鳴海浩二は地下鉄のホームで項垂れていた。
また、飛び込めなかった。
何度目になるかわからない自殺未遂。帰宅時の地下鉄で、終電ぎりぎりまで飛び込もうとトライしては諦める、そんなことを繰り返していた。
仕事はまだ残っている。帰宅した後も残った作業に手をつけなければならない。だが、帰る気にもならず、ここのところ毎日同じことを繰り返している。
次が終電だ。今日も、飛び込めなかった。
「鳴海さん?」
呼びかける声に顔を上げると、同僚の鈴木さんが疲れた顔で立っていた。
「まだ帰っていなかったんだ」
「鈴木さん、この路線使っていたんですね」
「うん。鳴海さんもだったとは、知らなかった」
「鈴木さん、この会社で働き始めて何年でしたっけ」
「ええと、六年かな」
「すごいです。俺なんて、転職してきたの、二年前なのに」
「辛そうだね。元気がないのは、見ていてわかったよ」
「見ていたんですか」
「まあ、見える範囲は見るようにしている」
鈴木は穏やかな笑みを浮かべ、スマートフォンを取り出した。
「せっかく会社の外で会えたんだから、連絡先交換しようよ」
「あ、はい」
「話くらいは聞けると思うし」
「鈴木さんだって大変じゃないですか」
「私なんて、全然だよ。鳴海さんほどじゃない。トライしている案件の数は、鳴海さんの3分の2くらいでしょ。鳴海さんの方がずっと大変だ。いつもお疲れ様」
連絡先を交換しながら、労わられたのはいつぶりだろうと、答えを求めない問いが頭の中を流れていく。
「ひょっとしてだけどさ」
鈴木がスマートフォンを操作しながら、今日の夕飯何だった、と訊くように言う。
「自殺しようとしていた?」
息が止まるかと思った。否定しないと、と咄嗟に思うが、言葉が出てこない。
いや、その、と意味の無い言葉が乱雑に出ては詰まり、やがて沈黙してしまう。こんなの、肯定しているようなものだよな、と自嘲めいた笑いを浮かべた。
「はい」
どんな顔をされるだろう、と思って鈴木の顔を見ると、奇妙に緩んでいた。大別すれば、微笑みに分類されるような表情。力の抜けた、目尻が垂れた顔。
「そっか」
なんだ、その感情は。喜びでも、ましてや怒りでもない。
安心?
思いつき、打ち消す。どういう心理なら、自殺しようとしている同僚を見つけて安心することができるというのか。
わからない。何を考えているんだ。
「実行してしまう前に話せてよかったよ」
「止めますか」
「もちろん」
そう言う鈴木の顔に、焦りのようなものは見えない。ゆったりと、穏やかに、一杯のお茶でも飲んでいるような雰囲気のままだ。
「とりあえず、明日は金曜日だし、夜に呑みにでも行こう。話を聞かせてほしい」
「はあ、いいですけど」
話をすることで気持ちが変わるのか、それとも変わらないのか、鳴海にはわからない。だが、拒絶するのも面倒だし、何より、誰かに話を聞いてほしい気持ちはあった。
その日もまた、家に仕事を持ち帰り、深夜まで働いた。残業代は出ない。
「だからさ、委託しているその先の担当者の名前を知らないのはどうしてかって聞いているんだよ。あなた営業でしょ」
翌日、鳴海は上司の営業部長に詰められていた。
「はい」
「はいじゃなくて、どうしてかって聞いているんだよ」
部長は声を荒らげない。淡々と話してくる。代わりに逃がさない。納得できる説明ができなければいつまでも追及される。
委託しているのだから、その先は預かり知らぬところだろう、と内心で反論が浮かびながらも、鳴海は、はい、はい、申し訳ありませんと繰り返す。
言い返す気力が湧かなかった。
部署の人間全員が聞こえるところで追及してくることも、自分が正しいと信じて追い詰めてくるところも、この上司からすれば何一つ間違ったことをしていない認識なのだろう。堂々としている。どうしてそこまで自分を信じられるのか、鳴海には想像もできない。
「申し訳ありません」
「謝っておけばいいと思ってない?」
「そんなことありません」
「じゃあどうしてさっきから具体的な話が一個も出てこないの」
部長は若い男性だ。自分とさほど歳が違わない。営業に配属されて図抜けた高成績を叩き出して抜擢されたらしい。日々の業務に圧迫されて息が詰まっている自分とは、能力が違う。
「知らなくてもいいと思っていました」
「どうして」
ほら、反論したら延々となぜ、どうして、と繰り返される。仕事というものは、必須の業務と、やった方がいいがやらなくてもいい業務がある。営業活動を委託した、さらにその先の人間関係などは後者だ。知っていた方がいいが、知る必要はない。だが、上司の発言一つで部署の方針が決まってしまう環境にあっては、正義は上司にある。悪いのはやっていない者。
