桜子は深夜、というより早朝のネクスクラフトに来ていた。
エレベータの扉が開き、瀬倉が出て来た。
「今は誰もいないみたい」
「こんな時間でも、人がいる可能性があるんですね」
「追い込みの時期だと、たまにね。今はそれほどでもないというか、鈴木さんの訴訟があって、残業に敏感になっているから、早く帰らされているって事情もあるかな」
二人はエレベータで上り、ネクスクラフトのオフィスに踏み込んだ。だだっ広いオフィスにデスクが並び、壁際には棚、中にはファイルがぎっしり詰まっている。
「なんか、私がいた会社と雰囲気が似ていますね」
「どこもこんなものじゃないの。私は無個性だなって思うけど。とりあえず、ここがメインのオフィスエリア」
「じゃあ、始めますか」
桜子は幽霊が見えるようになる水が入ったペットボトルを二人分取り出し、片方を瀬倉に渡した。
「本当に、これでお化けが見えるようになるわけ? ここで見えちゃったら、今日から私、どうすればいいの。お化けがいる場所で仕事しなくちゃいけないってこと?」
「すぐに見えなくなりますから、大丈夫ですよ。それに、瀬倉さんだってじきに退職するつもりでしょう」
「それはそうだけど。それとこれとは、話が違うっていうか」
「瀬倉さんは無理して飲まなくてもいいですよ。私が何をしているかわからないだけなので」
瀬倉は水を持ったまま悩む素振りを見せる。
「本来部外者立ち入り禁止のエリアに誘い入れている時点で、会社にバレたらまずいんだけど、それに加えて何をされているかわからないっていうのは、ちょっとね」
桜子は手本を見せるように、水をゆっくりと飲んだ。
「ほら、毒じゃないですよ」
「そういうことを疑っているわけじゃないんだけど。あなたが陰陽師の知り合いだって話を疑っているわけで」
「じゃあ、飲みませんか?」
「ああ、もう、飲みます。飲まないとわからないんでしょ」
飲んだら幽霊が見えるようになる水、なんて、普通に考えたら幻覚作用のある薬物が混入している水だ。躊躇する気持ちはよくわかる。
今日は、瀬倉の協力を得て、ネクスクラフトのオフィスに、鈴木の姿を探しに来ていた。知り合いの陰陽師から霊験あらたかな水を貰ったので鈴木を探そうという、断られても不思議じゃない提案し、瀬倉が来ないなら強引に実行すると言うと、それくらいならばついていくと言ってくれた。
本当は断られると困ったのだが、その辺は駆け引きだ。私が捕まれば、鈴木関連のことだと証言してしまう。今不法行為をされると、訴訟を進めている瀬倉や歩にとってうまくない波紋が広がる可能性がある。誰にも見られないように便宜を図った方が確実なのだ。
これくらいの度胸や押し引きを、清隆にもあっさりやってほしいんだけどな。
瀬倉が水を飲んだのを見て、桜子は改めてオフィスを見渡す。
なんか、浮いている。
デスクの島の上に、スーツを着た男性が浮いていた。天井から吊るされているように項垂れている。
隣から、うえっ、と驚く声が聞こえた。瀬倉も同じものを見つけたようだ。見つけない方がおかしいくらい目立っているので当たり前だが。
「鈴木さんでしょうか」
冷静に言う桜子に、瀬倉は両手で自分の体を抱くようにして答える。
「わかんないって、そんなの。見てきてよ」
少し新鮮な気分になる。幽霊を見たときのリアクションとは、こうなるのか。「後ろの真実」では清隆という例外が常に一緒にいるせいで感覚が麻痺しているらしい。
私が死んだ烏丸を見つけたときも、こんな反応だったのかな。
つい数か月前のことにも拘わらず、うまく思い出すことができなかった。あれから何人もの幽霊と関わってきた体験が濃すぎて、なんだか別人の記憶を遡っているかのような感覚になる。
桜子はオフィスに進み出て、俯いて浮かぶ男性の幽霊を下から覗き込む。こちらが見えていることがバレると面倒なことになる場合があるが、背に腹は代えられない。しっかり確認しないといけないときはあるのだ。
