桜子は海人の後ろに隠れるように、人影を覗き込んだ。
薄い。後ろの壁が透けて見えている。清隆の水を飲んだ時は、たいていの幽霊がはっきり視認でき、生者と区別がつかないほどになる。それなのに、この人影はぼんやりしていてはっきりと顔や服装がわからない。
「サカグラシさん、わかる?」
海人がいつもと変わらない口調で訊く。
「これは生霊だな」
「だよね。まだ死んでいない。半端に意思と魂が分離してやってきているだけだ」
「
「俺ほどじゃないよ」
海人は女の生霊を気にする様子もなく寝室に入り、クローゼットを開けた。
「桜子さんはリビングを調べてください。俺はこっちやるんで。サカグラシさんは気がつくものがあれば教えて」
海人がさりげなく生霊のいる部屋を担当してくれてほっとする。幽霊が見えることは興味深いし怖いもの見たさが刺激されるのだが、触れ合えるような近距離で作業をするのはさすがに怖い。
ありがたくリビングを調べさせてもらう。ついでにキッチンも見ておく。
テレビラックの下、キッチンの棚、小物入れ、次々に開けては見ていく。呪いを宮島に行使した証拠が見つかればよいのだが、一体全体、何が見つかれば呪いの証拠となるのかはわからない。禍々しいオーラでも放ってくれていればよいのだが。やっぱり、清隆が家探しして、桜子が福井を尾行した方が良かったのではと思わないでもない。万が一福井が尾行に気付いたときのことを考えると、男である清隆の方が尾行に適任なのは、わかっているのだが。
リビングの小さな本棚を前に立つ。ここは避けて通れまい。呪い関連の書籍がカモフラージュして置いてある可能性だってある。桜子は本のカバーを外しながら、一冊一冊中身を確認していく。本の間に何か挟まっていないかも注意して見る。
カチン、と音が響いた。顔を上げると、生霊の人影が歯を鳴らしている。何度も、何度も鳴らす。
「気にしないでください」
海人がこちらを見もせず言う。
「家、というか福井を守っている気になっているんですよ。無視でいいです。どうせ何もできない。憑いているのは福井であって俺たちじゃありませんから」
そうは言われても気になる。
「海人君、冷静だね」
「普段から見ていますから」
「話しかけたら答えてくれると思う?」
「無理でしょうね。こういう手合いは目的、つまりこの場合は福井だけど、そいつ以外には興味を示さないものなんで。それより、全然ありませんね。怪しいものが見つからない。サカグラシさん、どう思う?」
「同感だな。女の生霊以外に、この部屋には悪いものがない。普通の家に住む、普通の男なんだろうよ」
「だよね。何かあれば、わかりそうなものだけど」
その後も一時間ほど捜索して、何の成果もなく退散した。
最後まで、女の生霊の姿をはっきりと見ることはできなかった。
「ということで、福井が呪いをかけた犯人であるという証拠は見つかりませんでした」
福井の部屋を捜索した後、「安倍霊障相談サービス」の応接室で桜子は宮島に報告していた。今日は清隆に加え、海人も同席している。宮島は海人の顔を見て頬を赤らめていたりもしたのだが、海人の方は完全にいつも通りだった。まあ、大学で二十歳やそこらの女の子たちに囲まれている海人だ。三十手前の女なんておばさんに見えることだろう。
そこまで考えて、桜子自身もそのおばさんに片足突っ込んでいることに思い至った。
まだ、まだ二十五だし!
「そうですか。福井が処分してしまったのでしょうか」
「その可能性は低いですが、あります。まあ、どうやって呪いをかけたのかはっきりわからない以上、たしかなことは言えませんが」
例えば山で藁人形に釘を打ち込む呪いだったならば、呪いの証拠品は山に残っている可能性がある。そうなれば探し出すのは困難だ。
「清隆さん、何か補足することがありますか?」
やけに静かだったので、清隆に話を振ってみる。清隆は何かを見る目で宮島の背後を見ていた。
そして、思い出したように口を開いた。
「今日、田野端さんはどうされましたか? 一緒に来ていただくようにお願いしましたが」
「華奈子は体調が悪いようで、来られませんでした」
「体調が……電話をすること、可能ですか?」
「できると思いますけど、どうしましたか? 華奈子が何か?」
清隆は腕を組んで目を閉じた。
「いえ、はっきりとはわからないのですが、気になって」
「短い時間の電話くらいならできると思いますよ」
宮島は釈然としない様子ながらも、スマートフォンを操作し始めた。その間に、海人が耳に口を寄せてきた。
「この人は、福井の部屋にいた女じゃないです」
目線と首肯だけで、了解、と答える。あれは誰だったのだろう。宮島から振ったのだということだし、宮島でないのは納得だ。それにしても、尋常でない思い入れを感じたのだが。
「繋がりました」
「スピーカーにしてください」
「はい。もしもし、華奈子?」
「もしもし。どうしたの」
桜子はギョッとした。同時に、激しい困惑が襲ってくる。田野端の声には、聞き覚えのあるゴロゴロという音が重なって聞こえてきたのだ。
宮島にも聞こえたようで、視線が清隆を向く。
「電話というのは、文明の利器でありながら意外とあの世に近いらしいんです。曰く付きの物件に住んだら、いないはずの声が電話に混ざるようになった、という話は枚挙に暇がありません」
「え、何ですか?」
電話の向こうの田野端が訊き返す。こんな騒音が鳴っていたら、まともに会話なんてできないだろう。
清隆が声を張り上げる。
「今、行きます。それを祓いましょう。宮島さん、田野端さんの家まで案内してください。海人君も来て」
その号令で、全員が立ち上がった。
宮島の車に海人が乗り込み(宮島は少し嬉しそうな顔をしていた)先導、桜子のフィアットに清隆と桜子が乗ってついていく形になる。
車を出してすぐ、清隆が口を開いた。
「多分、事の全体像がわかったよ」
「全体像?」
「ちょっと、桜子さんに上手いこと言ってほしい」
田野端のマンションに着くと、そこは静寂だった。応対した田野端は、少し前の宮島のように目の下に隈をつくり、明らかに疲弊していた。
「うわ、うるせえ」
海人がぼやく。今、桜子は水を飲んでいないため、呪いを見ることも聞くこともできない。
「蛙が部屋の中にいる。これが呪いってやつですか。初めて見た」
宮島が海人に話しかける。
「本当に蛙がいるの? 私の部屋に出た蛙と同じなのかな」
「多分、同じでしょう。ねえ、清隆さん」
「同じものですね、間違いなく。田野端さん、一応確認しておきますが、除霊には料金が発生します。行いますか」
田野端と清隆は具体的な値段の交渉を始めた。その隙に、海人がまた耳に口を寄せてくる。
「あの人ですね。福井の部屋にいた女」
「え?」
「福井に生霊を飛ばすくらい好きなんでしょうね」
桜子はごくりと唾液を飲み込んだ。
福井と付き合っていたのは宮島だ。その宮島ではなく、友人であった田野端が福井を好きでいるという。
どういうこと? いや、どういう心境?
自分の好きな人と友人が付き合っているのを、傍で見ていた、ということ?
清隆が話した全体像を補強する情報に、確信が深まる。
「わかりました。その料金で構いません。除霊をお願いします」
「承知しました」
清隆と田野端の話がまとまった。
呪いは簡単に祓われ、田野端はぐったりと座り込んで深い、深いため息を吐いた。
友人を気遣う宮島と、それを眺める清隆。面白そうに観察する海人。桜子は気まずい思いで、大人数でぎゅうぎゅうになった部屋に立っていた。