目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第59話

 狐塚が出て行った後、桜子は比喩ではなく入口に塩を撒いた。

「清隆さん、逃がして良かったんですか」

 受付には、ぐったりした様子の清隆と海人が、椅子の背もたれに寄りかかるようにして座っていた。

 清隆が怠そうに言う。

「あの狐塚って人は俺より上の能力者だよ。結界を簡単にすり抜けた。ここに霊がいることを遠隔地から悟った。それに弟子の対人呪術。俺には効かなかったけど、あれは相当に完成された術だ。一般人ならあれだけでノックアウトできる」

「清隆さんだって、一般人をぶっ飛ばすことは訳ないでしょ」

「蹴り飛ばすのと呪術じゃ、意味が違うよ」

「呪術……田野端さんに呪いの札を渡したのも、ひょっとして」

 ただの思いつきだったが、清隆は頷いた。

「可能性は高い。あの札もかなり高性能な代物だった。こんなに身近に、何人も高位の術士がいるとは思えないしね」

「呪いだけじゃないっす」

 海人が天井を仰いだ姿勢で声を出した。

「殴り合っても、二人がかりで勝てたかどうか。立ち姿でわかるくらい、めちゃめちゃに強いですよ、あの人」

「そんなに?」

「少なくとも、俺一人じゃ相手になりません。全然隙が無かった」

「だったらなおさら、人質を返すべきじゃなかったんじゃないですか」

「もし小間を人質に取ったら、向こうは桜子さんを人質にしただろうね。それを止めることは、きっとできない」

 はあ、と清隆と海人が大きく息を吐いた。どうやら、桜子にはわからない世界で、相当緊張していたらしい。

「どうするんですか、これから」

 清隆は困ったように頬杖をついた。

「とりあえず、様子見といこう。これで下がってくれるかはわからないけど、こちらから無駄に喧嘩を吹っ掛けて藪蛇になるのが一番損だ」

 桜子は不満に思いながら、代案を出せなかった。こちらから襲撃するわけにもいかない。あちらの住処すら知らないのだから。

 だが、知らないで済ませていいものか、不安がよぎる。一方的に情報を握られている。しかも自分たちより強い相手に。

 それは、烏丸のときと同じ構図だ。

「そんなに凄い能力者なんでしょうか」

「どうして」

「だって、ダウジングで、私が核だ、なんて言ったんですよ。私が何の核だっていうんですか。「後ろの真実」の核は清隆さんでしょう」

 清隆がいないと、このお化け屋敷はやっていけない。幽霊を可視化する術は清隆のものだし、この物件だって清隆のものだ。スタートさせたのも清隆。海人をスカウトすることになったきっかけも、清隆が受けた依頼だ。どう考えても桜子ではない。

 だが、意に反して清隆と海人は頷かなかった。

「あれは、多分、能力の多寡を探知していたんじゃないと思う」

「じゃあ、何を」

「縁、かな」

 桜子には、清隆が言っている意味がわからなかった。

 ただ、海人と清隆のやけに深刻そうな顔だけはわかり、手持無沙汰に背中を掻いた。


 その建物は白を基調とした直方体の組み合わせでできていた。二階部分が突き出したり、黒く縁どられた出窓が付いていたりと、洒落た外装で陽光の下、佇んでいた。

「涼しいですね」

 愛車のフィアットを下りた桜子は、蒸し暑さが和らいだ山の空気に顔を晒し、駐車場でステップを踏むように半回転した。

「本当だ。空気が違う」

 遅れて車を下りた清隆も、普段との差をはっきりと感じているようだった。

 「後ろの真実」があるエリアは比較的海抜が低く、海からの湿った風が夏になると吹き込んでくる。梅雨も終わったこの季節、湿度はましになったが代わりに気温が上昇し、冷房を入れるか除湿を入れるか悩む頃合いになっていた。

