じ系統の人を2人くらい従えている。黒スーツに黒髪オールバックの人は、悠を見下ろして悪い目つきを更にあげた。
「おい、クズ親父はいるか?」
「この一週間見ていません」
「そうか……」
男は掴んでいた肩を離してくれて、手招きをする。そして近くにある店に悠を連れていった。
その店は高級な感じのする店で、悠が連れていかれたのはその奥にある人の出入りの無い部屋。そこにあるソファーに座った男は、悠に座るように言うと溜息をついた。
「また持っていかれたのか、悠?」
「すいません、黒田さん。お返ししたいんですけれど、今お財布に入ってるのが全財産で。これを取られたら俺、後は死ぬしかなくなってしまいます」
言って正直に財布を出すと、黒田は財布の中身を小銭まで確かめて溜息をつく。そして自分の財布を懐から出して、諭吉を三枚ほど追加した。
「黒田さん! 俺、これ以上返せませんよ」
「気にするな、出世払いだ」
「出世払いって……。中学の学費も、制服代も、給食費も、修学旅行代まで出世払いじゃないですか。俺、そんなに出世できませんよ」
入れられた諭吉を取り出して黒田に押し戻すが、黒田もガンとして受け取る気がないらしく悠に握らせる。これを繰り返すうちに悠が折れてしまう。有ると助かるのは事実なのだ。
「いつもすみません」
「ガキが気を遣うな。ただし親父を見つけたら通報しろ。あれからは搾り取る」
「はい、必ず」
ここでひっそりと金貸しと借りた側の協定が締結した。
黒田は俗に言う、ヤのつくご職業だ。
悠の母が生きていた頃は父も仕事をしていたのだが、13歳の頃に母が他界してからは酒に溺れて仕事をしなくなり、ギャンブルをしてはお金を使い潰した。
母が悠の将来の為にと貯金してくれたお金は数ヶ月で底をつき、まっとうにはお金を借りられなくなってヤミ金に手をつけて、逃げようとして捕まって。
この時お金を借りたのが、黒田の所だったのだ。
黒田はそういう職業の人だけれど、悠には同情してくれたらしい。お金を取り立てにきて、悠に栄養のあるご飯を食べさせてくれたり生活費をくれたり。しかも借用書なしだ。
それどころか中学の色んなお金まで食い潰す親父に呆れ、ポケットマネーで出してくれたのもこの人だ。
お金がないので高校を諦めた時も、最後まで行くように言ってくれたのは黒田だった。これからは学歴社会だからと。なんなら大学まで面倒を見ると言ってくれたのだが、流石に甘えすぎだ。
「ったく、お前も苦労する。嫌になったら俺の所にこいよ」
「俺、そちらの世界にはちょっと」
苦笑して答えると、黒田はどこか含みのある笑みを見せた。
「お前には無理だよ。精々俺の嫁だな」
「いや、俺男なので無理です」
それこそ無理難題だ。悠は苦笑するが、実はこんな話をしたのはこれが初めてではない。何度か冗談のように言われた事がある。
「まぁ、気が向いたらきな」
「ははは」
そんな話をしているとドアがノックされ、目の前に
「食べてないんだろ? 1ヶ月前よりも痩せたか? 食えなくなったら来いと言ってるのに、お前も強情だから」
「いや、流石に堂々と行くのはちょっと……」
でも牛丼は美味しそうです。
お許しを得て遅い夕飯を綺麗に食べきる。そんな悠を黒田は満足そうに見ている。少し恥ずかしいけれど、おごって頂いているので文句はない。それに黒田とはもう年単位のお付き合いなので、正直金をむしり取る親父よりもずっと気を遣わない。
「美味いか?」
「最高です」
「安いな、本当に。寿司や肉でもいいんだぞ」
「高いものって食べ慣れなくて。それに牛丼、コスパいいですよ」
