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第34話

「私は交通課の警察官です」

 福原のいきなりの告白に、桜子は頬がひくつくのを何とかこらえた。

「ここ四か月ほど、風鳴峠での自動車事故が多発しています。これまでもあったのですが、数か月に一度というペースでした。それが、今では月に約二度のペースで起きています」

「多いですね」

 福原は頷く。

「地元の、いわゆる暴走族が走り回っているという事情もあるのですが、彼らは別に最近になって風鳴峠に現れるようになったわけではありません。ずっと、何年もそこにいました。ですから、事故が増えたのは、何か別の要因があるのだろうと思っています」

「その要因が、幽霊フィアットだと?」

 桜子の質問に、福原は曖昧に首を傾げた。

「それはわかりません。というのも、事故が増えてから、季里の事故が起きたのです」

「じゃあ、違いますか」

 時系列が違う。

「それは断言できないよ」

 清隆が口を開いた。

「今はまだ、何も断言できない。話を聞こう」

「そうですね。失礼しました。続きを」

 桜子が促す。

「何かある、そう思っていましたが、私は警察官です。ただの直感では動けません。一応上司に事故が増えていることを報告しはしましたが、それだけでした。そして、季里の事故が起こりました」


 季里の事故の現場検証に立ち会ったのは福原だった。曇りの夜、通報を受けて行ってみると、峠道の中腹で髪を染めた若者が青い顔で半分パニックになりながら崖下を指さしていた。ガードレールは端がひしゃげ、クリーム色の塗料がこびりついている。

「だから、車が吹っ飛んで行ったんだって。ガードレールにぶつかって、ドライバーはフロントガラスを突き破って飛んで行ったんだ。この下にいるはずなんだよ」

 通報を受けた巡査に話す若者の声が、離れた場所にも聞こえてくる。お陰で事情はだいたいわかった。

 事故現場から下を覗き込むと、絶望的に高かった。助かる見込みはないだろう。でも、捜索しないわけにもいかない。

 幸い、近くの道から山中に入ることができたため、福原は同僚たちと愚痴を言いながら山に分け入り、事故現場の真下辺りまで苦労して辿り着いた。見上げると、コンクリートの壁が聳え立っている。

「ここですね」

 誰にともなく言うと、同僚の一人が「おい、見てみろ」と地面を指さして言った。その先には、はっきりとタイヤの跡が残っている。

 間違いなくここに落ちたのだ。だとすると、遺体もこの辺りに……。

 福原が目線を上に向けたとき、それが目に入った。

 大きな木の枝に、モズの早贄のごとく刺し貫かれた女性の遺体を。

「季里?」

 不幸なことに、それは知った顔だった。


 谷村季里。女性。二五歳。独身で派遣会社員。県内在住。五年ローンでフィアット500Xを購入したのが二年前。

 簡単なプロフィールを眺めながら、福原は重い溜息をついた。スマートフォンにある「谷村季里」の連絡先を消す気に、どうしてもなれない。

 季里との出会いは十年前に遡る。彼女がまだ高校一年生だった頃、原付の二人乗りをしているところを捕まえたのだ。いわゆる不良少女。家に居場所がなく、学校にも馴染めず、ほどほどに我が強く、そして寂しがりな、よくいる少女だった。素行の良くない連中とつるみ、学校から見放された存在。

 福原にとって、よくある仕事のワンシーンだった。原付の二人乗りなんて可愛いものだとすら思っていた。世の中には、もっと巧妙で性質の悪いグレーゾーンの女の子は山のようにいる。パパ活、売春、ときには麻薬まで、聞いただけの話なら、警察にいればいくらでも出てくる。