なんとなく、スーツの色や柄が違う気がするけれど、と思いながら覗き込む。
ばっちり目が合った。背筋が凍る。
そして別人だった。
そっと離れて、ついでにオフィスを一周して回る。背中に良くない視線を感じたが、どうすることもできない。ついてきたら清隆に剥がしてもらおうと思いながら歩き回る。棚を開けて探偵の真似事でもしようかと試みたが、鍵がかかっていて開かなかった。当然だ。
「ちょっと、もういいんじゃないの」
瀬倉が、きょろきょろと周囲を気にしている。他にも見えるものがいるかもしれないと思っているのだろう。探す方が怖いのではないか、と桜子は思ってしまう。
「このエリアにはいないみたいですね」
「このエリアにはって」
「会議室や応接スペースエリアがあるはずです。そこも見ましょう」
見落としが一番怖い。清隆が言うには、物か人か土地に憑いている状態だということなので、浮遊霊のようにふわふわと歩きまわることはないはずだ。いるのなら、しっかり見て回ればちゃんとわかる。
「会議室は四つ。AからDまで」
そう言いながら、恐る恐るという様子で瀬倉は桜子を案内していく。
「あとは給湯室や管理部門の部屋があるけどひいっ!」
「どうしました?」
「何か、通ったような気がして」
瀬倉はD会議室を指さした。会議室は、下半分が擦りガラス張りになっており、会議室の中が見える。桜子は迷わずドアに手をかけ、開ける。
中には、女の子がいた。
五歳くらいの、おかっぱ頭の子だ。なぜか和服姿で、ここが会社のオフィスであるという点に目を瞑れば可愛らしいとすら思える。
「誰?」
しかも話しかけてきた。
「驚かせてごめんね。すぐに帰るから」
二の腕から脛まで寒気が走るが、それを悟られないように答える。大丈夫、「後ろの真実」のキャストと何も変わらない。悪霊でない保証もないけれど。
「ここは夜でも人がいて寂しくないの」
「そうなんだ」
後ろの瀬倉にもこの会話が聞こえているはずだった。もう深夜残業はできないだろう。
「ちょっと聞きたいんだけど、眼鏡かけたおじちゃんの幽霊は、いない?」
「眼鏡? いないよ」
「そっか」
「死んだ鈴木さんのこと?」
「知っているの?」
「私、ずっとここにいるから、聞こえてくる。部長さんと言い合いしていたよね」
「そうなんだね」
「探しているの?」
「うん。どこかにいると思うんだけど、見つからないの」
「ここじゃないよ」
「どこだと思う?」
女の子は首を傾け、少し考えた。
「お家に帰ったか、死んだ場所じゃないかな」
「なるほど」
死亡現場ね。
「ありがとう。探してみるね」
「ついていっていい?」
女の子の目がまっすぐに桜子を捉える。桜子の前腕には鳥肌がびっしりと立っている。ここが境界線だと、なんとなく思った。
「駄目。私たちはもう少しで君のこと見えなくなる。ついて来られても困るから、ここにいて」
返事はなかった。無表情になり、ただ立つ。
「瀬倉さん、行きましょう。念のため他のところも見て回って、撤収です」
無表情の幽霊は、正直言ってかなり怖い。
「うん、行こう行こう」
その後、AからCまでの会議室と給湯室を覗き、廊下で髪の長い女性とすれ違い、管理部門の部屋をチェックした。
「鬼頭さん、あの子、ついて来るんだけど」
「見ちゃだめです。野良犬みたいなものです。構えば寄ってきます」
「私、もうこのオフィスで夜仕事できない」
「よかったですね。辞める覚悟が強まったじゃないですか」
笑顔で言ってみたが、瀬倉の顔は晴れなかった。
ビルのエントランスまで降りて、瀬倉はようやく息をついた。
「怖かった」
「怖かったですけど、楽しかったですね」
「どこが」
「幽霊とお喋りしちゃいましたよ」
「お化け屋敷巡りって、もしかして本当の趣味なの?」
「まあ、はい」
瀬倉が信じられないものを見る目をして、ぶるりと震えた。