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第61話

 その後、展示室の残りのエリア、バックヤード、事務室から保管庫、トイレまで案内され、応接室に戻ってきた。

「幽霊はいましたか」

 そわそわとしながら楢沢は訊く。清隆はこともなげに頷いた。

「人が集まる場には霊も集まるという説があります。浮遊霊も含めれば何体かいましたが、人目につくほど力のある霊は一体だけでした」

「それを除霊すれば、噂は消えるでしょうか」

「噂が消えるかどうかはわかりません。それは社会学の領域でしょう。俺に言えるのは、館が建っているこの場は、特別な場所ではないということです。たまに、土地そのものが特殊で、その場にいる者に霊を見せる場合があります。その場合ですと、除霊をしても霊の目撃証言は減らないと思われます。幸い、今回はそういうケースではありませんでしたので、一体を対処すれば、噂の元はなくなるはずです」

 楢沢は、ほう、と息を吐いた。

「それが聞けてよかったです。もし駄目なら途方に暮れるところでした」

「除霊は人目に付きますので、閉館後にまた来ます」

 そう言って、清隆と桜子は一旦辞去した。


 夜。午後八時。非常灯以外の灯りが消えたギャラリーに楢沢、清隆、桜子、そして海人がいた。

「なんで俺まで」

 急に呼び出された海人は不機嫌そうだった。休日の夜にいきなり家に迎えに来られたら、それは不機嫌にもなろうというものだが。

「バイト代出すからさ」

 清隆が真面目くさった口調で言うが、海人の顔は晴れない。

「お金の問題じゃなくて、どうして俺が駆り出されているのかって聞いているんですよ」

「人手が必要になりそうだったから」

「そのための桜子さんでしょ」

「その桜子さんが当てにならないかもしれないから呼んだんだよ」

 それが聞こえた桜子は目を見開いた。

「当てにならないって、どういうことですか。私、ヘマしましたか。足手まといでしたか」

「いや、そういうことじゃなくて……」

「じゃあどういうことですか」

「今回のケースは、そういう可能性もあるっていうか……」

「どうしてですか。ちゃんと説明してください」

「外れたら嫌だから説明しないでおく」

「はあ⁉」

「名探偵は謎解きの時間まで考えを明かさないものだろ」

「誰が名探偵ですって」

 桜子が凄むと、清隆は早々に両手を挙げた。

「冗談じゃん」

「誰が名探偵で、誰が役立たずですって」

「役立たずとは言っていない」

「言いました。当てにならないって、たしかに」

「労働力としては当てにならないかもだけど、別の意味で役に立っているって」

「どういう意味ですか。誤魔化さないでください」

「誤魔化すもなにも、説明していないだけだよ」

「だったら説明を、して、くださいよ」

「そうですよ、俺が休みを返上してまで呼ばれた理由も教えてください」

「清隆さん」

「清隆さん」

「ああ、もう、煩い」

 清隆は手をひらひらと振った。

「楢沢さんが困っているだろ」

 清隆の言葉で視線が集まった楢沢は、身の置き所が無い様子で、半笑いで三人の会話を眺めていた。

 きまりが悪くなって、桜子は小さくなる。海人は平然としていた。大学生の度胸に、清隆は少しだけ驚く。

「よろしいでしょうか」

 楢沢が口を開いてよいと思ったのか、話に入ってきた。桜子は掌を上にしてうながす。

「どうぞどうぞ」

「今、当館は閉館しました。事務室には人が残っていますが展示室は無人です。セキュリティも、まだ有効化していません。ひとまず常設展示室にご案内しましたが、行きたい場所があれば帯同いたします」

「ここが最も、目撃報告が多い場所でしたね」

 清隆が喋る横で、海人が周囲を窺っている。

「海人君は何か感じる?」

「はい、まあ。そんなに嫌な感じではないですけど、何かがいるような感覚はあります。でも、そうですね、絵が原因でしょうね」

「だよね」

 海人が頷く。

「高名な絵師の絵には何かが宿るものですから。この、荒川東陣って人自体は画風のわりに比較的クリーンな方だったみたいですけど。美術館に行くと、変に念のこもった絵なんていくらでもありますし」

「この人の場合は、後から憑いたモノだね」

「そうですね」

 清隆と海人がふらふらと歩き出す。あちらこちらの絵を見ながら歩く二人に、桜子と楢沢がついていく。

「明るいところで見たかったな」

 海人がある人物画をしげしげと見て言う。

「昼間に、普通に来ればいいよ。女の子でも誘えばいいじゃない」

「車が欲しいです」

「たしかに、ここに来るには車が必須だね。バスだと不便だし」

「免許は持っているんですけどね」

「死者と生者が見分けられなくて困らなかった?」

「それがわからないほどこの体質と付き合い短くないです。おっと」

 海人が足を止めた。清隆が分かっていたように、だよね、と呟いた。

「これですね」

 そこに掛けられていたのは、無題、通称東陣のモナリザだった。

「昼間、桜子さんが絵と波長が合った」

「え、私ですか?」

「いきなり欲しがったでしょ。この絵に魅入られた。この絵か、この絵に憑いている霊かはわからないけど、何かに同調してしまった。桜子さんの今日の役割はレーダーだよ。多分、除霊対象と相性がいい」

