重い沈黙が井戸の底に流れていた。清隆ですら無理なら、もう本当に打つ手はないじゃないか。
「これ、どんどん人が放り込まれて来たらどうなるんでしょうか」
「どんどん狭くなるな」
「その上で、あれにまた見つめられるんですか。もう我慢できないんですけど」
「トイレが?」
「違います。いや、それもいずれ重要な問題になりますけど。あの眼、視線がやばいんですよ。なんか、発狂しそうになるっていうか」
「眼力ってものは昔から不思議な力があるとされてきたからな。本来目というのは送信器ではなく受信器なのに」
「目は口ほどにものを語るというやつですか」
「そうとも言うな」
「なんでそんなに余裕なんですか」
「狩りに出たってことは、近くに人が来たってことだ。俺たちや直樹君たちみたいにな。多分、捜索隊の誰かが近づいたとか、そういうことだろう。となれば、すぐに帰ってくるさ」
「帰ってきたらまずいじゃないですか」
「どうして」
「あの、眼が、やばいって話しましたよね」
わざわざ区切って強調する。
清隆はいまいち危機感が足りないようだが、あのとき感じた焦燥感は本物だった。発散しようもない井戸の底にいることに、気がおかしくなってしまいそうなくらい。
「俺たちはここから出られない。ならば、向こうから来てもらわないと倒しようがないじゃないか」
桜子は脳内に疑問符を浮かべた。
「倒せないって話じゃなかったですっけ」
「倒せないとは言っていない。この状況はどうしようもないということは言った」
「倒せるんですか」
勢い込んで訊くと、清隆は大したことないように頷く。
「話を聞くに、あの入口からこっちを覗き込んでくるんだろ。そこまで近づいてくれるんなら倒せるさ。逆に、姿を見せてもらわないとどうしようもない。いや、厳密には手がないわけでもないんだが、ちょっと賭け要素が増える。確実なのは、姿を見せてもらって、その上できっちり倒す。弱りさえすれば、この腹の中から脱出できるはずだ」
桜子は大きな息を吐いて滑り落ちた。
「なんだ、驚かせないでくださいよ。じゃあ、あとは待つだけでいいんですね」
「そう油断されても困るんだけどな。いつその女が戻ってくるかわからない。下手をしたら、何十時間も戻ってこないかもしれないんだから」
「サバイバルな状態は続くってことですね」
とはいえ、明確な希望が生まれたことに安堵できたのは事実だった。
桜子は思いつき、リュックから大豆バーを出す。
「直樹君、圭吾君、お腹空いていない?」
「ここに引き込まれる条件って何だったんでしょう」
桜子と清隆の持ち込んだ食料で軽く補給して、桜子は清隆に訊いた。
「何だろうな。一つは井戸に近づくことで間違いないと思う。でも、それだけだと捜索隊がわんさか連れ込まれていただろうから、別の要因もあるはずだ」
「地上で、女の人を見ましたよね、私たち」
清隆は上を見て思い返す仕草をした。
「あのときは、背後に立たれて、振り返ったよな。二人同時に」
「私は清隆さんが急に振り返ったからつられて振り返っただけですけど。でも、見えました」
「霊感ってやつは伝染するというか、霊感が強い人が近くにいると、周りの人間の霊感も励起されることがあるんだよな」
「共鳴する、みたいな?」
「というよりは、引っ張られる、が近い。俺が近くにいたことで、桜子さんの霊感が引っ張り上げられて、見えたんだと思う」
桜子は見上げてみた。まだ誰もいない。帰ってきていないようだ。
「ということは、井戸に近づき、あの人が見えた人間を選んで連れ込んでいる?」
「選んでいるというか、そうした人間にしか干渉できないのかもな。霊が見えない人間が何をしたって、直接霊に影響を及ぼせないように、霊の側も、霊感が無い人間には直接手を出せない。そういうものだから」
「なるほど」
「お姉さん」
直樹君が上を見たまま話しかけてきた。
「何」
「音がする」
急いで聴覚に集中すると、何かを引き摺るような音が微かに聞こえた。
これは、足音?
