「なぜ鈴木さんが悪霊ではないと思ったのか。鈴木さんには、何かや誰かを愛するほど、強い感情がないんじゃないかと思いまして。清隆さんが言っていたんですよ。悪霊になるのは執着だ、それはつまり、愛だって。あなたは、何のために生きていたんですか。何を愛したんですか。あなたのプライベートが見えてこないんですよ。生前の趣味は? 生き甲斐は? 生きていて良かったと思える瞬間は?」
桜子は抱えていた疑問を一つ一つ放出する。鈴木は何かを諦めたような、力ない表情でそれを受け止める。
「桜子さんは?」
「私は今の仕事に生き甲斐を感じていますよ。口コミ評価も徐々にですが上がってきましたし。その前は、心霊スポットに行ったり、マイナーなお化け屋敷に行ったりして、怖いものを見るのが趣味でした。彼氏がいたり、友達がいたりして、楽しく暮らしていましたよ」
「やはり、あなたは清隆さんとは違いますね」
「どうして、ここで清隆さんが出てくるんですか」
「わからなくてもいいんです。あなたは、それでいい」
「馬鹿にしています?」
「まさか。あなたはあまりにも生きている。だから霊が見えない」
「生きているなんて、当たり前じゃないですか」
「当たり前じゃありませんよ」
鈴木は立ち上がった。ぶらりぶらりとモニターを見て回る。
「何のために生きているのか。それは、何のために死ぬのかと同義だと思いませんか」
「別に思わないですけど」
「生きているということは、死ぬまでの時間を使っているということです。それはまさしく、何のために命を使うか、ということなんですよ」
「言いたいことは何となくわかります。何のために死ぬのか、という話とは繋がりませんが」
「私にとっては一つの話なんですが、まあ、桜子さんにとっては別のことなのでしょうね。それはそれで、健全です」
「自分は不健全みたいに言うじゃないですか」
「不健全ですよ、私は。でないと自殺なんてしやしません」
鈴木は机に腰掛け、遠くを見る目つきになる。
「鳴海君は、自殺を思いとどまってくれましたか」
「ええ。今はネクスクラフトを辞めて、転職活動中だそうです」
「それがいい。彼にあの会社は合わない。彼には、もっと大切なものが沢山あったから」
「大切なもの?」
「友人や、恋人や、趣味ですね。それらが虐げられることに、彼は耐えられなかった」
「鈴木さんは、耐えられたんですか」
「私には何も無い。趣味も、恋人も、守るべき家族も、何も無い。自分自身すらも。だから、仕事に時間を取られたって、何の不満もありませんでした」
「だったら、生きても良かったんじゃないですか」
「生きていく理由も、無かったんですよ。だから、生きていく理由を、死ぬための理由をつくろうと思いました」
「死ぬための理由?」
「歩、瀬倉さん、鳴海君」
鈴木は指折り数え始める。
「訴えられる会社、上司、巻き込まれる同僚、感謝する同僚、ああ、両親も入れていいでしょうかね」
「何の話ですか」
「私の死によって動かされる人たちです。少なくとも、何かが変わる人たち。彼らの存在が、欠かせませんでした。私の生きる意味のため、配置されてもらったんですよね」
「配置?」
「そのために、過酷な職場に居続けて、病んでしまった人を見つけて、相談に乗ることをしました。鳴海君ほど病んだケースを見つけるまで、何人もの話を聞きましたよ」
桜子は怖くなった。幽霊と目が合うときの恐怖とは違う。まるで、生きている人間と会ったとき、烏丸に襲われたときのような底知れない、得体の知れない思考を前にしたときの恐怖。
「鈴木さん」
勝手に声が出た。
「もしかして、鈴木さんは、鳴海さんから相談を受けたから自殺したんじゃないんですか」
「違いますよ」
「鳴海さんに相談される前から、そうなる機会をうかがっていた。そして、自分の死によって動く人たちを予想し、こうなるように仕向けていた?」
スマートフォンに残っていた勤務記録。あれにはたしかにメッセージ性があった。
まるで、これを使って訴訟を起こせと言わんばかりに。
鈴木が自殺した現場にあった鞄。スマートフォンが入っていた。一方で財布はポケットに入れたまま飛び降りた。普通は逆か、どちらもポケットに入れているものではないか。
