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第15話

 顔が揺れた。ヒリヒリとした痛みが遅れてやってくる。

 顔を上げると、手のひらを上にして突き出された右手が視界に入る。

「金」

「何に使うの」

「パチンコ」

 財布からゆっくりと千円札三枚を出すと、ひったくられた。

「これしかねえのかよ」

 舌打ちと共に言われ、怖いを通り越して脱力する。本当に、自分が情けなかった。

夫が出て行った後、小銭だけ残った財布を握りしめてすすり泣く。妊娠したことはまだ言えていなかった。

 どうしてこうなってしまったのだろう。ほんの半年前までは優しい人だったのに。突然会社が倒産して無職になった。再就職活動が上手くいかず、だんだんと荒れていった。そこまでは記憶している。でも、こんなに酷くはなかった。今では再就職活動をしている様子もなく、パチンコと麻雀に通う日々。私の稼ぎだけでも食べていけるのが却って油断させているのでは、と思った矢先に発覚した妊娠だった。いずれ私は働けない期間ができる。和哉に働いてもらわないと生活できない。

 どうやって働かせようか。妊娠していることすら言えないようで、働けなんて言えない。

 スマートフォンを取り、SNSを見た。同世代たちがアップしている写真を見ると、自分が置かれている状況との落差に足元が崩れ落ちそうになる。溜息を吐いて電源を切った。皆に祝福してもらった結婚式が遠い昔のように思える。たったの二年前のことなのに。

 手を挙げられるようになったのもここ数か月のことだ。優しい人だと思っていたのに、本質を見抜くことができなかった。心の弱さと凶暴性を、本当はずっと抱えていた人だったんだ。人は追い込まれたとき本性が出るとはよく言ったものだ。三年付き合って結婚したのに、私は和哉のことを何もわかっていなかった。表層だけの付き合いで結婚してしまった。

 それでも言わねばならない。

 帰ってくるのを待って、言った。

「妊娠しました。だから、和哉も働いてください」

 それからは半狂乱だった。どうやって生活していくんだよ。好きで働いていないわけじゃない。ピルを飲まなかったお前が悪い。聞き取れたのはそれくらいで、あとは記憶にない。ああ、やっぱりこの人は受け止められなかった、という諦念にも似た思考放棄で聞き流していた。

ろせよ」

 腹を蹴られたことも、なんとなくそうなるような気がしていた。

「お前が働かなきゃ生活できねえんだから、ガキ育てている場合じゃねえだろ」

 繰り返し蹴られ、必死に庇った。反撃できない自分にすら、今は憤らない。

 どうしてこうなってしまったんだろう。

 その日の夜、腹痛とともに、胎児だったものを排出した。

「別れてください。離婚してください」

 パジャマのまま胎児の死骸を抱え、私は訴えた。もう一緒にはいられない。

「慰謝料を請求します」

 その一言が良くなかった。少なくとも、弁護士を交えて、二人きりでないときに発するべきだった。

 殴られ、蹴られ、意識を失った。次に意識を取り戻したときには、井戸の底だった。落下の衝撃で目が覚めたのだと、すぐに悟った。

 叫んだ。謝った。だが、和哉は井戸の口から見下ろすばかりで何も言わない。やがて何も言わず、網状の落下防止のカバーをかけて立ち去った。

 誰かが立ち寄ることにかけ、待つことにした。どこに閉じ込められたのかわからないが、ひどく寒い。湿った地面に直接腰を下ろし、ただ待った。

 しかし、雨が降り始める。強くはないが、長く、絶望的に長く降り続いた。


 ぶるりと震え、桜子は目を覚ました。

 何、今の、夢?

「お姉さん、大丈夫?」

 男の子の小さい方、圭吾君の方が心配そうにのぞき込んでいる。

「私、寝ていた?」

「うん。二十分くらい」

「やっぱり夢か」

 やけに具体的で断片的な夢だった。何か、意図を持って編集されたような、どこかのホラー映画を切り取って展開を追わされたような。

「ここで寝ると、変な夢見るよ」

 直樹君は膝を抱えたまま地面だけを見ている。

「どんな夢?」

「女の人になった夢。それで、殴られたり蹴られたりして、最後は殺されるんだ。ここみたいな井戸に落とされて」

「同じだ。私が見た夢と」

「お兄ちゃんも同じ夢を見たって言っていた」

それは、ただの夢ではないだろう。視線を上げると、女は相変わらずそこにいた。

「あの人の記憶だと思う」

「うん、僕たちもそう思う」

 こんな場所に閉じ込められるくらいだ。好きな夢を見せることができてもおかしくない。

 だとしたら、見せる意味は? 彼女に起こったことを知ってほしかっただけ? ならば既に目的は果たされたとも言えるけれど、出してくれる様子はない。

 うう、と口から知らず声が出た。自分で驚き、止める。

 つま先が動いた。貧乏ゆすりが始まり、体が揺れる。それに気づき、足を止める。

 良くない予感だけは腹の底に蓄積していく。何か、焦燥感のような感覚が体の内側から張り出してきて胸を突き破りそうだ。

「お姉さん?」

「大丈夫、じゃないかも。君たち、よく普通でいられるね」

 視線が痛い。ずっと見られている。それが圧迫感となって心にのしかかる。

「お姉さんたちが来て楽になった気がする。こっちを見ていないからかな。多分、お姉さんをずっと見ているんだと思う」

「ああ、納得。痛いくらい視線を感じるもん」

 普段、こんなに強く視線を感じることはないから、この領域内での特殊な感覚だろう。

「サカグラシさん、ここで発狂したらどうなるの」

「別にどうにもならない。だけど、迷惑だからやめてほしいな」

「迷惑って」

 息苦しくなってきた。やめろ、見るな、と叫びたい。無駄なことだからしないけれど。横になるスペースが余っていないことが呪わしく思えてきた。寝転がって意識を失っている清隆を蹴ってスペースをつくりたい。

 体を抱いて震えを押し殺す。狭さ、視線、不安、全てが押し寄せてくるようで、正気を保てない。

 限界に達し、バン、と地面を叩いたとき、ふっと気持ちが軽くなった。

「あれ」

「行ったね、女の人」

 圭吾君の言葉に上を向いてみると、そこには誰もいなかった。丸く切り取られた空だけが見える。

 急に呼吸が楽になる。やっぱりあの眼力が良くないのだ。呪い殺されるかと思った。

「清隆さん、そろそろ起きてくださいよ」

 井戸に落ちてから約一時間が経過している。脳震盪ならそろそろ回復してもいい頃合いだ。清隆の体を揺する。

 その言葉が通じたわけでもないだろうが、清隆は目を覚ました。最初の数分間は状況がわかっていないようで要領を得なかったが、順を追って説明していくと納得してくれた。

「つまり、直樹君と圭吾君は、その女の腹に呑まれてしまっていたわけか。それで、俺たちも同様に呑まれてしまったと」

「そういうことですね」

「で、その女は今どこに?」

「さっきまで井戸の口から覗き込んでいましたけど、いなくなりました」

「どこへ行ったんだろう」

「多分、次の人を連れ込みに行ったんだと思います」

 直樹君が言う。

「お姉さんたちが来る前も、姿が消えました」

「狩りに出る間はここを空けるってわけか」

「清隆さん」

「何」

「鬼の居ぬ間にここ、脱出しましょう」

「いや、無理だな」

「え?」

 耳を疑った。

「この状況、俺にもどうしようもない。脱出なんて到底無理だな」


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