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第47話

 桜子は逃げていた。

 おい、と後ろから声がかかる。振り返りたくないのに、視界がぐるりと回った。

 そこにいるのは、座り込んでいる烏丸だ。「後ろの真実」の階段に座り込んで、膝に顔を埋めるように項垂れた、何の行動力も感じない烏丸。

 だが、怖い。目が逸らせない。

 烏丸がゆらりと立ち上がった。驚くと同時に納得する。今日は、そんな気がしていた。

 おい、と再び声が聞こえる。目の前の烏丸から発された声なのか、それとも違う誰かなのか、桜子にはわからない。清隆を呼ばないと、いや、清隆はいない、どうしてだっけ。思考が乱れ、まとまらない。

 振り返って、走る。とにかく距離を取りたい、そればかりが足を突き動かした。アレに捕まってはならない。きっと殺される。

 見慣れた廊下を駆け抜け、エントランスに出る。誰の姿もない。鈴木も、般若も、浅田も巾木も、サカグラシの姿すらない。

 清隆さん!

 叫んだ声は静寂に吸い込まれる。

「桜子、待ってくれよ」

 記憶通りの烏丸の声だけが、聞こえてくる。烏丸を殺した日の雨音さえ再生されそうだった。追いつかれる前にと、もつれる足でエントランスから外に飛び出した。足が進まない。もっと速く、と気ばかり急いて、体は一向に進まない。

 車に乗れば、と駐車場を見ると、受け継いだばかりのフィアットが無かった。私はどうやってここに出勤してきたのだろう。無いものは仕方ない。走って烏丸から距離を取る。

 自分の息の荒い音が聞こえる。「後ろの真実」の傍には川が流れていて、昼間は綺麗な姿を見せてくれるのだが、今はそんなものに気を払っていられない。逃げないと、逃げないと。

 気付くと雨が降っていた。

「待ってくれよ、話をしようよ」

 桜子は住宅街を走っていた。大雨の中、烏丸が半笑いで話しかけながら追ってくる。

「桜子がいけないんだ。話を聞いてくれないから。こうするしかないじゃないか」

 いつか、どこかで聞いたような台詞。顔に当たる雨粒が鬱陶しい。手には何も持っていない。傘も、鞄も、武器になりそうなものは何も。

「桜子」

 すぐ近くで声がして、咄嗟に足を止めて振り返り、右手を払った。烏丸の横っ面に当たり、よろめく。腰が右に直角に曲がった状態で止まった。

 その烏丸の左目がドロリと溶けるように眼窩から落ちる。桜子は絶叫して尻もちをついた。

「桜子、俺を祓ったつもりになっているなら、甘いよ。俺たちはまだ繋がっている。俺をお化け屋敷のキャストとして取っておこうなんて、都合のいいことがあると思っているの? いつか、すぐにでも、俺は君の元へ行くからね」

 烏丸が笑う。左目をぶら下げて、腰が右に曲がった状態で。

 誰か、誰でもいいから助けて。

 何度も転びながらその場を離れる。私は何を思い上がっていたのだろう。清隆といくつかの怪異を相手に立ち回って、制御できる気になっていた。

 こっちだよ。

 不意に声が聞こえた。

 こっち。

 声に引っ張られるように住宅街を曲がる。すると景色は一変し、鬱蒼とした樹々に挟まれた獣道になった。走り続ける体力が無くなり、息を切らせながら歩く。後ろから烏丸が追ってくる気配は感じられていた。

 アレは、良くないモノだ。

 助けて。

 桜子を呼ぶ何かを目指し、思考を散り散りにさせながらひたすら走る。滝に立つ神と目が合った気がした。

 あなたは、どうして。

 どうして、何なのだろう。言葉が続かない。神の目が光っているような気がするが、意識が虚ろでそれに何の意味を見出せばいいのかわからない。

 社が現れた。腹神社、と貧相な看板が名前を示している。足神社よりも一回り小さな本殿だけで構成された神社だ。桜子を呼ぶ声はもっと上から聞こえる。腹神社を通り抜けると、まだ山道が上に向かって続いていた。

 行かないと。烏丸に捕まる前に辿り着かないと。細い山道を延々と登っていく。いつまで経っても着かないが、不思議と道を間違えたのではないかと不安になることはなかった。だって、ずっと声が聞こえている。

 声? 誰の?

 山道を登り詰めた先に、首神社はあった。辛うじて神社とわかる程度の小さな社が建っているだけの空間だった。参道の脇に大きな樹が生えていて、一輪の花を咲かせている。

 春待神社の、最上部。首神社。どうして私はこんなところに来たのだろう。海人と聞き込みをして、清隆と合流して、今日は遅いからひと眠りしようと、足神社で雑魚寝して……。

 ふらふらと社殿に近寄ると、夜にも拘わらず視界が晴れた。見上げると巨大な月が照らしている。

 大きい。まるでこの世じゃないみたい。

 視線を下ろすと、人が地面に横たわっていた。この人たちも何かから逃げてここまで来たのだろう。だいたい十人くらいが目を閉じ、動かない。

 ちりちりとこめかみが熱くなった。何か、何かを忘れている。私はここに、何をしに来た。

「お手柄だ、桜子」

 聞き馴染んだ声に驚く。音源を探すと、参道の入口に座る猫がいた。

「清隆、こっちだ。この樹と花が怪異の本体だ」


 清隆はサカグラシの呼び声に、足を速める。海人も続いて、首神社を目指す。

 深夜、丑三つ時。

 昨晩調査を終えた清隆たちは、怪異の正体を大体掴んだ。緋花村には、昔から祀られてきた神が二柱いた。緋花村の村内にある神社に祀られている、この土地全体を守護する神と、足神社、腹神社、首神社が祀るもう一柱の神。前者は病を遠ざけ、災いから村を守る守護の神。後者は豊穣を司る農業の神。

