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第24話

「可哀想な子やったな。最後まで救われんかったか」

 清隆は田辺に、アパートの前の車中から電話で事の顛末を報告していた。スピーカーモードにしているおかげで、桜子にも会話の内容が聞こえる。

「最初に目にしたときから、難しいとは思っていました。あれくらい小さい子だと、言葉が通じない可能性が高かったので」

「三歳いうたら、もう言葉通じるやろ」

「悪霊になってしまうと、言葉が通じにくくなるんです。ただでさえ言語能力が未発達の三歳児がそうなってしまうと、経験的に、説得は難しいです。そもそも、説得って大人相手にすることですからね。子供相手には、言い聞かせとか、諭すとか、教える要素が強まります」

「成仏する方法を、教えるわけにはいかんかったんか」

「今回は、そんな余裕はありませんでした。菜摘さんの命が危なかった」

「そんなバケモンが住んどったとはなあ」

 除霊が終わり、菜摘が落ち着いた後、彼女らは放心したように見たものを語り合い、質問し、そして帰っていった。清隆は菜摘に、「しばらく火の匂いがするかもしれませんが大丈夫です」とよくわからないことを言っていた。後で聞くと、焼いた霊の匂いというものもあるらしい。サカグラシの鼻にはそこそこ強烈な匂いなのだとか。

 菜摘は、最後も泣いていた。ずっと心残りだったこのアパートに来て、我が子を拾い、そしてまた失った。この世ならざるものが消えるのは必然だが、もっと早く来ていれば、もっと穏やかな最期を迎えさせることができたという後悔は、きっと一生つきまとうことだろう。

 子供がいない桜子にはわからないが、そこには愛があったはずなのだ。離婚して、親権を貰い受け、女手一つで育てていた。それがたまたま不幸な形で崩壊してしまっただけで、菜摘の愛情が否定されたわけではない。

 ただ、と桜子は俯く。

 後味の悪さが胸に刺さっていた。浅田も巾木も、悪霊になっていたところを、正気を取り戻させることで救えたと思っている。今回は違う。ただ消滅させただけだ。そこには救済も、笑顔もない。

どうしようもなかったことはわかっているが、でも、それでも、と桜子の心に燻るものがあった。

「最期は火か」

 田辺は、清隆の報告をきちんと信じているようで、焼いたことも事実として受け止めていた。管理会社を経由せずに除霊を依頼してきたほどだから、信心深いのかもしれない。

「あったかいというには、ちょっと熱すぎるわな。寒い思いもしとったろうに」

「寒い思い?」

「言うたやろ。事件があったのは去年の一月や。発見されたとき、布団も敷かず、暖房も点けず、寒い部屋で死んどったんやと」

 桜子が状況を想像する。

 ふと、疑問に思うことがあった。話に割り込む。

「田辺さん、確認ですが、子どもの死因は餓死でしたよね」

 急に会話に入って来た桜子に、清隆は怪訝な顔をしながらもスマートフォンを近づけてくれる。

「そう聞いとるで」

「一月の、冬のど真ん中で暖房も点けずに死んでいたって言いました?」


 春子と菜摘は、元々仲の良い親子ではない。父親のいない家庭で、半分放置しながら育ててきたのだから、それも当然だと春子は思ってきた。もちろん、女手一つで育てることは苦労が多かったし、贅沢をさせてあげられなかった。それでも、愛情だけは持っていたつもりだ。

 愛情だけでは、菜摘には足りなかった。

 菜摘は高校卒業と同時に家を飛び出し、見知らぬ土地で暮らし始めた。奨学金で専門学校に行くことを提案したが、すぐに働くと言って聞かなかった。なぜ頑なに就職する道を選ぶのか、家を出て行くのか、遠い土地へ行くのか。言葉を尽くせば理解し合えたかもしれないことを語る言葉は、二人の間にはなかった。

 就職する。

 わかった。

 そんな無味乾燥の言葉だけ交わして、娘の決定を尊重するという外面だけを提げて、春子は菜摘を送り出した。見送ってしまった。

 そのときもっと話しておけば。いや、もっと前から、なんとか時間を作って娘と向き合っておけば、何かは変わったのではないか、そう悔やんでいる。

 具体的には、これも春子に一方的に結婚報告した男と離婚した際、頼ってもらえたのではないか、ということ。

 片親の大変さを一番知っているのは春子自身だった。だから、出産後に離婚したのなら、手助けするべきだった。手助けできる関係を築いておくべきだった。

 離婚した後も、菜摘は春子を頼らなかった。頼られたのは、警察から連絡が来た後だった。

 ―—ごめんなさい。家に帰らせてください。

 子どもを死なせ、ボロボロになり、どうしようもなくなってようやく菜摘と春子は向き合った。

 頼れるものがないまま菜摘を育て上げた春子と、運悪く育てられなかった菜摘は、こうして再び一緒に暮らし始めた。

 春子が運転する車に揺られ、呆然と前だけを見つめている菜摘を横目で見ながら、春子は今日のことを思い出す。陰陽師を名乗る男と、その助手の女がやってきて、菜摘の子どもが幽霊になっていると言ってきたこと。それを除霊するために、菜摘がアパートを再訪する必要があったこと。そこにいたのは、子どもの幽霊だったこと。