 清隆は両手をポケットに突っ込んだ状態で、東陣のモナリザに歩み寄る。

「ウチの人間三人中三人がこの絵に反応した。これでもう間違いない。原因はこの絵だ」

「あの、では、どうすれば?」

 楢沢が不安そうに言う。

「この絵に不思議な魅力があるのはわかります。当館でも、東陣ファンの間でも、共通認識です。だからこそ収蔵し、展示しているわけでして。これが原因だと言われても、展示しないわけにはいかないのです」

「でしょうね。最も手っ取り早いのは、この絵を手放すか、処分してしまうことなのですが、そうもいかないでしょう。私も、八百万円の絵をおいそれと処分するよう進言できません」

 八百万⁉ と海人が小声で驚愕した。

「さてさて、これに憑いている霊はどこにいるのか」

 さっきまでとは違って、清隆は大股で歩き出す。

「絵に憑いているけれど、館内各所で目撃されているということは、絵から離れて出歩ける霊のようです。自我がしっかりしている。そのくらいの霊ならば、話が通じる可能性も高い。まずは見つけて、声を掛けてみましょう」

「幽霊と会話するんですか」

「それが俺の流儀というか、やり方です。いきなり有無を言わさず引き剥がすのは乱暴ですから」

 昼間一度見ているバックヤードや事務室といった部屋を見ていく。海人は珍しそうに見ているが、清隆にとっては、昼間見たばかりの二度目ということもあり、目を惹かれはしない。

「いませんね」

 海人が最後尾を歩きながら言う。飽きているというよりは、この仕事を楽しみ始めているようだった。

「向こうも歩き回っているみたいだから、後ろをついて回られていたら永遠に見つからないかも」

「後ろにはいませんよ。何も」

「だろうね」

 清隆と海人にはサカグラシが見えている。そのサカグラシも、何も反応しない。黙って歩いているだけだ。

 そして館内を一周してモナリザの前に戻ってきたとき、見つけた。

 モナリザの前に立ち、絵を凝視する人影を。

「清隆さん、私にも視えます。水飲んでいないのに」

「そう」

「こんなことがしょっちゅうなんですよ。私も見慣れてしまいました」

 楢沢にも見えているらしい。清隆はじっと人影を観察する。

 少し透けている。清隆から見てそのレベルということは、悪霊ほど凝り固まってはいない。桜子からはぼんやりとした人影程度にしか見えていないだろう。

 性別は女。長い茶髪だ。Tシャツにジーンズというラフな服装。夏に亡くなったのか、と想像が膨らむ。

「こんばんは」

 ざっくばらんに、清隆は話しかける。人影は反応しない。

「いい夜ですね。この絵がお好きなんですか」

 桜子たちは少し離れて様子を見ている。

「いい絵ですよね。迫力があって、でも繊細で。重ねた手なんて、本物と見紛うほどのリアリティがある。デッサン力の高さが伝わってきます。モナリザと比べられるだけのことはある、妖しい微笑みもとてもいい。モデルは誰なんでしょうね。ひょっとしてあなた? そんなわけはありませんか。顔が違う。でも、ここに描かれていたのが自分だったら良かったのに、なんてことを考えませんか。背景はどこでしょう」

「やかましい!」

 突然霊が叫んだ。

「折角の夜なんだから、静かに鑑賞させろ!」

「さっさと反応を返してくださいよ。お喋りは苦手なんですから」

「知ったことか」

 霊は怒りの形相に歪んでいた。表情筋という制約を取り払われると、人は怒りの表情のリミットが外れ、おどろおどろしくなるらしい。

 無論、清隆にとっては慣れたものだ。生者相手なら萎縮してしまうが、相手が死者なら怖くない。

「帰れ! もう閉館時間だぞ」

「それはあなたもでしょう」

「私は幽霊だ。そんなもの関係ない」

「ところがそういうわけにもいかないんですよ」

「私を祓いに来たのか」

「場合によっては」

「お断りだね」

 霊の姿が消えた。桜子の、あ、という声が聞こえる。向こうから見ても消えたように見えたらしい。

 消えた。逃げた? いや、これは。

 清隆は動かない。海人が横に並んだ。

「いなくなりましたね」

 二人でモナリザをじっと見る。やはり、海人も同じものを感じている。

 モナリザの中の女性は微笑みを浮かべ、こちらを見ている。じっと目を合わせる。日本人は目を合わせ続けることが苦手だし、清隆もそうだ。だが、目を逸らさない。

 じっと見つめる。穴が空くほど、絵の中の女性から一瞬たりとも目を離さない。

 ふっとモナリザの目が泳いだ。

「この絵の中だ!」

 海人のはしゃいだ声が展示室に響いた。



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