四人がじっと耳を澄まして上を見る。
と、急に人が現れ、落ちてきた。桜子は慌ててできるだけ端に飛び退く。
ドサリと凄い音を立てて落下した人は、消防団の法被を着ていた。地元民の捜索隊らしい。
同時に、女も姿を現す。身を乗り出してこちらを見始める。
「ああ、こりゃあ、たしかに眼力が強いな。サカグラシ」
清隆は落ちて来た消防団員には目もくれず、サカグラシを呼ぶと、リュックから一本の三五〇ミリリットルペットボトルを取り出した。
「それは?」
桜子が訊くと、清隆は「スミノフ」と答えて一気に半分ほど飲んだ。
「俺とサカグラシは、飲んだ酒の種類や名前に応じた能力が使える。スミノフは代表的なウォッカだ。そしてウォッカを漢字で書くと、火酒」
サカグラシが浮いた。元々重力なんて関係なさそうに動いていたから驚かなかったが、その姿が倍ほども大きくなり、さらに燃え上がったのはさすがに驚いた。
「ウォッカを飲んだとき、サカグラシは火猫に変わる。行け」
清隆の命令で、サカグラシは垂直に飛び上がった。井戸の内壁を伝って駆け上がり、あっという間に女の元に辿り着く。
そして、食らいついた。
濁音混じりの叫び声が響き、女は転がるようにして視界から消えた。途端に、井戸の内壁がぐにゃりと曲がり、全体が歪み始める。
「腹から出るぞ。着地に注意しろ」
清隆の声が聞こえるのと、足場が消えるのは同時だった。
落ちたときと同じように、足場が消える感覚があり、短い浮遊感の後、着地した。尻もちをついて直樹君や圭吾君、清隆、そして消防団員が着地する中、桜子はなんとか両足だけで踏ん張れた。
そこは、天守のある一の丸だった。日が傾き始めている。
悲鳴が聞こえて、その方向を見ると、サカグラシに噛みつかれ、全身に炎が回った女がのたうち回っていた。その背後に井戸が見える。
「清隆さん、サカグラシを止めてください」
清隆の方を向くと、立ち上がって険しい顔で見ていた。その視線がこちらに向く。
「どうしてだ。こいつは危険すぎる。人が死ぬところだったんだぞ。このまま消滅させる」
「駄目です。この人は被害者であり、犠牲者です。このまま消滅させるなんて、駄目です」
「どうしてわかる、そんなこと」
「夢を見ました。私だけじゃなく、直樹君と圭吾君も」
「夢?」
「多分、あの人が死んだ経緯です」
清隆の視線を受け止める。ここで退いたら後悔する、そんな予感だけはあった。何をどうするのか、高速で頭が回り始める。
先に折れたのは清隆だった。視線を逸らし、告げる。
「サカグラシ、離れろ」
サカグラシが女から離れ、間合いを取った。
「いいのか? このままやれば確実に仕留められるぞ」
「ウチの演出が何かしたいそうだから」
桜子の口元に笑みが零れた。最初からバレているのだから当然か。
この女性を、このまま消滅させてはならない。できれば「後ろの真実」のキャストに加えたい。
火が消えて、弱々しく地面の上を這いずる女の元に歩み寄り、しゃがみ込む。
「見ました。あなたの夢を。あれはあなたからのメッセージですね。あなたは夫に子どもを殺された。その上で、自分もこの井戸に閉じ込められて、多分、渇きで亡くなった。そのときの恐怖をわかってもらいたくて、そのときの苦しみを知ってもらいたくて、私たちを閉じ込めたんでしょう」
ここはもう腹の中ではない。触れることはできないだろうと思いながら手を伸ばす。思った通り、手は女の体を透りぬけた。
「伝わりましたよ。怖かった。苦しかった。実際の井戸はもっと狭いでしょうから、なおのこと辛かったでしょうね。だから、もういいんです。あなたの無念は必ずあの和哉という男に届きます。ここにはあなたの骨があるはずですね。それを通報すれば間違いなく事件化します。そして、夫は筆頭容疑者です。日本の警察は優秀ですから、絶対に捕まります。だから、あなたがここで訴える必要はもうなくなったんです」
女の目を見る。あの焦燥感のような感覚は、もう覚えなかった。
「ここを離れましょう。あなたはどこへでも行けます。まず、名前を教えてください。そして、一緒に行きませんか」
女の目に涙が浮かぶのを、たしかに見た。
それがきっと、彼女が欲したもの。共感されること、助けてもらえること、そして人間らしさ。
「
「そうですか、巾木さん。私は鬼頭桜子といいます。一緒にお化け屋敷をやりましょう」
「お化け、屋敷?」
「人を笑顔にする、いい仕事ですよ」
「後ろの真実」に監視カメラが設置された。廊下や各部屋の様子がモニターできるようになっている。桜子が入社したときから、客の反応を直接知りたい気持ちはあったのだが、その手段がなかった。中で何かトラブルがあったときの対応もできなければならない、という現実的な問題もある。
工事のついでに、廊下から元教室に入るようにルートを変更した。浅田のエリア、巾木のエリアを確保するためである。
「じゃあ、巾木さん、打ち合わせ通りやってみましょう」
「はい!」
巾木は汚れたパジャマにぼろぼろの髪という酷い有様だが、お化け屋敷には合っているということで、そのまま出演してもらうことにした。
桜子は一旦廊下に出て、喋りながら部屋に入る。
「お客様が部屋に入ってくる。部屋にいるあなたと向かい合う。そして、どん!」
桜子の足元が消える。ほんの十センチほど落下し着地。でも、そこは見上げるほど高い井戸の内部に早変わりしている。
「じっくり驚く時間を与えて、ほい、出てくる」
巾木がゆっくりと井戸の口から顔を覗かせる。
とびっきりの優しい笑顔で。
「コラ! それじゃあ怖がれないでしょうが」
「す、すいません」
「お化け屋敷なんだから、怖がらせないといけないの。あのときの迫力はどこいったのよ」
その様子を見ていた清隆がカラカラと笑う。その手に持っているスマートフォンには、ネットニュースが表示されていた。
――霧崎城跡で白骨死体発見。警察は被害者の夫の
「もう一回、あのときの目を、あの目を思い出して」
「はい!」
巾木へのレッスンは続く。どこかで浅田が練習する、「そこの者、ちと待たれよ」という声が聞こえた。