 ふう、と息を吐く。

 常識を疑う光景だった。喋る猫が燃え上がり、アキトの幽霊を焼いた。

「ねえ、菜摘。アキトは消えちゃったんだね」

「らしいね。よくわからないけど、消滅させないと私が死んでいたってあの陰陽師は言っていたから。私が生きているってことはそういうことなんじゃないの」

「大丈夫?」

「どうだろ。複雑。元々、アキトがこの世に残っていてもいなくても、私にはどうしようもできなかったから。迎えにいけて良かったと思うけど、だから何って感じ」

 事件をきっかけに、春子と菜摘は長い言葉を交わすようになった。素直な気持ちを語り、助け合えるようになったことだけは、良いことだと思う。傷は消えないけれど、何も残らなかったわけじゃない。

 菜摘が右耳の辺りを手で触った。側頭部を叩く。

「どうしたの」

「なんか、右の耳が聞こえにくくて」

「耳?」

 春子は車を路側帯に停めた。年々衰えを感じるこの頃だ。よそ見しながら運転するのは危険だとわかっている。

 見せて、そう言おうと思ったとき、息を呑んだ。

 菜摘の右耳に覆いかぶさるように、小さな手が貼り付いていた。

 手の出どころを見る。ヘッドレストの後ろから手が伸びており、その先には目が真っ黒な子どもがいた。

 春子は絶叫する。明らかにこの世のものではない人間。アキトにそっくりな見た目。

 菜摘も春子の視線の先にいるモノに気付いた。

「フユキ?」

 子どもの霊の口角が上がっていく。

 アキトとフユキ。菜摘の子どもは双子だった。

 アキトは幽霊になり、焼き払われた。そして、フユキの姿は202号室になかった。否、見つけることができなかった。春子の頭が、麻痺しそうになりながら結論を導く。

 フユキは、そのときには既に菜摘に憑りついていたのだ。

 フユキが這って菜摘によじ登る。止めようにも触れない。抱きしめることも、何もできない。

 春子は無我夢中でフユキを払い落とそうとするが、手がすり抜けるばかりでどうにもならない。アキトは菜摘の顔にしがみついただけで呼吸困難を引き起こした。では、今回はどうなる。

 フユキの手が菜摘の喉に到達した。ぐ、と声が漏れ、菜摘がもがき始める。

 この子たちは、甘えているんじゃない。母親を自分たちのもとへと引きずりこもうとしているんだ。

「やめなさい!」

 春子が叱ると同時に、影が春子の前を横切った。

 猫。陰陽師が使役していた、普段は見えない猫。

「清隆、もう一人いたぞ。呑め」

 猫が何か喋り、再び燃え上がり出す。アキトを焼いたときのように、フユキに食らいついた。

 車内が炎で満たされる。不思議と、春子は熱さを感じなかった。

 フユキの笑い声が聞こえる。お母さん、と呼ぶ声が混じりながら、喜びを全力で表す。やがて声が小さくなっていき、焼き消えた。

「悪いな。焼いたあとは鼻が利きにくいんだ。お陰で気づけなかった。双子の悪霊とは、私も初めての経験だったもんでな。背中を確認しなくて悪かったよ。油断していた」

 猫の火が弱まり、普通の家猫のサイズになっていく。

「今度こそ、確実に祓いきった。安心して帰れ」

 そう言い残し、猫は消えた。

 咳込む菜摘と、力が抜けた春子の傍を、車が走りぬけていく。


「霊を見えるようにしただろ」

 清隆は、戻ってきたサカグラシを迎え、桜子に話す。

「私も含め、春子さんと菜摘さんをですね」

「そのとき、糸が通る」

「糸?」

「縁といってもいい。まあ、安倍家の陰陽術的な解釈なんだけど、俺とサカグラシの間にはロープみたいに太い糸が通っていて、それで力を行き来させられる。そして、術を介して、その糸が他の人にも延びるんだ。今回は霊が見えるようになる術を使ったから、春子さんと菜摘さんとサカグラシの間には一時的に糸が通っていた。だから空間を越えてサカグラシが急行できたってわけ」

 桜子はサカグラシを撫でようとしたが、手がすり抜けた。見えるだけで、触れるようにはなっていない。

「そういうことができるんですね」

「まあ、桜子さんが気づかなかったら手遅れになっていたわけだけど。あと数分で取返しのつかないことになっていた」

 桜子が気づいたことは、死因の違和感だった。餓死。冬の一月、布団も敷かず、暖房も点けず、凍死ではなく、餓死したこと。

 屋内にいれば、そして条件が揃えば凍死しないこともあるだろう。その条件とは何か。

 例えば、二人で温め合いながら凌いでいた、という条件。

 死んだ子どもが二人いた可能性はないのか尋ねると、田辺にも清隆にも確固たる自信はなかった。そこでサカグラシを飛ばして確認しに行った。結果は、最悪の一歩手前だった。ぎりぎりで間に合った。

