楢沢は経緯を語り出す。
「実は、幽霊は何年も前から目撃されていたのです。警備員、来客、従業員問わず何度も何度も報告されていました」
うんうん、と桜子は頷く。その噂は桜子が学生の頃からあった。昨日今日始まったことではない。
「展示室に、ぼうっと人影が見えるとか、影が横切った気がするとか、誰かの気配がするけど振り返っても人はいなかったとか、そんな、クレーム未満の訴え、というより世間話に近い話は、それこそ珍しくもなかったです」
「その人影は男ですか、女ですか」
助手としてより、心霊マニアとして、桜子は質問を挟んだ。
「見える人と見えない人がいるようですが、見えた人は女だったと言うケースが多いです」
「女。ありがとうございます。続けてください」
「その幽霊はバックヤードや事務室にも時折現れます。私も、誰もいない事務室で人の気配を感じたことが何度もあります」
そこまでいくと、気のせいや思い込みではないかと思えてくる。ささいな物音や遠くで鳴った音を、幽霊のせいだと認識して幽霊話が広がっていくのだ。
ただ、ここの霊は相当存在感があるらしい。その思い込みが起こっても無理なるかな、と桜子は感じていた。
「不気味がられることはよくありました。ただ、何て言うのでしょうか、人は慣れます。多少不思議なことが起こっても、あ、幽霊だね、と流すようになりました。無人のはずの会議室に人影が見えようと、廊下の先に見覚えのない髪の長い女性の後ろ姿が見えようと、また出たんだな、で済ませていました」
桜子は努めて冷静に話を聞いた。
なかなかな体験だと思うが、それが日常と化すほどに、ここの人たちは慣れている。そんなの、羨ましい。学生時代に知っていたら、そのためだけに美術館の事務員に就職しようと思ったかもしれない。
もちろん、心霊体験という意味では「後ろの真実」を越える就職先なんてありはしないけれど。
何にせよ、好ましい。除霊してしまうのが勿体ないとすら感じる。
「それが、対処せざるを得ない事態になったのですか」
「対処せざるを得ない、と言いますか、噂が広がり過ぎている気がしまして。館内は撮影禁止なのですが、心霊写真を撮ろうとするマニアが現れるようになりました。隙あらばスマートフォンで撮影しようと試みるので、警備員が頭を悩ませています」
同じマニアとして、謝りたい気分になった。人間は、自分の趣味のためとなると周りが見えなくなる瞬間がある。大勢が集まればそれが目立つのだ。
それにしても、撮影禁止エリアで心霊写真を撮ろうとするなんて、マナー違反も甚だしい。今はスマートフォンで時間を確認しているのか、カメラを起動しているのかわからない時代だ。対処も困難だろう。
「そして、先週遂に、不法侵入者が出まして」
「不法侵入?」
普通、そこまでやるだろうか。
「動画配信者をご存知ですか。ネット上に動画を上げて、その広告収益で稼いでいる方々なのですが、心霊系の配信者の一人が夜間の当館に侵入しようとしたのです。警備が取り押さえ、警察が連行する事態になりました。警備員は殴られましたし、私も深夜に叩き起こされ、館内を荒らされていないかチェックすることになりましたよ」
唸ってしまう。なかなか人気が出ない配信者が過激なことをして、炎上覚悟で侵入してきた、という流れはありそうだ。そんな方法で人気が出ても長続きしないのは目に見えているが、必死な人間は何をするかわからない。
「そういう経緯がありまして、当館としても、この噂は百害あって一利なし。除霊でもして幽霊には消えていただき、噂の収束を待とうという結論に至りました」
「よくわかりました」
この規模の美術館では大規模な警備を敷くわけにもいかないし、盗撮を完全に防ぐのも難しいだろう。噂が消えてくれるのが一番いいというわけだ。
一旦広がった噂が完全に消滅するかどうかは別の問題だが、少なくとも目撃証言が増えなければ、下火になっていくだろう。
「では早速ですが、館内を案内してください。件の幽霊がいるかどうか、確認してみましょう」
「はい、是非ともよろしくお願いします」
館内を見て回れるように話を進めてほしいと、清隆から指示されていた。それくらいは自分で言えよ、と思いもしたが、助手なので黙っておく。だいたい、コミュニケーション面と運転以外で、桜子が助けになる場面は少ない。
楢沢に案内され、展示室をまずは見て回る。ついでに絵画の簡単な解説も付いてきた。
荒川東陣の作は、紅白の画家と言われるだけあって、明暗のはっきりした作品が多かった。人物画や静物を描いたものが多く、どちらかというと写実的な線に幻想的な色を乗せている。美術素人の桜子にとっても、上手いこと、そして特徴的であることはわかる。好みに嵌まれば、コレクターになる人間だっていそうだ。
「ちなみに、荒川東陣さんの作品を市場で買おうと思ったらおいくらくらいなんですか」
無粋かと思ったが、楢沢は気楽な調子で応える。
「そうですね、物にもよりますが、だいたい四百万円から五百万円が最低ラインかと」
「最低ライン……」
桜子の年収よりも高い。そんなものを買える人間がいることに、格差を感じて絶望しそうになった。
小さい絵なら手が届くのだろうか、と思って展示室を見渡すと、周囲の絵より一回り小さな絵が見つかった。
「楢沢さん、あれは?」
桜子が指さすと、楢沢は一瞬動きを止めた。
「お目が高い、と言うべきでしょうか。あれのタイトルは無題ですが、東陣のモナリザと呼ばれています」
「モナリザ……」
その絵の構図はレオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザによく似ていた。座った女性と、背景に遠くの景色。描かれている女性は日本人のようだし、色合いも東陣ならではの紅白で彩られている。言われなければモナリザと重ねることもないありふれた構図だが、一度モナリザを連想させられると、もうその通りにしか見えなくなった。
「これは、いくらですか」
桜子の口から自然と問いが出ていた。
「市場価値で言えば、八百万円というところでしょうか」
「ください」
「桜子さん?」
清隆の声が耳を通り抜ける。
「いくらでも構いません。買わせてください」
「これは売り物ではないのです。それに、今は売りに出す予定もありません」
「では、どうしたら買えますか。いくら出せば譲ってもらえますか」
「桜子さん、声が大きいよ」
清隆が肩に手を置いた。はっとする。
清隆が触れてくるなんて、記憶にない。転んだって手を差し伸べることにすら躊躇する人間が。
「すいません」
注目を集めていたことを悟り、赤面する。
私は、何を言っているのだ。借金でもしないと買えもしない絵に対し、一体何を。
「この絵は大変人気です。東陣の代表作の一つといってもいいでしょう。だからこそ、当館としても手放すわけにはいかない一点なのです」
楢沢は真剣な表情で語る。清隆はそれを受け流すように展示室をぐるりと見渡した。
「お目が高いっていうのは、それだけの意味ではないのではありませんか」
清隆の口調が滑らかになる。
「ここが、最も目撃報告が多い場所だからではないですか」
「さすがです。試すような真似をして申し訳ありませんでした。仰る通り、常設、特別、合わせて展示室は二十ありますが、この部屋がダントツで目撃されています。特に、このモナリザの前で」
清隆は展示室の隅に目をやっていた。