「まったく、色気のない。高級フレンチでも喰わせれば、一晩くらい俺の言うこと聞いてくれるのか?」
「またまた、そんな事言って。黒田さんかっこいいんですから、俺みたいな子供の相手なんてしてないで綺麗な女の人捕まえてくださいよ」
「……お前がいいんだがな」
そうは言いながらも悠の意思を絶対的に尊重してくれるあたり、黒田はいい人だと思うのだ。
§
なんにしてもバイトの事は考えないと。
黒田の車に乗せてもらってボロボロのアパートに辿り着くと、誰かが戸口の所に立っていた。
「誰だ、あいつ」
警戒する声で言った黒田は家の前に車を止めると悠の前を歩いてくれる。まるで背中に庇われているようで、ちょっと心強く思えた。
部屋の前に立っていた人物は、とても品のいい男の人だった。
黒いスーツに白い手袋。清潔感のある黒い髪に、銀縁のメガネをした整った顔の人だった。
「誰だ。ここの親父は生憎だがいないぞ」
どうやら黒田は悠の親父が別のヤミ金から金を借りたんだと思ったらしい。十分ありえそうでげんなりする。そしてこの人物は取り立てだと。
だが立っていた青年はとても丁寧に悠を見て頭を下げ、黒田にも視線を向けた。
「私は、悠様のお祖父様の使いで参りました鳥羽と申します」
青年は名刺を取り出し、悠と黒田にそれぞれ渡す。そこには秘書という肩書きと、「鳥羽治俊」という名前が印字されていた。
「コイツの祖父?」
「はい。
「雅楽代!」
驚いたような黒田だが、悠はまったく覚えがない。首を傾げていると、鳥羽は苦笑した。
「資産家とでも申しましょうか。かなり古い歴史を持つ家柄なのですよ」
「そう、なんですか? そういえば母はお嬢様だった気が」
「貴方も小さな頃に何度かお会いしているはずなのですが。流石に覚えておられませんか」
苦笑する鳥羽に、悠は何度か首を傾げた後で「あ!」と声を上げた。
確かに母に連れられて、たまにどこかへ出かけた覚えがある。古い家で、蔵があって。そこに住む老人とよく、縁側に座って本を読んでいた。老人が飼っている三毛猫が足下でじゃれていたのを覚えている。
「思い出しましたか?」
「あの、とは言っても俺、ほとんど覚えていません。顔すらうろ覚えなんですよ? そんな人が、今更何故?」
「先日亡くなられました」
「え!」
流石に驚いて声を上げた。今の今まで忘れていた人物とはいえ、一応は祖父だ。そんな人が亡くなったと聞かされれば多少は驚く。というか、ならば何故?
「明日、初七日の法要に合わせまして故人の遺言状を開示する事になっております。そこに、悠様もご列席頂きたくお迎えに参りました」
「あの、列席って……それにもう母も亡くなっておりますし、今まで何も関わってきていないのに今更俺みたいなのが出席すると、その……ご遺族の方は不快なのでは?」
今まで祖父の介護をしていた人の所に、突然親戚がきて遺産がどうのと言ってくるドロドロ展開なんてドラマとかで聞く話だ。
だが鳥羽は首を横に振り、しっかりと悠を見据えた。
「これは、亡くなられた直之様のご意志なのです」
「ですが……」
正直困っていると、前にいた黒田がスッと立って鳥羽を見据えた。
「コイツは戸惑ってるし、話が急すぎる。何よりそんな家の遺産問題のドロドロに子供のコイツを巻き込むな」
「貴方は?」
「コイツの親代わりみたいなもんだ。なんせ親父がろくでもないからな」
「なるほど。まぁ、なんとなくご職業は察しました」
鳥羽はそう言うと、手にしていたアタッシュケースを黒田に差し出す。十分気をつけて黒田は受け取り、僅かな隙間だけで中を確認して目を丸くした。
「ざっと、一千万ほどあります。足りますか?」
「こんなもの受け取れるか!」