俺が結果を出せていないのが悪い。それらの反論を全て無視できるくらいの成績を収めていたなら、こんなことに三十分も拘束されなくて済んだ。
「すいません、次のお客様との打ち合わせの準備があるので」
「どうして昨日のうちにやっておかないの。そんなやっつけでやるから契約取れないんだよ」
「すいません」
さすがに上司も説教が優先されるとは思わなかったようだ。だが、お陰でまた帰りが遅くなる。
鳴海は相手の会社を調べ始めた。
そのまま無理やりの笑顔を貼り付けて夜まで数本のミーティングをこなし、六時になったところで鈴木が席に来た。
「行こうか」
その声に、何人かの視線が寄越された。
「はい」
その視線をどこか虚ろに感じながら、パソコンの電源を切って立ち上がる。上司もこちらをじっと見ていたが、それすらもどうでもよかった。
鈴木のお薦めだという静かな居酒屋に入り、一通り注文したところで、鈴木が切り出す。
「今日も部長は、いつもの部長だったね」
「そうですね。委託先のことなんて、知らなくて当たり前じゃないですか」
「そうだね。私も知らない」
「どうして俺だけ」
「理由は無いよ。部署の成績が悪いから、わかりやすく躓いている人にフィードバックしている、という感覚なんだと思う」
「たしかに躓いていますね。ノルマを達成できたこと、ここ一年ありませんし」
「私も毎月ぎりぎりだよ。会社全体が不振なんだね」
「それに、説教するにしてもあんな、全員が聞こえるような場所で言わなくてもいいし、長時間拘束されて残業が増えるのも悪循環です」
そこからは、言葉が止まらなかった。愚痴や不満がどんどん出てきては、いつの間にか運ばれてきた料理と酒を消費していった。鈴木は聞き上手で、気づけば何時間も話していた。
「鳴海君、辞める選択肢はいつでもあるんだよ」
酔った頭に、鈴木の言葉が響く。
「愚痴を言えても、自分が悪くないと口に出せても、人は病むし、命を捨てる。過酷な環境で自分を否定され続けるということは、そういうことだ。でもね、死んではいけないよ。陳腐な言い方だけど、君が死んだら悲しむ人たちがいる。決して、君一人で収まることじゃないんだ。その影響は、広く、遠くまで広がっていく。覚えておいてね」
その日、どうやって帰ったかは覚えていないが、鈴木の言葉だけはなぜか覚えていた。
コーヒー屋のボックス席で鳴海の話を聞いて、桜子はボイスレコーダーの電源を確認した。緑のランプが点いている。
「それが、鈴木さんとの会食で言われたことですか」
「はい。あの人は、死ぬなと言ってくれた。でも、死んでしまった。俺じゃなくて、鈴木さんが」
歩に紹介してもらった鳴海は、ネクスクラフトを退職して、今は転職活動中とのことだった。歩に協力し、ネクスクラフトの実態を証言しているらしい。瀬倉と鳴海、二人の協力を得て訴訟を起こしていることになる。
「歩さんに声を掛けられたとき、俺にも何かできるなら、と了承しました。俺は、自分の転職に精一杯で、鈴木さんのことなんて考えていなかったんです。それが今では恥ずかしい。ネクスクラフトを訴えるためなら、俺はどんな証言でもします。必ず、鈴木さんの敵を討ってやる」
鳴海の言葉とは裏腹に、覇気はそれほど感じられない。まだネクスクラフトで働いた間に蓄積した疲労が残っているのだろう。鈴木が死んだショックもあると思われた。
「職場での鈴木さんは、どんな人でしたか」
「よく働く人だな、と思っていました。営業成績も結構よくて、俺みたいに説教されるところは見たことがありません。人当たりが良くて、いつも穏やかで、どうしてこの会社にいながらそんなに平然としていられるんだろうと思っていました」
「私が知っている鈴木さんも、そんな感じです。いつも泰然としているというか、動じないというか」
「そうそう、そんな感じですよね」
「どうして自殺したんでしょう。わかりますか」
「それですが」
鳴海は目に光を宿し、身を乗り出した。
「他人に自殺するなと言っておいて、自分が自殺すると思いますか。鈴木さんが死んで、ただでさえ空気が悪かった会社はお通夜ムードになりました。瀬倉さん以外にも悲しむ人が沢山いたし、歩さんのように行動に出る人もいる。会社は訴訟を受け、労基も動き、示談のための話し合いが進んでいます。風評被害だってばかにならないでしょう。そんな、一人の自殺が引き起こすあれこれを、鈴木さんが想像できなかったとは思いません」
桜子は黙って話の行く末を待つ。
「鈴木さんは、誰かに殺されたんじゃないでしょうか。だって、動機がありません」