目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第22話

 たった一時間だけクラブに行くのが菜摘のリフレッシュだった。

 昼間はパートタイムで働き、保育園に迎えに行き、夜ご飯とお風呂と寝かしつけを終え、体力が余った日にだけ繰り出す遊びの時間。

 その時間で寝ればいい、と春子には言われたが、そうすれば本当に自分の時間なんてなくなってしまう。僅かでも、無理をしてでも、社交し、楽しむ時間が菜摘には必要だった。

 再婚相手を探す、という意味があったこともたしかだ。離婚する際、親権を貰うと決めたことに後悔は無い。だが、一人で育てることの大変さを、身をもって痛感する日々だった。再婚とはいわなくても、支援してくれる手があればそれだけでも助かる。趣味が合い、子どもが好きで、一緒に暮らしてくれる男がいないか、薄い望みをかけてクラブに通う日々。

 もっとも、たったの一時間だけいるようでは、まともに男と仲良くなることもできないわけだが。

 暗くなりそうな気持ちを振り払うように、今日も菜摘はEDMの音楽に合わせて体を揺らし踊る。アルコールが程よく回ったところで休んでいると、一人の男に声を掛けられた。

 それ自体は珍しいことではない。ここのクラブで菜摘は常連だ。知り合いだって多い。だが、その男は知らない顔だった。そして何より、顔が好みだった。薄い、線の細い印象の体躯。洒落た柄の、可愛い印象のロングTシャツ。歯並びが整い、全体から柔らかい印象が漂っていた。

「ねえ、なんでいつもすぐ帰っちゃうの」

 クラッときた。男は低い声が良いという同性の友人が多いが、菜摘は逆に、少し高いくらいの声に惹かれる。どこか子どもっぽくて可愛い。そんな好みど真ん中の男が隣に座り、菜摘の目を覗き込んで来る。

「朝が早いから」

 本音を言えば、明け方まで踊る体力がないからという理由もある。だが、ここに来ている以上、同情を誘うようなことは言いたくない。菜摘の小さなプライドだった。

「そっか。じゃあ、貴重な時間なわけだ。ずっと気になっていたんだよね。いつも一人で来ているでしょ」

「連れだってしか来られないほど子どもじゃないの」

「女の子って連帯して行動するイメージだけど」

「女の子っていう歳でもないんだよね」

「何歳? って聞きたくなること言うね。何歳でもいいけど、成人はしているんでしょ。一杯奢らせてよ」

 男はそう言ってカウンターにお酒を買いに行った。戻ってくると、菜摘が最初に注文したものと同じものが二杯手にあった。

「私が何を飲んでいたか、見ていたの?」

「ごめん。気になっちゃってさ」

「気になったって、いつから」

「結構前から。今日、会えたら話しかけようと思って来たんだ」

 男はじっと菜摘を見つめ、はにかむように笑った。乾杯、とグラスを小さく掲げる。菜摘も乾杯、と声を出す。音楽が賑やかで、どうしてもある程度声を張り上げないといけないのが、少しもったいなかった。

「名前を、訊いてもいい?」

「江藤菜摘。そっちは?」

「僕は……」

 何と名乗ったのか、わからなかった。意識が遠のき、体の平衡感覚がなくなっていく。記憶がぐにゃりと歪み、やがてぶつりと途切れた。

 次に気がついたときには、右手が柱に繋がれていた。柱にねじ込まれた杭から伸びる鎖と右手が手錠で繋がっている。

 動揺と共に頭痛が襲って来た。喉が酷く乾いている。心臓の音がうるさくて、目線を走らせたけれど意味がわからなかった。


「それから何があったか、知りたい?」

 菜摘は口元だけで笑う。桜子は眉間に皺を寄せて膝の上で拳を握った。

「お酒に、薬を盛られたんですか」

「そういうこと。本人が認めたから間違いない」

「あなたは監禁されて、脱出することができなかったということですね」

「ついでに言えば、散々殴られたし、レイプされた」

 菜摘は鉛が入ったような笑い方をした。

 桜子には他人事だと思えなかった。烏丸に待ち伏せられた大雨の日を思い出す。あのまま捕まっていたらどうなっていたかわからない。半殺しにされてどこかに連れて行かれた可能性はゼロじゃない。というより、そうする準備をしていたと考える方が自然だ。

