海人はその光景を見て、意外と冷めた気持ちだった。
知り合い同士のキスシーンって、実際に目の当たりにするとグロテスクさの方が勝るな。
清隆は両手をばたつかせて何かを訴えている。そして桜子は清隆の顔を挟むように掴み、熱烈なキスをお見舞いしていた。
海人は自身の顔が整っている自覚がある。もちろん人間基準で、だ。ろくろ首である海人は、肌質が人間より綺麗だし、造形も、擬態しやすいように淘汰されてきた歴史がある。簡単に言えば、美形の方が人間に取り入りやすく、その方が駆逐されずに生き残りやすかった。
だから、中学、高校、大学と女にはモテてきた。付き合う女に困ったことはない。もちろん、最終的にはろくろ首の同族と結婚しないと子を為せないので、付き合うのはあくまで遊びだ。そもそも、ろくろ首が人間に恋愛感情を抱くのは、人間がイルカに恋愛感情を抱くようなもので、酷くハードルが高い。
恋愛ごっこのキス。それが海人の経験したキスの経験だった。
清隆はどうだろう、と考える。
恋愛どころかまともに友達付き合いさえあるのかないのかわからない男だ。人間関係が壊滅しかけている。そんな男がキスだのなんだの、経験しているとは思えない。
これ、清隆さんのファーストキスじゃねえの? だとしたら悲惨だな。
「失礼しますよっと」
苦笑しながら桜子を羽交い絞めにして引き剥がす。否、モナリザに憑りついていた女の霊が憑依した桜子を、だ。海人の目には、完全に重なって見える。
「放せ」
桜子が暴れる。だが、海人の身体能力は、ろくろ首の形態に変化しなくてもまともな人間の上をいく。剥されることはない。
清隆は咳込んで、息を整えてから唇を拭った。
「この女……」
「どうします?」
怒りなのか感謝なのか、戸惑っている清隆の内心をわかっていながら、能天気に問う。
「拘束して」
「了解です。すいません、楢沢さん。養生テープか結束バンドあります?」
それから三分後、手足を拘束された桜子が床に転がされている図が出来上がった。
「動画撮っておきましょうか」
「やめなよ、趣味悪い」
さて、と清隆は桜子の傍に腰を下ろした。
「海人君、ありがとう。呼んでおいてよかった」
「そうですね」
笑いながら答える。本当に、ただ殴りかかられる程度ならいくらでも対処できただろうが、さすがに女の霊。やり口が容赦ない。直前に「美男子」を飲んでいた影響もあるだろう。
清隆は桜子の額を人差し指で軽く突いた。
「何したんです?」
「簡単な術だよ。この霊を桜子さんに閉じ込めた」
「へえ」
「手こずったけど、これで袋のネズミだ。もう逃げることも、絵に戻ることもできない。拘束して連れ帰ろう。あとは煮るなり焼くなりどうとでもできる。いやあ、桜子さんと波長が合っていたから憑くかもとは思っていたけど、本当に憑くとは。おかげで一番簡単な始末をつけられそうだ」
「待て、待て待て待て」
桜子が喚いた。
「くそ、出られない。待て、私をどこにやる気だ」
「どこって、連れて帰るんだよ。お前は迷惑をかけすぎた」
「話し合おう。私たちには言葉がある」
「それって、死ぬ人間のフラグだよな」
「申し訳なかった。謝る。謝るからここから離さないで」
「どうして。もう死んでいるんだ。絵から引き剥がされたって二度死ぬわけじゃないだろう」
「ここにいられないのなら、死んだほうがマシだ」
「もう死んでいるんだってば」
「成仏した方がマシだ」
「跡形も無く消滅させてやろうか」
「何でもいいから、ここに居させてください」
桜子が海人に抱えられたまま頭を下げた。首しか動かせなかったが。
海人は、清隆が最初からこのつもりだったことを悟った。清隆が本気でこの霊を消滅させようと思えばすぐにできる。ウォッカを飲んでサカグラシを火猫にし、焼き払えばいい。生者にはウォッカの火は効かないから、憑いた霊だけを焼ける。拘束して連れて行く、なんてことをする必要はない。この場でケリがつく。