あれもまた、証拠を残しながら死ぬための、舞台装置。
「歩はね、桜子さんに少し似ています。行動力や、決断力なんかが。私が死ねば、そして過重労働だったとわかれば、必ず訴訟を起こすと思っていました」
「瀬倉さんも?」
「私が死んだら、歩に親身になってくれるだろうと思いました。さすがの歩も、協力者なくして内部事情を暴くのは難しいだろうと思ったので」
「鳴海さんは、きっかけではなく、最後のピース?」
「そうです。彼が相談してきたから自殺したのではない。私は、自分の自殺に意味を持たせる準備を、ずっと進めてきたのですよ」
手が震える。明かされた内容と、遺された物品の整合性が取れていく。
「瀬倉さんの、歩さんの、他人の気持ちを何だと思っているんですか」
鈴木は、一枚ベールが剥がれた笑みを浮かべる。子供のように無邪気な笑顔が、そこにあった。
「瀬倉さんがどこまで私を想ってくれていたのか、正直わかりませんでしたが、桜子さんの話を聞く限り、思った以上に私のことを大事に想ってくれていたみたいですね」
「当たり前です。だって、瀬倉さんは……」
言いそうになって、止める。駄目だ。それは言ってはいけない。生者と死者の間に、そんな感情を繋げてはいけない。少なくとも、他者が言うべきことではない。
「いいんですよ。桜子さんは何も気に病むことなんてない。ただ、私が嬉しく思っていることは事実です。何の慰めにもなりませんが」
「本当ですよ」
鈴木にとって、ネクスクラフトを訴えることすら目的ではなかった。自殺を考えた誰かを止めるため、一人の自殺がトリガーとなって何が起こるかを見せつけ、怖気づかせる。その連鎖反応を予め仕込んで、起爆させる。
そんなものが、生きる理由にも死ぬ理由にも、なってたまるか。
知らず、涙が流れていた。
あまりにも哀れな、その姿に。他に生きる理由を持てなかった、その人生に。
「今の私の話をしましょうか」
鈴木が伸びをしながら言う。晴れ晴れとした顔だった。
「私にとって、仕事も、勉強も、恋愛も、対価を払って何かを手に入れる行為でした。まあ、大抵はお金で換算できるものです。だからでしょうかね、私が存在している意味がどこにあるのか、と空しくなってしまいました。まるで自分が札束になってしまったようで。だからこそ、人の感情という不確かで得にならないものに、最後の最後は委ねてみたかったように思います。
今は、少し違います。「後ろの真実」で、私はお金を貰っていません。それでも、不思議と清々しいんですよ。自分の労働や努力がお金に換算されないで、ただ、人を楽しませるという結果に結びつく。私は、本当は金儲けをしたかったんじゃないんですね。誰かを笑顔にできれば、それで良かった。死んでから気付くなんて、遅すぎますが。でも、死なないとここに来ることもできなかった。きっとまだ、私は終わっていません」
机から跳ねるように下り、桜子に向かって腰を折った。
「この度は、私の迂闊な行動でご迷惑をおかけしました。私は、この職場が好きです。これから穴を開けた分を取り戻すべく精進して参ります。何卒、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」
桜子は涙を拭う。鈴木の感性には、まだ理解できないところがある。他人を操るような真似をして欲しくなかったと思うところもある。だけど、それでも、他人を受け入れることはできる。全てを理解できなくても、一緒に何かを目指すことはできる。
きっと皆、実はお互いに得体の知れない生き物なのだろう。それを気味悪いと言うのなら、自分が全てを開示して共感される必要があるのだと思う。全てを共感される人間性なんて、それこそ気味が悪い幻想だ。あなたは共感できないから死んでくれと言われるか、あなたは共感できないから共感できる存在に変身してくれと優しく言われたら、どちらの方が相手を想っているのだろう。
わからない相手をわからないまま受け入れる。それくらいのことができずに、怖さを追求することなんてできるわけがない。わかっていることだけで構成された世界に、恐怖は無い。
「新しい趣向を考えたんですよ」
気味が悪いキャストがいないと、気味が悪い演出だってできないだろうから。