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第52話

 桜子は本能的な危険を感じて目覚めた。地震が来る前に似た、初期微動を感じたような感覚。

「起きたね」

 清隆が壁にもたれたまま目を開けていた。桜子は眉間に皺を寄せながら辺りを見渡す。

「何ですか、この音」

 ゴロゴロ、グルグル、と形容すべき音が部屋に満ちている。雷が鳴っているような音と宮島は表現したが、桜子にはそうは聞こえなかった。雷の音には一瞬ならではの儚さがある。強烈でも、一瞬で終わる。これは、だらだらと続く、精神を削る音だ。こんなものが一晩中流れていたら堪らない。

 もぞもぞと宮島が動き、目を覚ました。苦しそうに起き上がる。清隆を捉えて言う。

「安倍さん、聞こえますか」

「ええ、よく聞こえますよ。桜子さんにも聞こえているみたいです」

 気配を感じたのか、田野端も起きた。

「どうしたんですか」

「田野端さんは聞こえませんか」

「何をです?」

「……なるほど」

 清隆が何かを納得したように頷いた。

「聞こえる人と聞こえない人がいるんですかね」

「そうみたい。霊感の差かな」

 騒音を切り裂くように、犬の鳴き声が響いた。何度も、何度も吠える。

「これは、トマの声ですか?」

「ええ、間違いありません。あの子の声です」

「ふうん」

 清隆はカーテンを開け、ベランダを見た。桜子の目には何も映らない。

「なるほどね。だいたい状況はわかりました」

 言いながら、清隆はチェイサーにしていた水をそれぞれのグラスに注ぎ、手をかざした。

「幽霊が見えるようになる水ですね。宮島さん、田野端さん、これを飲んでください。そうしたら何が起こっているのかわかります」

「幽霊が見える?」

 訝しむ田野端に対し、宮島は迷わず水を煽った。まだ酒が残っているのかもしれない。

 桜子も遅れて飲む。ベランダに目を戻したとき、上半身に一斉に鳥肌が立った。宮島と田野端も短い悲鳴を上げた。宮島が桜子の背中側に回り、震え始める。

 ベランダの手すりの上には、超巨大なウシガエルがいた。

 大きい。小学生の背丈くらいの大きさがある。それがベランダで鳴いている。口の下を震わせて、ゴロゴロ、グルグルと騒音を出している。

 ベランダの中には、ゴールデンレトリーバーがいた。威嚇するように尾を立て、喉を枯らさんばかりに吠えている。

 清隆が手でその光景を差した。

「これが、騒音の正体ですね」

「清隆さん、これは動物霊ですか?」

「いや、こんな巨大な蛙は存在しない。精霊や妖というほど高度な存在でもない。これは、蛙の姿を象った呪いだよ」

「呪い?」

「言葉通り、誰かが宮島さんを呪ったんだ。呪いの作法は正統なものから邪道なものまで数多ある。丑三つ時に山に入り、藁人形に釘を打つ、なんていうのは有名だね」

「誰かが、それをしたんですか」

「いや、呪いの藁人形くらいじゃ、現実的な被害に至ることは難しい。ストレス発散に近い、おまじないだよ」

 清隆はじろじろと蛙を眺める。

「睡眠不足っていうのは、下手すれば死に至る重大な被害だ。おいそれと、そのレベルの呪いを行使することはできない。きちんと力のある人間が、由緒ある手順を踏んで、ようやく風邪をひく程度だっていうのに、この蛙はしっかり力を持っている」

「トマは?」

「見ての通り番犬さ。この蛙が部屋の中にまで入って来ないように押しとどめているんだ。トマがいなかったら部屋の中で鳴かれて、もしかしたら一日中この音と付き合うことになったかも。成仏せずに何から守っているのかと思ったら、こんな呪いから主を守っていたんだな」

 清隆はリュックからウォッカを取り出した。

「ワインじゃ、呪いを祓うには弱いんだよな。サカグラシ」

「あいよ」

 どこにいたのか、桜子の目にサカグラシが映った。音もなく足元をすり抜けていく。

 清隆がウォッカを一気に飲む。

「焼け、サカグラシ」


「呪いなんて誰が」

 一晩明け、幾分すっきりした顔になった宮島たちと、喫茶店のモーニングを食べに出ていた。宮島は久しぶりの熟睡だったらしく、蛙を祓った後、朝の九時まで死んだように眠っていた。

