春子の運転する車、桜子の運転する車、それぞれに分乗して、四人はアパートへと向かった。
「ごめん。先に謝っておく」
清隆は窓の外を見たまま言う。
「何をですか」
「なんだろう。そうだな、男って動物の端くれとしてというか」
「清隆さんが謝ることじゃないでしょう」
「まあ、そうだね。あとは、あの子は成仏してしまうかもしれない。母親について行くかもしれない。どっちでも、「後ろの真実」のキャストにはならないからさ」
「無理やり連れて行くわけにはいきませんから。それがあの子の幸せなら、諦めるしかありませんよ」
「そうか。ありがとう」
「お礼を言われるようなことでもありませんよ」
「そうか。そうだね」
桜子はバックミラーに映る江藤親子が乗る車を見る。向こうは今頃、何を話しているのだろうか。
「桜子さんはさ、烏丸のことがあったわけじゃん」
「殺されかけましたね」
「男を、また好きになること、できると思う?」
「セクハラですか?」
「世間話だよ」
桜子が冗談めかして言うと、清隆も冗談めかして返してきた。重い話になるかもしれないことが、それだけで軽くなる。もっと重い話を聞いた直後だからかもしれない。
桜子は一応真剣に考える。
「どうでしょうね。わかりません」
答えは出なかった。
「例えば、清隆さんと烏丸を同じ男だという括りに入れてしまうのは、乱暴だと思います。そんなに人間という生物は単純じゃないと思いますし。でも、だからといって烏丸以外の男性全員を、今までと同じように見られるかと問われたら、それも微妙ですね。どうしたって、男という生き物の怖さを経験してしまったわけなので」
「俺はさ、自分のことを情けない男だと思っているんだ。初対面じゃまともに話せないし、だいたいいつも自信が無い。だけど、根拠の無い自信を振り回して誰かを殺すほど追い詰めるようなことをしないって点では、こんな性格で良かったと思っている」
行く手に雲がかかり始めた。雨が降りそうにない、半端な曇り空だ。
「情けなくてもいいじゃないですか。そんな清隆さんだから、私は「後ろの真実」で働いているのかもしれませんよ」
「そこは、情けなくなんてありません、って言ってくれるところじゃないの?」
「事実を捻じ曲げるのはちょっと」
「優しい嘘って知っている?」
午後五時。アパートに着いたとき、ヘッドライトを点けようか迷うくらいになっていた。桜子は点けなかったが、春子が運転する車は途中から点けていた。
アパートの駐車場に降り立つと、江藤親子はそれぞれが感慨深そうにアパートを見上げていた。春子には一年と四か月前に片付けにきた決して良くない記憶が、菜摘には子どもと暮らした思い出が去来していることだろう。桜子はそっと滑り込むように話しかける。
「202号室に行く前に、覚悟をお願いします。何が起こっても冷静でいる覚悟を」
車中で清隆から頼まれたことだった。初対面、しかも女性相手では、清隆から正確に伝えることができないだろうから、と。
「私が先日202号室を訪れたとき、子どもの幽霊が見えましたし、抱きつかれました。危険だと判断したため、そのときは力づくで引き剥がしました。今日、お二人の身に何かが起きる可能性はあります。ですが、絶対にパニックにならないでください。我々はプロです。お二人の安全は保証します」
清隆は三人分の紙コップと水を用意した。幽霊や妖が見えるようになる術を施すためだ。
サカグラシが見えるようになったことで江藤親子は驚いていたが、清隆は簡単に紹介しただけで、いつものリュックをトランクから取り出し、背負った。各種の酒が入っており、それらに応じた能力を、サカグラシを通じて発揮する準備が整っている。
「行きましょう」
清隆が短く言い、一同に重い緊張が流れる。四人で登る外階段は頼りなかったが、軋み一つ上げることなく二階へと届けてくれた。
202号室の前に立つ。清隆は鍵を開け、一度桜子に向かって頷き、ドアを開けた。
桜子から見て、202号室は前回来た時と変わらず見えた。一つ一つ、ドアを開けては閉め、部屋の中を確認していく。そしてダイニングに来た時、あの子どもの姿を捉えた。
今日も、見えている。
真っ黒な目。二本の足で頼りなく立った姿。右手の親指をしゃぶっていたのか、手が半端に上がっている。
僅かに遅れて入って来た江藤親子が「ひいっ」と声を出した。その声に反応し、子どもがくしゃりと顔を歪めた。笑ったのだとわかるまで数秒要した。それくらい、凶悪な笑顔だった。
まるで、美味しい獲物を見つけた猫のような。
こんな子どもに、そんな顔をさせるほどのことが、ここで起こった。飢えて、寂しくて、母を求めた。
「アキト」
菜摘が呟く。子供の名前だろうか。その声がきっかけになったかのように、子どもの姿が消えた。桜子は咄嗟に自分の足を見るが、そこにはいない。成仏した? と思考が掠めたとき、202号室にくぐもった声が響いた。
「あああああああああああ」
菜摘だった。振り返った桜子は動くことができなくなった。
アキトと呼ばれた子どもが、菜摘の顔面にしがみついていた。菜摘の頭を抱きかかえるようにして髪を掴み、足が顎を挟んでいる。
菜摘がうめき声を上げながら顔の前にあるものを外そうとするが、両手が通り抜けるだけで触れることはできない。
ぞっとした。足を掴まれただけであの重みを感じたのだ。顔を掴まれたならどうなる? 息はできているのか?
「清隆さん!」
「サカグラシ!」
清隆が式神の名を叫ぶと同時に、アキトに掴みかかった。苦しそうにもがく菜摘から引き剥がそうとする。
だが、離れない。
アキトの母親を求める気持ちが、手を離すことを許さない。
「こいつはとっくに悪霊だ」
清隆が左手で菜摘の肩を、右手でアキトの頭を掴み、なんとか引き剥がそうとする。
菜摘が崩れ落ちた。どうなっているかわからない。だが、喉や口の辺りを押さえてもがいている。
「菜摘、菜摘!」
春子が半狂乱で娘の名前を呼ぶ。清隆が舌打ちする。手を離し、リュックから一本の酒を取り出した。
一気に飲み干す。
「ウォッカは漢字で火酒。焼け、サカグラシ」
「あいよ」
サカグラシが火猫になって飛びつき、アキトが燃え上がった。それでも手を離さない。
アキトが叫び声を上げる。耳をつんざくような、歓喜の声だった。母が戻ってきた、その事実がアキトを強くしている。
桜子にもわかった。これは、離れてくれない。例え死の苦しみを与えられようとも、アキトは二度と母を離さない。
悪霊。
「サカグラシ、焼き切れ。消滅させるんだ」
清隆が冷淡にも思える声で命じた。やりたくないと言っていた、完全な消滅。食らいついたサカグラシが火力を上げる。
アキトの姿が見えなくなるまで、一分もかからなかった。
後に残ったのは、横たわる菜摘と、静かなアパートの一室。
除霊が、終わった。