「自主練をします」
桜子と清隆のいない「後ろの真実」のエントランスに、般若の声が高らかに響き渡った。
「自主練! 自主練!」
般若は鈴木の前にやってきて、両手を振りながら叫ぶ。鈴木は曖昧な笑顔を浮かべ、巾木に訊いた。
「何か教えました?」
「自主練って言葉を教えました。秘密の特訓のことだよって」
「ははあ」
般若の耳には、格好良く聞こえたのかもしれない。新しく知った言葉を使いたくなる子どもの気持ちは、鈴木もまだ辛うじて思い出せた。
今日は「後ろの真実」の定休日である。浅田はどこかへ出かけていった。鈴木も普段は散歩に出るのだが、今日はたまたま気分の問題で「後ろの真実」に留まっていた。
鈴木は、自主練を今までしたことがないことに気付いた。
鈴木と般若と清隆しかいない頃、そもそもどう訓練すればいいのかわからなかった。桜子と烏丸が加わって、方向性めいたものが見えるようになってきた。浅田と巾木が加わって、桜子も勝手が掴めるようになってきて、ようやく「後ろの真実」は機能し始めたと言える。キャストの工夫もやり甲斐が生まれ、独創性や新しい試みを打って出られる環境になってきた。ここらで一発、桜子頼みではない、我々幽霊たちの発案でアトラクションを加えるのはありかもしれない。
「監督、何を練習しましょうか」
鈴木は少し茶化して、般若を監督と呼んでみた。
「か、監督……」
般若は監督という言葉は知っていたようで、何やら返事がまごついた。般若面を被っているせいで表情や感情がわかりづらい。
「どうしたの」
「私は監督?」
「うん、自主練の監督ってことでいいんじゃないかな」
「監督……」
どうやら言葉の格好良さに感激しているらしい。言葉だけで言えば、演出の桜子よりも立場が上になるのだが、まあ、休日くらいはいいだろう。
鈴木としては、このまま有耶無耶になってくれてもいい。休日にまで必死に練習するのは健康的でないと思っている。霊に病気は存在しないが、鬱のような状態になる霊はいるのだ。
湿っぽくなった霊なんて、陰気臭くてカビが生えてしまう。
「良かったね、般若ちゃん。監督だって」
巾木も適当に合わせている。こっちは子供をあやしているようなものか。
「よし、監督命令だ。鈴木さん、飛び降りろ」
「うん? いいけど」
鈴木は二階の持ち場に向かう。窓を透りぬけて下を見ると、般若と巾木が手を振っていた。
「監督、行きますよ」
「来い」
とう、とわざとらしく声を出して飛び降りる。普段からやっていることなので、恐怖はない。着地に失敗しようと擦り傷一つ負わないのは体験として実証済みだ。
今回は上手く着地できた。両足だけで、二、三歩よろめいただけで止まれた。
おお、と巾木と般若が声を上げる。そういえば、他人の演技を見る機会は意外と少ない。
「怖くないんですか」
巾木が言った。
「まあ、怪我をする体でもありませんし。男子なら二階から飛び降りるくらいは平然とやってのけたものですよ」
「そうなんですか」
「もちろん、生きていた頃の話ですけどね。あと、子どもの頃。大人になってからは怪我が怖くてできませんでしたが」
元学校なだけあって、「後ろの真実」は結構天井が高い。二階の窓も、そこそこ高い位置にある。そこから飛び降りるイメージは、巾木には持てないのだろう。飛び降り自殺と、エンドレス飛び降りループに陥った自分だからこそ、抵抗なく飛べるのかもしれない、と鈴木は根拠なく思った。
「私も飛びたい」
監督、もとい、般若が手を挙げた。巾木と鈴木は顔を見合わせてしまった。
「子どもにそんな危ないことをさせていいんでしょうか」
「危ないといっても、もう死んでいるから、大丈夫だと思うけど」
「イメージで骨折したりしませんよね」
「ないと思うけど、どうかな」
「そもそも、教育的によくないのでは? 二階から飛び降りるなんて」
「死んでからお行儀の教育をして意味があるんだろうか」
答えの出ない議論をしている間に、般若はさっさと走って二階へ上がってしまった。巾木と鈴木も、本気で止めるつもりはなく、成り行きを見守る。