 守護の神は、村に置かれた神社に参詣し、盆や正月に祀られる。一方で、豊穣の神は年に一度、神輿を守護の神の神社から足神社、腹神社を通って首神社まで奉納することになっていた。その形態が確立される出来事として、今と同じような村人の失踪事件があったとされている。時の神主は神と対話し、奉納を代々続けていくことで落ち着いたのだとか。

 つまり、今回の事件は、三年前に神輿の奉納を止めたことによる、神からの反発。そう考えることができる。守護の神は、それを知らせて滝つぼに現れた。この山で異変が起こっていることを人間に示してくれていた。

 アンテナが鈍ったのも、祀りを止めたのも、全ては人間の都合だったのだ。

 足神社に残された書物によると、豊穣の神の御神体は、一本の樹だという。首神社の小さな社殿には鏡一つ無いそうだ。その樹が季節外れの花をつけるとき、災厄が起こる、とも書かれていた。

 昔の人間は、今よりよっぽど敏感に身の回りの世界を捉えていた。その目と耳と直感を補うために、陰陽師のような者たちが必要とされるのだろう。

 そこまで判明したところで、清隆たち三人は議論した。失踪した村人たちは、どんな基準で選ばれていったのか。清隆の経験的に、霊や妖は霊感が全く無い人間に影響を与えることを苦手としている。海人のように実体を持つタイプは別として、サカグラシのようなタイプは霊感の無い人間に直接危害を加えることができない。

 つまり、ある程度の霊感がある人間から豊穣の神に呼ばれ、失踪したのではないか、という説が立った。海人のように強い力を持つ者、もしくは霊感が皆無であったり、地理的に神から遠かったりする者は後回しになるのではないか、そう考えると、今夜呼ばれるのは、山に最も近い場所にいる我々、そして抵抗力が最も低い桜子かもしれない。

 海人と清隆は交代で眠ることにした。桜子が呼ばれたときに後を追えるように。

 その目論見は当たった。神に一番近いところで眠る桜子に、神は呼び声をかけてきた。

 夢遊病のように歩き始めた桜子を追い、清隆と海人は首神社手前までやってきていた。不思議と、良くないモノの襲撃は受けなかった。

「どうしてだと思う?」

「豊穣の神への供物だから、雑魚は手を出せないんでしょ」

「俺たちも供物扱いされているってことかな」

「細かい区別はつけられないんじゃないですか」

 やがて桜子が参道に姿を消したので、サカグラシをついていかせた。そしてサカグラシから声が掛かり、清隆と海人は首神社に突入した。

 参道には鳥居も何も無かった。だが確実に空気が変わった。

「腹に入ったな」

「ここは首ですが」

「そういうことじゃない。神のテリトリーに入ったって意味だよ」

「ああ、なるほど」

 海人が鼻を鳴らす。

「大勢の人間の匂いだ」

「ああ、失踪した村人たちだな」

 社殿の近くに、横たわる人間たちがいる。力なく転がり、動く気配がない。海人が駆け出す。

真凛まりん!」

 そのうち一人、中学生くらいの女の子を抱き起し、海人は揺すった。いなくなったという妹だろう。

「おい、返事しろ」

「海人君、呼吸はある?」

 海人は妹の口元に手をかざす。

「あります」

「よし、この人たちは多分生きている。樹が神の本体だというのなら、養分として生命力を吸われていたとか、そういうことだろう」

「清隆さん」

 桜子がふらつきながら寄ってくる。

「酷い夢を見ている気分でした」

「悪夢を見せて操作して、ここに誘導する手口なんだな。多分、媒介は匂いだね。特徴的な甘い匂いがする。この匂いに気付いて、かつ抵抗力の無い人間が神の餌食になるわけだ。桜子さんと一緒にサカグラシも腹に入ったから俺と海人君も入れたけど、本当は、俺たちは望まれぬ来客なんだろうな」

「安倍さん、皆を連れて帰らないと」

 海人が叫ぶように言う。

「そのためには、この神の腹から出ないといけない」

「どうしたら出られる」

「神をぶちのめす」

 清隆の左手が重くなったように感じた。その方向に視線を向けると、女物の着物を着た何かが、神社脇の茂みに立っていた。それは、頭があるべきところに巨大な赤い花が咲いており、目も口も鼻も無い。

 海人と桜子も気づいたようで、海人は臨戦態勢に入る。

「神様のお出ましだ。サカグラシ、やれるか」

「やれるが、相手は神だけじゃないぞ」

 気づけば首神社の周囲は足音で満ちていた。無数の足音が取り囲み、カチカチと何かを鳴らす音がする。

「雑魚がうようよと」

 海人が舌打ちする。巨大な手の化け物、人の感情が折り重なって生まれた良くないモノ達が、首神社を取り囲んでいた。

「十体ってところか。安倍さん、一人五体でいいか?」

「いいよ。その前に神をどうにかすれば、全部倒す必要もなさそうだけど」

 清隆は鞄から朱色の酒が入った瓶を取り出し、飲んだ。


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