「大変でしたね。なんて、簡単に言えることではありませんが」

「そうね。簡単に言って欲しくない」

「でも、私たちは知る必要がありますので、聞かせてください。あなたはその状況からどうやって生還したんですか」

「それは」と菜摘は言いかけた後、口元を押さえた。

「大丈夫ですか」

 菜摘は歯の隙間から絞り出すような小さな声で答える。

「大丈夫なわけがないじゃない。何を思い出させていると思っているわけ」

「すいません」

 しばらく春子が菜摘の背中をさすり、口元から手を離した。顔が青くなっている。

「隙を見て逃げ出したの。痩せてガリガリになったら、手のサイズが小さくなったのね。全力で引っ張ったら手が通ったってわけ。あいつも永遠に家にいられるわけじゃないから、逃げ出せる時間はあったの」

「その男は、働いていたんですか」

「普通の会社員だって、警察からは聞いた。何の職種だったっけ」

「食料品の営業よ」

 春子が補足した。

「そうそう。そんなに有名じゃない会社なんじゃなかったかな。人が食べる物を売る仕事をしていたなんて、信じられない。時間感覚はどうかしていたけど、数日経っていたことはわかっていた。なんとか民家を見つけて保護してもらって、警察を呼んだの。あいつは現行犯で逮捕された。めでたしめでたし」

 菜摘は両手を広げて、苦しそうに言う。

 桜子は奥歯を噛みしめ、その様子を必死に受け止めた。

「お子さんは?」

「玄関の鍵にも手が届かないくらいの背丈しかなかったんだよ。私が帰らなくなって、どうなったかは想像つくでしょ」

 死んだのだ。餓死だと聞いた。母親の帰りを待って、待って、待ち続けて、それしかできなかった。電話のかけ方も知らない小さな子には、どうすることもできなかった。

「私は入院して、その間にお母さんに部屋を片付けてもらったの。すぐに退去したから、あのアパートには結局帰っていない」

 菜摘は、冷めたコーヒーを一気に飲んで、軽やかに笑った。桜子には、その哀しみを理解することができない。あまりにも辛すぎて、共感の涙を流すことすらできなかった。

「地獄は終わらなかった。世間的に、私はどう見えたと思う? 子どもを残して遊びに出かけた、母親失格の女だってさ。自業自得だって叩かれた。事件が新聞に載ってから、SNSや電話番号を特定され、どこの誰かもわからない人間からひっきりなしに責められた。子どもが死んだのはお前のせいだって。私、何か悪い事した? たったの一時間の息抜きすら許されないほど、私は駄目な母親だったの? 子どもを寝かしつけた後の一時間なんて、誰だって自分のために使っている時間じゃない。それを、それを、そんなことを……」

 菜摘は震えながら訴える。その目に涙はない。真夏のアスファルトのような渇いた怒りと絶望を目に浮かべ、テーブルを睨んでいた。

 そこに、憎むべき誰かがいるかのように。

 清隆が口を開いた。

「わかりました。ありがとうございます。辛い話をさせてしまい、申し訳ありません。その男ができるだけ重い罪で裁かれることを願います。ただ、我々にとっては、霊となったお子さんを救うまで事件は終わっていません」

「お葬式は挙げたんだけど」

「葬式を挙げても霊となるケースは往々にしてあります。お子さんは、あなたの帰りを待っていた。でも、やってきたのは春子さんや引っ越し業者、そして新しい住人たちだった。だから問題を起こしているのだと思います」

「何が言いたいの」

 桜子は、横目で清隆が怯むのを見た。だが、清隆は言葉を止めない。

「お子さんは、今もあなたの帰りを待っているのだと思います。迎えに行きませんか。あなたは事件を必死で消化しようとしている。自分の中で決着をつけようともがいている。だから、その一つとして、あのアパートに行きましょう。置いてきたものが、そこにあります」

 菜摘の目に、初めて涙が浮かんだ。何の涙なのか、桜子にはわからなかった。


コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?