清隆の自宅兼「安倍霊障相談サービス」に宮島と田野端が現れた時、桜子は眉間に皺を寄せてしまった。
やつれている。
宮島と前回会った約一週間前と比べて明らかに衰弱していた。目の下に隈ができ、肌も荒れている。顔色も悪い。
「こんなこと、誰に相談すればいいのかわからなくて。安倍さんに相談すればいいのかも、実は自信が無いんです」
「騒音と、トマの鳴き声が一晩中止まない、という話でしたね」
「はい。深夜二時頃になると雷が鳴っているようなゴロゴロという音が聞こえてきて、次いでトマの吠える声が聞こえるんです」
「それは、遠くから聞こえる感じですか?」
「いえ、すぐ近くで聞こえます。でも、部屋の中ではないというか」
「わかります。感覚の話ですが、そういうのはあてになります」
清隆は会うのが二度目だからか、除霊モードに入っているのか、スムーズに喋る。宮島の弱り方を見て緊急事態だと悟ったのかもしれない。
「外から聞こえてくる感じなんです。それで窓を開けてベランダに出ると、すぐ近くに感じます。でも、音源がわからないんです。不思議なんですが、アパートの住人は気づいていないみたいです。聞こえていたら絶対に寝られなくて苦情を出すはずなのに、今のところ私しか反応していないように思います」
桜子はその様子を想像する。
ベランダに発生した謎の音源。宮島にしか聞こえず、そしてなぜか死んだ犬の鳴き声まで響く夜の部屋。
いかにも怪異っぽい。悪戯や自然現象と考えるには、不自然がすぎる。
「あの、これって除霊でなんとかなるんでしょうか。というか、霊障なんでしょうか」
宮島が、おずおずと聞く。一般人が陰陽師に依頼することは滅多にない。詐欺師やインチキだと疑われていたとしても不思議はない。一方で、頼れる相手もいない。そんな葛藤を内心に抱えたような踏み込み切らない態度だった。
そりゃあ、そういうスタンスになるよね。
桜子は、任せてください、と元気付けてあげたくなったが、それを言うのは清隆の役目である気がしてやめておいた。今はまだ、迂闊なことを言うタイミングではない。
清隆は宮島をじっと見て口を開かない。何かを考え込んでいるような態度に、その場の誰も何も言えなかった。
「なるほど」
やがて清隆が独り言のように呟き、視線を宮島から外した。
「本物ですね。霊障の一種に間違いないでしょう」
「何か感じました?」
桜子が訊くと、清隆は頷いた。
「はっきりしないモノだけれど、何か憑いている。夜限定で発現するのかもしれない。家に憑いている、という感じではなさそうだけど」
清隆は立ち上がった。
「とりあえず、宮島さんのお宅に行きましょう。夜になれば出てくるというのなら、待ち受ければいいだけです」
一行は宮島の自宅である、ワンルームマンションに移動した。玄関先で、「片付けるので少々お待ちください」と待たされる一幕があったが、特段問題なく入れてもらえた。桜子だって、突然家に入れてくれと言われたら少々困るくらいには自宅は散らかっている。
それよりも、清隆が何を見て、考えているのかが重要だった。
「何か感じます?」
玄関先で待たされている間に訊いてみると、清隆は困ったように唸った。
「よくわからないんだよね。単に厄介な霊が憑いたのなら、それが見えるはずなんだ。だけど、宮島さんにはトマ以外の霊が憑いている様子がない」
「じゃあ、この部屋に問題が?」
「その可能性は高いと思う。だとすると、どうして急に霊障が始まったのか、という点も問題になるわけだけど。最近骨董品を買ったとか、そういう事情があるかも」
「物に憑いているケースですね」
「そう。その物品を手放せば解決する、かもしれない」
お待たせしました、と言って宮島がドアを開けた。その瞬間、桜子は違和感を覚えて思わず足を止めてしまった。
生臭い、ような。
食べ物が腐った臭いではない。魚を捌いた後のような臭いとも違う。どこか、遠い昔に馴染んだ臭い。