「桜子さんのお陰で助かった。俺は、知らずに人を死なせてしまうところだった」

 清隆が頭を下げる。慌てて肩を掴んで顔を上げさせる。

「仮にそうなっても、悪いのは清隆さんじゃありませんよ。菜摘さんを攫った男が悪いんです」

「いや、俺の責任だ。陰陽師として、果たさなければならない責任があった」

 桜子は眉根を寄せた。

「清隆さん」

 言ってあげたいことは沢山ある。あるけれど、桜子は口を噤んだ。

「帰りましょう」

 おそらく、清隆には清隆なりの仕事へのプライドがあるのだろう、そう思って。

 その過ぎたプライドや責任感が、彼を苦しめていることも、なんとなく分かった上で、桜子は何も言わない。

 否定する権利はない。

 私にできることをやろう。


「わああああああああ!」

「もっと甲高く、キャアアって感じに」

「キャアアアアアア!」

 清隆は、ぶらぶらと歩きながら般若と桜子の練習を眺めていた。近くで見ていた鈴木に話しかける。

「またやってんの? 叫びは難しいから取り入れないって話じゃなかったっけ」

「それが、インスピレーションを受けたとかで、また桜子さんが挑戦しているんですよ」

「インスピレーションねえ」

 清隆には、先日祓った双子の悪霊が思い出された。桜子の足に抱き着いて叫ばれたときの経験を材料に、般若に再現させようとしていることはわかる。だが、般若の叫びはどうしても不気味さに欠けていた。遊んで嬌声を上げている子どもにしか見えない。

「もっと、訴えかけるように」

「キャアアアアアアアあああ? うったえ?」

「何かを伝えようとするってこと」

「何を伝えればいいの」

「ええ? えっと……」

 言い淀む桜子の顔が面白くて、清隆は笑ってしまう。横目で睨まれたので、手刀で謝って目を伏せる。

「無念とか、恨めしさとか、そういう感情を出すの」

 般若の首がコテンと横に倒れた。

 そりゃあ、そうだ。そんなに難しい言葉を使っても、幼い般若には通じない。だいたい、般若には記憶がないのだ。負の情念すら持っていない子にその演技はできない。

「桜子さん、諦めなよ。あれは正気を失った悪霊だから出せた雰囲気なんだから」

 桜子は不満そうな顔をして、般若に、休憩、と告げた。そのまま重い足取りで壁に手をつく。

「あんなに怖い思いをしたのに、収穫が無いなんて悔しいじゃないですか。せめて「後ろの真実」の演出に活かさないと」

「そう気張らなくても。毎回収穫があるわけじゃないさ。俺たちは神でも悪魔でもない。ただの陰陽師と会社員なんだから」

 言いながら、桜子も怖かったのだな、と妙な感慨を得た。巾木もなかなかにショッキングな体験だったのだろうが、やはり直接触れられたことが大きいようだ。感触の記憶、特に悪い記憶は結構根深く残る。

 はあ、と桜子は溜息をついて暗い天井を見上げた。

「不思議なんですけど、どうしてあの子たちはアパートから出て、お母さんの元へ行かなかったんでしょう。私のときも、部屋から出たら追って来なかったですし」

 そんなことを考えていたのか。あの双子のことが忘れられないとみえる。男である清隆とは、今回の一件の見え方が異なるのかもしれない。江藤菜摘も女だったし、もしも自分なら、と考えてしまうのだろう。

「推測だけど、あの部屋しか知らなかったんじゃないかと思う」

「どういう意味です?」

「文字通り、外の世界を知らなかったんだろ。母親がいないと、外出もできない臆病な子どもたちだったのさ。だから、死んで自由になれたことに気づけなくて、あの部屋に留まるうちに凝り固まって、人に害為す存在へとなってしまった」

 清隆は霊でも人でも、一括りに語ることが苦手だ。陰陽師というマイノリティーにいると、一般や常識という言葉の薄っぺらさを感じる。

 だけど今は、桜子と話すために、共感しあうために、言葉を選ぶ。

「可哀想な子たちだったんだよ。少なくとも、悪霊になるまであの部屋にいる必要はなかった。ちゃんとあの世に送ってあげたかったな」

 桜子は壁にもたれ、ずるずると滑り落ちて三角座りになる。清隆の目からは脳天の旋毛が見えて、表情はわからない。でも、なんとなく落ち込んでいるような気がした。

「悪霊になる霊とならない霊って何が違うんでしょう」

 元気づけたいと思う。でもその言葉を清隆は持たない。もっと口が上手くなればいいのにと、願う。

「何も違わないさ。執心するものがあると悪霊になりやすい。たとえ母親に会いたいという気持ちであってもね。つまり、愛だ」

「愛かあ」

「愛なんて、死んでも持つものじゃないってことだよ」


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