 だが、ここは違う。山の麓に建てられた荒川東陣記念館は、一種静謐とも感じられそうなほど、街の喧騒から離れ、山の爽やかな空気に包まれていた。

「晴れているのに暑くないって、なんだか不思議な感じですね」

 標高が高いせいか、太陽の光はやけに眩しい。桜子は手で庇を作って空を見上げた。

「こんな場所があったなんて、地元とはいえ、知らないもんだな」

「私は知っていましたよ」

「へえ。美術に興味あったの?」

「いえ、そういうわけではなく。ここ、荒川東陣記念館は界隈じゃ有名なんです」

「桜子さんが言うんだから、その界隈っていうのは……」

「そうです」

 桜子が目を輝かせる。

「ここは心霊スポットとして、地元じゃ有名なんです」

「なるほど。俺に依頼が来たのは、気のせいでも悪戯でもなさそうだね」

 リュックを背負い、歩き出す。桜子も小走りに続く。

「だから、私は結構念願叶って来られたわけですよ。普段、美術館なんて行かないもので」

「行けば良かったじゃん」

「そんな不純な動機で来たら迷惑でしょ」

「幽霊に会いに美術館に行くのは悪いのか? 何を目的にしているかは人それぞれだろ。模写のために美術館に行って長時間絵の前に居座る人だっているんだ。それが許されるなら、幽霊目当ての客なんてささやかなものだろ」

「夜の美術館に忍び込む方法も思いつきませんでしたし」

「それは犯罪だな。というか、幽霊美術館って噂が立ったってことは、昼間の普通の客が噂しているんじゃないのか。だったら昼間でも会えるんじゃね」

「昼間に幽霊に会えても、雰囲気がないじゃないですか」

「毎日霊と話している奴の言うことかね」

 建物に入り、受付で清隆の名前を出すと、すぐに奥へと通された。なお、当然ながら受付で清隆は一言も発していない。やり取りしたのは全部桜子だ。

 応接室で待たされ、茶を啜っていると、小太りで七三分けに髪を分けたスーツの男性が現れた。腹の辺りが膨れているのがジャケット越しにわかる。

「よくぞいらっしゃいました。荒川東陣記念館の館長を務めております、楢沢と申します」

「陰陽師の安倍清隆です」

「助手の鬼頭桜子です」

 もはや定番となった名刺交換を行う。桜子は今月できたての名刺を差し出した(なんと、正式に陰陽師業務の助手として名刺が刷られたのだ)。

 荒川東陣は油絵を得意とした日本人画家だ。明暗をはっきりとつけた色使いが特徴で、風景画、人物画問わず迫るものがあるとして、一部のコレクターに人気を博している。特に、黒と見紛えるほどの濃い赤と、微妙に色を混ぜた白を好んで使うことから、紅白の画家と呼ばれることもある。

 と、楢沢は開始数分を使って滔々と説明した。

「当館では、荒川東陣が生誕した地にちなんで、絵画の蒐集と展示を行うことを目的としております。半分は常設で東陣の作を。もう半分は特別展として、東陣ゆかりの芸術家の作品を展示することとしています」

「た、た、建てたのは、東陣ですか」

 清隆が質問した。

「いえ、東陣のご遺族です。東陣本人は既に死去しており、ご遺族が手元に残った作品をまとめて展示する場として作ったのが始まりと聞いています。単に売ってしまっても良かったのでしょうが、そこは、思うところがあったのでしょう。一度散り散りになったら二度と集まらない。そういう確信があったのだと思います」

「コレクターからは、その、売ってほしいとせがまれるのではありませんか」

「せがまれますねえ」

 楢沢はふにゃりと笑った。

「実際、数年に一点程度、世に出すことはあります。集めてばかりですと、管理しきれなくなってしまいますからね。なにぶん、小さな美術館なので、保管場所には限りがあります」

 そこで楢沢は、居住まいを正し、ネクタイに触れた。桜子も気持ちを引き締める。挨拶はここまでだろう。

「ところで、あなた方をお呼びした理由ですが、当館には幽霊の噂があります」

 来た、と桜子は胸を躍らせる。

「どうやらその幽霊は東陣のファンらしいのです。どうにか、当館から退去していただけるように話をつけていただけないでしょうか」

「ファン?」

 頓狂な声が出てしまい、慌てて口を閉じた。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?