臭いに思い当たり、手を打ちそうになった。
そうだ、これは、金魚の水槽の臭いだ。
桜子が遅れて部屋に入る。キッチンスペース、テレビ、パソコン、ベッド……。水槽は無い。何かを飼っている様子もない。
部屋の中は清潔で、キッチンに生ごみが溜まっているということもなかった。もちろん、片付けられたから見えないという可能性もあるが、なんとなく、宮島はそういう生活をしていないように思った。付け焼刃の片付けなら、それとわかる。
清隆は宮島に許可を取りながら、あちこち見て回っていた。クローゼットの中、浴室、トイレ、そして問題のベランダ。
「どうでしょうか」
一通り見て回って、宮島が不安そうに訊く。清隆は首に手を当て、ぐるぐると部屋の中を見渡した。
「妙な気配はありますが、何もいませんね」
「妙な気配?」
「霊にしては、やけに微かな気配です。おそらくこの部屋に今はいません」
「そんな。でも私はたしかに……」
大きな声を出しそうになった宮島に、清隆は両手を胸の前に挙げて止める。
「嘘だとは思っていません。今はいないと言ったのは、夜になれば現れるという意味です。騒音はいつも夜二時ごろと仰っていましたね。それまで待たせてください」
「じゃあ、それまではどうしましょう」
桜子が誰にともなく問うと、宮島が手を挙げた。
「あの、陰陽師について取材させてもらえませんか」
「取材?」
清隆がきょとんと返す。
「ゆっくりお話ししたかったんです。本物の陰陽師がどんなことをしているのか、これまでどんなことをしてきたのか、お酒でも飲みながら聞かせてください」
ライター魂というのか、野次馬根性というのか、自分に何かが降りかかっているという状況にも拘わらず、宮島は仕事熱心だった。スーパーで買ってきたワインボトルとつまみで夕暮れ時から飲み始め、宮島は清隆と桜子を質問攻めにした。
「陰陽師の修行があるんですか?」
「これまで一番手こずった除霊は?」
「霊が見えて困ることはありますか?」
「陰陽師ってローン通るんですか」
清隆は真面目に答えることもあれば、曖昧に笑って誤魔化すこともあった。特に、一番手こずった除霊に関しては苦虫を嚙み潰したような、渋い顔をしていた。清隆の過去は桜子もぜひ知りたいところであったが、宮島の質問からは、あまり見えてこなかった。元々、自分語りが苦手な人である。質問に答える形とはいえ、清隆は曖昧に笑ったまま口が重かった。
田野端はそんな宮島を見ながら、時折桜子と清隆に話しかけては場を回していた。田野端の方が良く状況を見ているようで、要所要所で宮島を諫めたり、言葉を足したりしながら話を繋いでいく。
そして一時間も経つ頃には、宮島は完全に寝てしまった。
「すいません、この子、興味があることには遠慮を知らないので」
田野端はベッドから毛布を引っ張って、宮島に掛けてやっていた。
清隆は少し疲れたのか、壁にもたれて目を閉じている。
「まあ、このところまともに寝られなかった反動みたいなものでしょう。疲れていると酔いも早いですから」
「そういう陰陽師さんは、全然酔っていないように見えますけど」
桜子は完全に酔う前にワインを飲む手を止めていたが、清隆は宮島にペースを合わせてずっと飲んでいた。グラスで五杯くらいは軽く空けている。
「まあ、俺の肝臓は宇宙なんで」
そうでなくては、酒を司る猫又に魅入られまい。桜子も、清隆が酔ったところを見たことがない。
清隆は眠る宮島を見下ろし、溜息を吐いた。
「それにしても、一時間で寝落ちするくらいの寝不足に追い込まれていたってことの方が可哀想ですよ。このまま寝かせておきましょう。残った酒は俺たちで片付けるってことで」
結局、三人で楽しく夜が更けるまで飲むことになった。お酒を買い足し、食べ物を出前し、田野端のカメラマン苦労話が花を咲かせた。
地響きのような音が聞こえてきたのは、宮島が言った通り、午前二時を過ぎた頃だった。