だから今までの全ては、対話に持ち込む、対話せざるを得ない状況に追い込むための行動だった。思えば、清隆はずっと語り掛けていた。それを撥ねつけ続けていたのは霊の方だ。
仕方ない。対話とは、相手をある程度信用できなければ成立しない。信用が無い相手との取引は、裏のかきあいになる。もしくは、全く信用できなくて戦争になる。今、力で屈服させ、絵から引き剥がすと脅し、ようやく対話できる状態が出来上がった。
「それじゃあ、とりあえず、あんたの話を聞かせてくれよ。あんた、モナリザのモデルでもないのに、どうしてあの絵に憑いているんだ」
「私は、あの絵の元の持ち主です。小寺晶子といいます」
霊こと、小寺は語り始めた。
小寺は東陣のモナリザの前の所有者だった。学生時代からファンで、社会人になったら東陣の絵を買うことを夢見ていた。そして社会人一年目の秋、なんと東陣のモナリザが売りに出ていることを知り、ローンを組んで競り落とした。
それから、ローンを返済するために身を粉にして働いた。残業、休日出勤、出張も出向も何でもこなした。
だが、八百万円は並大抵の額ではなく、返済完了は見通しすら立たない。それでも、家に帰れば東陣のモナリザがあると、癒しを得ながら働いてきた。
そして、無理が祟った。
ある日、睡眠不足のまま車を運転し、事故を起こした。単独事故で、カーブを曲がれず高架から落ちた。即死だった。死んだ小寺は最も思い入れの強かった物品、すなわち東陣のモナリザに憑き、それを眺める日々を送ることとなった。小寺の両親は東陣のモナリザを売却してローンの返済に充て、絵は荒川東陣記念館へと流れ着いた。
「だから、だから、私には東陣先生の絵しか無いんです。これを取り上げられるくらいなら、もうこの世にいる意味はありません。お願いです。私をここに居させてください」
「そりゃあ、東陣のファンならここは理想的な環境だろうな。一日中見放題だ。まあ、東陣のファンだってことは、楢沢さんにはとっくにわかっていたことだったんだけど」
「そうなの?」
桜子が楢沢に首を向ける。楢沢は鷹揚に頷いた。
「だって、君の姿が目撃されるとき、大抵常設展の展示室で絵を眺めている姿勢だったんだ。毎日見られるのに、飽きもせず見るなんて、余程のファンなのだろうと、思っていたんだよ」
「楢沢さん、こんな熱烈なファンを追い出すのは、美術館としてどうなんでしょうね。見たいという人がいたら、見せてあげるのがあるべき姿なのではないでしょうか。彼女の場合、文字通り死んでも見たい人です」
楢沢は腕を組んで唸った。
「でもなあ、良くない噂も止めないといけないし」
「じゃあ、こうしましょう。小寺さん、あなたは来客の前に姿を現さない。営業中は、姿を見られないように努力する。その代わり、夜間はあなたが独り占めだ。今、あなたの姿が目撃されることで、幽霊美術館の噂が立ち、館は迷惑を被っている。そうならないように、最大限努力すること。どう、できる?」
小寺は何度も首を縦に振った。
「できます。やります。昼間は隠れています」
「霊感がある客もいるけど、彼らにも見られないように隠れているんだよ」
「わかりました」
「楢沢さんは、夜間、日替わりで作品をライトアップしてあげてください」
「ライトアップですか?」
「こんなに作品があるのに、暗い中でしか見られないのは勿体ないじゃないですか」
「なるほど、たしかに」
「陰陽師さん……!」
小寺が目を潤ませた。
「約束だ。これを破ったら今度こそ消滅させるからな。ついでに、良くない霊が館に憑かないように守ってあげろ」
「はい、わかりました」
「じゃあ、そういうことで」
清隆が決着を告げるように両手を叩いた。