 コーヒーとトースト、ゆで卵の朝食を食べながら、宮島は不安そうに言った。

「呪いってことは、自然発生するものじゃないってことですよね。じゃあ、私は呪われるほど恨まれていたってことになりませんか」

 桜子はどう答えるべきか、咄嗟にわからなかった。気にするな、と言いたい気持ちはある。恨みなんて知らず知らずに買うもので、気にしていたらキリがない。だが一方で、白黒はっきりつけたいと思う気持ちも分かるのだった。形はどうあれ攻撃された。それを放置すれば、二撃目、三撃目が来ないとも限らない。誰に敵意を持たれ、危害を加えられたのか、その意思を持つのは誰なのか、次にどんな行動に出るのか。そういうことを曖昧なままにした結果が烏丸の一件だ。冗談ではなく生き死にに繋がる。

「清隆さん、呪いの発信源を辿ることはできないんですか」

「無理だな。一応は繋がっていたはずだけど、それを逆探知するような術は、俺には無い」

「そうですか」

 言えることも提案できることもなくて、黙々とトーストを口に運ぶ。コーヒーを含んだ時、田野端が口を開いた。

「福井のやつじゃないかな。あいつが、栞に振られた腹いせに呪ったってこと、考えられない?」

「そんなことあるかな」

 桜子が口を挟む。

「その福井さんとは、宮島さんの元彼ですか?」

 宮島は誤魔化すように笑った。

「二か月くらい前に別れたんですよ。一応、こっちから振ったかたちでは、あります」

「蛙が現れたのはいつからでしたっけ」

「三週間前くらいからですね」

「時期としては、外れていないですね」

 桜子の脳が回転を始める。呪いの根本を絶たなければ、宮島が心から安心して暮らすことはできないだろう。呪いが破られたと知れたら、次は物理的な手段に出るかもしれない。そのコストとリスク、手段と落としどころ。

「清隆さん、その福井さんを調べてみませんか。もし呪いの犯人が福井さんなら、ちゃんと話し合うべきだと思います。そして、二度と近づかないって約束させましょう」

「探偵でもするってこと?」

「まあ、そうとも言います」

「福井が犯人じゃなかったら?」

「調査はそこで終わり。宮島さんには、呪いなんて気にせず、そんなこともあったなあ、という程度の認識で暮らしてもらいましょう」

 清隆は無表情にゆで卵をかじり、視線を桜子から宮島に持って行った。

「追加料金になりますが、やりますか?」

「他に心当たりもありませんから、お願いします」

 清隆は、心当たりねえ、と呟き、コーヒーを飲んだ。


「何度も言うようだけどさ、俺、空き巣じゃないんだけど」

 宮島から聞いた福井のアパートの玄関前に、桜子と海人は立っていた。今、清隆は外出していった福井を尾行している。福井が帰宅しそうになったらすぐに連絡が入る手筈だ。

「まあまあ。バイト代出すからさ」

「桜子さんって、清隆さんの除霊の手伝いをほぼ無償でやっているんでしょ。物好きというか、お金貰ってもいいんじゃないですか」

「お金を貰えるほど役に立てないからさ。荷物持ちや運転手として、ついていかせてもらっているだけだよ」

「それでも充分仕事でしょ」

「これは、私の道楽みたいなものだからさ」

「道楽でここまでしますかね。犯罪行為ですよ」

「鍵が開いている部屋に入るんだから、不法侵入というべきか微妙なところじゃない?」

「鍵はこれから開けるんですよ。俺が」

 海人が呆れたように言い、人差し指をドアに押し当てた。念動力を使うとき特有の空気がざわめく感覚が桜子に伝わってくる。

「はい、開きました」

「手際がいいね」

 十秒もかかっていない。

「ひょっとして、鍵開けの練習でもした?」

「昔、力を自覚したとき、訓練の一環でさせられました。ドア越しに鍵を開ける練習です。家の鍵を忘れたときにも家に入れるようにって」

「随分庶民的な危機を想定していたんだね」

「世界の命運をかけた戦いにでも備えておいた方がよかったですか?」

 海人はドアノブを捻って中に入る。

「時間もあまりないので、水は飲んでおいてくださいね」

「もう飲んでいるよ」

 言わずもがな、幽霊を視認できるようになる水だ。呪いに関連した物品を探すのだから、それを見つけるための目が必要になる。足元にいるサカグラシだって既に見えている。今日は清隆と別行動で、サカグラシの感覚、海人の感覚、桜子の目の三つで家探しすることとなっていた。

 福井の家に忍び込む。宮島に聞いたところによると、間取りは1DK。寝室が奥にあって、手前にリビングダイニングがある。

 トイレや風呂はスルーして、まずはリビングに向かう。すると、先に行っていた海人が寝室の前で立ち止まっていた。

「海人君、どうした……」

 言葉を失った。

 薄い人影が、寝室に立っていた。

 それは大きく口を開け、カチン、と歯を鳴らした。



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