「そうど、お納めください。足りなければ後日請求をしていただければ、即金でお支払いいたします」
「だから! 俺はお前から金を借りているわけじゃないんだぞ!」
「貴方のご職業で、金の出所を問うのですか? 妙な事ですね。誰から回収しようと回収出来ればそれでいい。違いますか?」
黒田相手に鳥羽はまったく表情も口調も変えずに淡々と対応している。ある意味肝の据わった人物かもしれない。だが、これには悠も不愉快だった。
「鳥羽さん」
「なんでしょうか?」
「この人は俺の事を心配してくれる、優しい人です。俺はこの人から一度だって危害を加えられた事はありません。それどころか恫喝されたり、不法な仕事をさせられたりしたこともありません。俺の恩人に対して失礼です」
睨むように毅然と伝えると、鳥羽は初めて驚いたように銀縁眼鏡の奥の瞳を丸くした。そして黒田を見て、睨む悠を見て頷いた。
「そうでしたか。それは、大変失礼な事をいたしました。申し訳ございません」
「おっ、おう……」
素直に頭を下げた鳥羽に対し、黒田は不意を突かれて逆にトーンダウンする。悠も少し驚いた。
「ですが、これに関しては雅楽代家の問題。悠様には出席を頂かなければ、雅楽代家秘書失格です」
「だが……」
「悠様の側に必ず付き従い、行きも帰りも僕が責任を持ちます。お側を離れる事はいたしませんので、どうかご同席頂きたいのです」
今度は打って変わって低姿勢で言う鳥羽に、悠は困ってしまった。
こうまで同席して欲しいということは、何らか関わりがあるのだろう。遺言状を残した祖父が悠の同席を願っているのだから、そういうことなんだ。
それならきっと、今同行を拒んでも何らかの形で変化があるだろう。ある日突然、悪い方向に変わってしまう可能性すらある話だ。それなら最初から関わったほうが状況を理解できるか?
「黒田さん、俺行ってきます」
「悠?」
「多分、俺が今出席を断っても遺言が公開されたら巻き込まれるでしょうし、知らない間に訳も分からず巻き込まれるよりは、状況とか知っておいた方がいいと思うんです」
「だが……」
「少なくとも鳥羽さんが側にいますから、明日は大丈夫だって思います」
それでも黒田は思案している。本当に心配性だ。
「悠様は賢くていらっしゃいますね」
「中卒をからかうのやめてもらえますか?」
「何故、進学なさらなかったのですか?」
「それ、聞きます?」
若干睨みながら問うと、鳥羽は背後のおんぼろアパートを見上げて一つ咳払いをした。納得したらしかった。
「……条件がある」
「遺言公開に他人を入れる訳には行きませんが」
「流石にそこはわきまえてる。今日の所は俺の用意したホテルに泊って、そこから出発してくれ。車は俺のを出す」
「でも、そこまでしてもらうわけには!」
「心配なんだ、させてくれ」
いつもは鋭い目を下げられると、なんだか強く言えない。鳥羽を見ると、彼は背後のアパートを一瞥して頷いた。
「お世話になれるのであれば、お願いしたく思います。ここに悠様を置いておくにはあまりに不憫です」
「だろ? 中は更に酷いぜ」
「掃除がどうのという次元を越えております。流石に今夜中に建て替えをするわけにもゆきませんし」
「どんな大事になるの!!」
祖父がどんな資産家だったのかは分からない。けれどさっきのアタッシュケースといい、この発言といい、本当にやりそうな気がしてならないのだ。
とりあえず、大人達の間で何やら話が纏まったらしい。停めてあった車へとUターンした悠の左隣には黒田が、右隣には鳥羽が座る。車を運転する舎弟さんがもの凄く妙な空気にオロオロしながら、車は指定された高級ホテルへと向かっていった。