やがて窓からひょっこりと顔を出した。
「行くよー」
身を乗り出して両手をぶんぶん振る。般若面を被っていることを除けば、本当にただの小さな子供なのだと思い知る。
とう、と鈴木の真似をして般若が飛び降りる。
着地したが、衝撃を押さえきれなかったのか、足元が乱れて転び、校庭を二回転して止まった。
「えへへ」
顔は見えずとも、笑ったことはわかった。痛みなどは無いらしい。
つくづく、自分たちは理から外れた存在なのだと思い知る。サカグラシなんかは宙に浮くこともできる。本当は、鈴木たちにも同じように浮けるはずだ。イメージが湧かないからできないのだと、清隆に言われたことがある。人間の常識というものが邪魔をする。逆を言えば、二階から飛び降りられるのは、重力があって然るべきという先入観があるからだ。そういう意味では、より先入観の少ない般若なら、宙に浮くことだってできるかもしれない。
宙に浮けたら、それは新しいアトラクションになりそうだ。訓練する価値はある。廊下に浮いている般若面を被った女の子が、薄暗い中、滑るように向かってくる様子を想像した。なかなかに怖い。
般若は走り、巾木と鈴木の脇を通って上階へと駆け上がった。また飛ぶらしい。暇つぶし程度には気に入ったようだ。
「般若ちゃんは、記憶が無いんですよね」
巾木が鈴木に訊いた。
「うん? そう。自己申告というか、推測だけど。最初、まだ私と清隆さんしかいなかったとき、般若ちゃんが何か思い出せないか、色々試したんだけど、一向に効き目が無かったんだよね。清隆さんも色んな術を使ってみたんだよ。何なら、成仏させる術だって使った」
「成仏させる術?」
「特に未練や執着が無ければ、霊を成仏させられる術というものがあるらしくて、それを試したんだよ。一般的には、私のようなただ留まっているだけの霊を送る術らしいのだけど、それは効かなかった」
「ということは、般若ちゃんは、覚えていないだけで、何かの未練があるってことですか」
「そういうことになる。まあ、謎が多いよね。どういう死に方をしたら般若面なんてものを被っているイメージが固着してしまうのやら」
般若が再び二階から顔を出す。鈴木は手を振った。
般若が飛び降りる。今度も着地に失敗し、頭が地面にぶつかった。巾木が慌てて立ち上がり、駆け寄る。般若を抱き起して頭をさするが、そこには傷一つ無かった。
面。仮面。偽りの顔。
重なる。くっつく。覆いかぶさる。
変身。隠匿。鬼。
思いつくものを挙げてみるが、だからといって見えてくるものもない。鈴木は校庭に座り込んで太陽を見上げた。
のどかだ。
般若は元気に走り出し、また上階へ上がる。振舞いが年恰好に対して子供っぽいと感じるのは、気のせいだろうか。それとも、大人ばかりの環境にいると、そうなるのだろうか。お姉さんぶる必要がないから。
「おーい」
般若が窓辺から顔を出した。遠い。
「って、三階⁉」
般若がいたのは三階の窓だった。清隆たちの事務スペースがある階である。鈴木も、三階から飛び降りたことはない。怪我なんてしないとわかっていても、反射的に慌ててしまった。
「ちょっと待った」
「行きまーす」
般若の呑気な声の後、ふらりと体を傾けて頭から落ちてきた。
「おい、馬鹿!」
ゴン、という鈍い音がした。般若の首があり得ない方向に曲がるのが見えた。
霊はイメージだ。重力があると思うから地面に引き寄せられる。怪我をするかもしれないと思って飛び降りたなら、どうなる。
「般若ちゃん!」
巾木が悲鳴のような声を上げて棒立ちになった。口に手を当て、目を見開いている。
「ばあ!」
般若がばね仕掛けのように立ち上がった。首は折れていないようだ。ほう、と息を吐いた後、強烈な違和感に目をしばたいてしまった。
般若面が、落ちていた。
それ、取れるんだ。清隆と色々試したときには微動だにしなかったのに。
顔を見ようと意識が向くのと、般若面がふわりと浮かび上がるのは同時だった。すぽりと顔に被さり、また貼り付いた。
三人の間に、気まずい沈黙が流れる。
何、それ。
鈴木の疑問に答えられる者はいない。