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第39話

 フィアットの登場に、桜子を含めたその場の全員が困惑した。フィアットはボロボロで、しかも誰も乗っている様子がない。それなのに、ライトは点き、エンジンがかかり、威嚇するように唸っている。

「危ない!」

 叫んだのは清隆だった。同時に、フィアットが急発進する。男たちが集まっているエリアに突入し、一人をはねた。ボン、と鈍い音がして、人が宙を舞う。ほんの一メートルほどだろうが、それはあまりに凶悪な光景に見えた。

「逃げろ!」

 清隆が続いて叫ぶ。それで火が点いたように、桜子たちを取り囲んでいた男たちが散っていく。それを追い回すようにフィアットは加速と急カーブを繰り返しながら何人もはね飛ばした。

 阿鼻叫喚。若い男たちが無人の車によって蹂躙されていく。躊躇を失くした自動車はこんなに怖いのか、とどこか他人事のように思っていると、清隆に抱き上げられた。

「え、何ですか」

「行きますよ。福原さんも」

 アクアを挟んで反対側にいた福原が、こちらを見て頷いた。

「はい。季里が呼んでいる」

 二人には何かが聞こえているのだと、朧気ながらも思考についていく。

 清隆と福原が走り出し、向かったのは暴れ回っているフィアットだった。今は取り囲んでいた男たちも散り散りになって、蜘蛛の子を散らすように走り回っている。そのフィアットがこちらに向かってきて、急停車した。

「桜子さん、乗って」

 押し込まれるように運転席に座らされ、清隆は助手席に座る。その間に福原が後部座席に座った。

「私が運転するんですか」

 こんな得体の知れない車を。

「いや、多分運転はいあっ」

 清隆の言葉は途中で止まった。フィアットが急に走り出してシートに押し付けられたからだ。

 桜子はアクセルを踏んでいない。ハンドルも握っていない。だが、ペダルとハンドルは目の前で動いていた。

 これ、季里さんの幽霊が動かしているの?

「シートベルトを!」

 福原の言葉に、慌ててシートベルトを締める。その間にも加減速を繰り返し、フィアットは倉庫前を脱出していた。樹々に挟まれた道を駆け抜けていく。

「清隆さん、これどういう状況ですか」

「さあね。とりあえず季里さんの霊がハンドルを握ってくれているから、どうやら逃がしてくれるみたいだよ」

「季里さん、ここにいるんですか」

「うん。桜子さんと重なっている。大丈夫。生者と死者が位置的に重なっていたって、お互いの動作には影響しないから」

「そういうことを心配しているんじゃないんですけど」

 じゃあ何を心配しているのか、と言われても困るが。とにかく訳の分からない状況に説明をつけたかっただけだ。

「このまま警察署に直行できればいいんだけど」

「そこまでこの自動運転状態ですか」

「どこかで運転代わってほしいよね」

 フロントガラスが割れているせいで非常に前が見にくい。穴も開いているせいで風が吹き込み放題だ。清隆の髪が派手に乱れている。

「追って来ています」

 福原が後ろを見ながら言った。振り返ると、後方に何台もの車のライトが見える。

 福原の言葉に呼応するように、フィアットが速度を上げた。公道に飛び出て、なおも加速する。

 風の音がうるさくなり、声を張り上げないと会話ができないほどになった。福原が後ろを見たまま叫ぶ。

「BMWが先頭で追って来ています。新藤です」

 桜子は運転席にいながらハンドルを握らないという状況に違和感を覚えながら返す。

「ここで私たちを逃がしたら警察の手が入って新藤は逮捕。チームの大部分も逮捕ですから、必死でしょうね」

「この車ってあとどれだけ走れるんでしょうか」

「ちょっと待ってくださいね」

 桜子がメータを探す。ガソリンの残量を見つけたとき、内臓が浮いた感覚になった。

「もうほとんど残っていません」

「ほとんどってどれくらいですか」

「メータの下限値付近に針があります」

 福原の舌打ちが聞こえた。

「振り切らないと、ガス欠になった瞬間にアウトってことですね」

 体が横に揺れた。ヘアピンカーブを急ブレーキで曲がったのだ。その後急加速、次のカーブに突っ込みそうになる瞬間にブレーキがかかる。その繰り返しで峠を下っていく。

 桜子が一度だってしたことがない走り方でフィアットは峠を下っていく。だが、新藤のBMWはついてきていた。それどころか、差が詰まっている。

「清隆さんなんとかしてくださいよ」

「あばばばばばば」

 フロントガラスに空いた穴から吹き込む風が直撃して、清隆はまともに喋れなくなっていた。

「ふざけている場合ですか」

「ふふふふふふざあああああけええええてててて」

「舌嚙みますよ!」

 両者がまた曲がる。そのたび、距離が詰まっていく。

「ついて来られているのは新藤の車だけですね」

「じゃあ、新藤の一台だけを振り切ればいいってことですね」

「それだけ彼の運転テクニックが凄いってことです。おそらく、乗っている車の性能も違いますし」

 新藤の車はピタリと後ろにつけた。何かで見たことがある。空気抵抗が少なくなる位置。これでなおのこと引き離すのは難しくなった。

「ちょっと清隆さん、銃とか飛び道具とか無いんですか」

 遠距離の攻撃手段があれば、新藤をこちらから妨害できるのに。

「今日は持ってきていない。準備があれば火の玉飛ばしたり、キスした相手を燃やしたりすることもできたけど」

 清隆も後ろを向いている。前を向き続けるのが辛くなったようだ。

「何それ、キスしたことあるんですか」

「鬼相手に」

「鬼⁉」

「その話今じゃないと駄目⁉」

 とうとう福原の言葉から敬語が外れた。すいません、と二人して小声で謝る。

 え、と清隆が突然困惑した声を漏らした。後ろを見た姿勢から、桜子を見る。相変わらずハンドルとペダルは自動で動いている。

「どうしたんですか」

「余裕があったらルームミラー越しに新藤を見て。視界の端で」

「視界の端?」

「季里さんが見えるかもしれない」

「本当ですか」

 だが、姿勢を変えても首を伸ばしても新藤の姿が目に入らない。角度が悪いのだ。

「季里さんが向こうに行った。俺たちがフィアットに横づけされたときと同じだ」

「それってどういう」

 意味ですか、という後半部分は声を出せなかった。フィアットがこれまでにない急加速を見せたのだ。やや遅れて新藤の車もついてくる。

 そして、目の前にはヘアピンカーブが迫っていた。

 ブレーキ、ブレーキ、と念じるが、フィアットはぐんぐん加速していく。まずい、これはまずい。

 気付いた。ここは、谷原季里が死んだ場所だ。

 悲鳴が喉の奥からほとばしる。フィアットはなおも加速する。カーブは目の前に来ていた。

 フルブレーキ。滑るようにフィアットが曲がる。その瞬間、なぜかルームミラーが視界に入った。

 新藤の後ろに血まみれの女がいた。あり得ないほど長く両手を伸ばし、新藤のハンドルを握っている。新藤の表情まで見えた。何かに驚愕し、戦慄し、そして叫んでいた。

 彼にも、谷原季里が見えているのかもしれなかった。

 フィアットはドリフトして、後部タイヤを滑らせて方向転換し、見事にカーブを乗り切った。胸を撫で下ろしたそのとき、BMWがガードレールを突き破って谷底に落下していった。


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