「名前は?」

「谷村季里」

 名前を聞いたときも素直に答えたものだった。ただ、

「あんたの名前は?」

 聞き返してくる子は珍しかった。警察官なんて、個を意識するほどの相手では、基本的にはない。ただの取り調べや事情聴取をするだけの相手だ。

 だけど、季里は訊いてきた。

「福原恵美」

「福原さんね」

 睨むように言われた。忘れないぞ、とその目は語っていて、望むところ、と受けて立った。

 今なら笑って受け流すかもなあ、と若かりし頃を思い返して苦笑したら涙が零れてきた。

 季里はたしかに問題児だった。何度も捕まえ、何度も話を聞いた。途中から、「福原さんじゃん」「福原ですよ。また来たの」と軽口を交わすほどになった。

「母親が再婚してさ、その再婚相手がいやらしい目で見てくるんだよね」

「車が欲しい。本当は、私が運転したい」

「バイト代貯まったら、免許取るんだ」

 日々の愚痴や無邪気なことを言って聞かせてくれる一方、地元の不良グループの中で、季里はどんどん立場を強くしていくようだった。原付バイクで暴走族のような走り方をして、弟分や妹分を大勢引き連れながら、警察と揉め事を起こす日々。

 そのうち、警察署の中でも、福原は谷村係として扱われ始め、「福原、また谷村が来たぞ」と呼ばれるようになった。

 そんな季里も、高校を卒業すると、就職し、大人しくなった。不良と呼ばれる子どもたちが大抵通る道を辿り、子どもである期間が終われば自分で生きるしかなくなる。ごく一部の子どもは、学校を卒業してもグループに居続けたり、働きながら暴走族を続けたりすることがあるが、季里はその辺り、ごくごく普通の女の子だった。

 やれやれ、これで谷村係ともお別れか、と思っていた矢先、季里から連絡が入った。その頃にはお互いの連絡先を交換していた。

 ——上司がマジで気に食わないんだけど、殴っちゃまずいかな。

 事前に訊いて来るなんて、大人になったなあと感慨深くなったものだった。

 二人はプライベートで会う仲になり、ローンで買ったフィアットにも何度か乗せてもらった。休日はサーキットに出かけて飛ばしているらしく、運転も見せてもらった。腕は上等。その辺の不良やマニアでは勝負にならないくらい速い。

「自動車教習所で働けば?」

「私みたいな違反しまくった人間が教えるの? 冗談よしてよ」

「でも、上手いじゃん」

 そんな、なんてことのない会話を思い出す。

 だけど、死んでしまった。


「車が見つかりませんでした」

 上司に報告しながら、自分でも何を言っているのだろうと不思議だった。

「見つからないわけがないだろう。タイヤ痕があったって聞いたぞ」

「タイヤ痕を辿り、樹に衝突したところまで追いかけたのですが、そこに車はありませんでした」

「なかった? どういうことだ」

「わかりません」

 本当に、わからなかった。同僚たちも首を傾げたが、一つの交通事故に割ける人員も時間も限られている。上司は車の捜索を打ち切ることに決めた。遺体も荼毘に伏され、事件は終わった。

 それから一か月ほど、福原は落ち着かない日々を過ごした。風鳴峠の事故数は減っていない。その内の一つ、季里の事故は曖昧なまま終わってしまった。何かできるのではないか、何かできたのではないか、そんな不明瞭な使命感が腹の底から時折顔を覗かせ、コーヒーで鎮める日々。

 そして、彼女は現れた。仕事が終わって帰ったアパートで、ぼんやりとテレビを観ているときだった。

「風鳴峠」

 耳元で声が聞こえ、振り返る。そこには誰もいない。

「季里?」

 咄嗟に出た言葉は、自分が声の主を知っていると無意識に認めていた。

 気のせいか、と最初のうちは思っていた。だが、毎日、一日に一回程度、部屋でゆっくりしていると声が聞こえるようになり、幻聴の類ではないと確信を深めた。

 そして仕事終わりに行ってみた風鳴峠で、福原は見つからなかったフィアット500Xと出会う。

 擦り傷だらけで、ガラスは割れ、走っているのが不思議なほどの状態にも拘わらず、フィアット500Xは他の車とレースしていた。危険な運転で山道を下りていく二台の車。

 その二台に追い抜かれるとき、福原はたしかに見た。

 フィアットの運転席には、誰も乗っていなかった。


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