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第10話

「後ろの真実」から車を走らせ、桜子は近所のレンタルDVD屋に来た。無論、ホラー映画を借りるためである。

 鈴木の反応を見る限り、彼はホラーが苦手とみえる。とびっきり怖いものを借りていこうと思い、棚を見て回った。

 どういうものが刺さるだろう。ホラーといってもジャンルは様々ある。王道の大ヒット作から、エンタメ寄りなもの、スプラッタやミステリー風味なものもホラーと呼ばれる。驚かせることを主眼に置いた作品もあれば、しっとり背筋を寒くさせる系統もある。

 桜子は本来の目的である、ホラー勉強会の開催を見失い始めていた。

 ホラー映画といえば、得体の知れないものが段々と忍び寄ってくる感覚が王道だ。何気ない日常や、ごく一般的な風景から始まり、徐々に奇妙なこと、おかしな気配の濃度が高まっていく。最初の三十分はむしろ何のテーマかわからないくらいがいい。伏線や設定を散りばめて、後に備えるのだ。そして一時間を過ぎたころから怪異が目に見えて起き始め、一時間半経つころ、主人公に直接語り掛けてくるような……。

「すいません」

 耳元で声がした。

「うひぃ!」

 そんな桜子に声が掛かった。振り向くと、白髪の男が帽子を胸に当てて立っていた。桜子の頭に老紳士、という言葉が浮かぶ。

「ななな、なんでしょう」

 映画について考えていたせいで、幽霊に話しかけられたような、おかしな連想をしてしまった。言葉が詰まる。

「安倍清隆様にご伝言をお願いしたいのですが」

 数秒、思考が止まり、次いでぐるぐると回転を始める。

 ぞわりと二の腕に鳥肌が立った。

 この人、何て言った?

「ええと、知りませんね。安倍という知り合いはいませんが」

 誰だ。どうして知っている。誰かが自分のことを知らないうちに知っている感覚は得体の知れない気味悪さがある。お化け屋敷なんかより、よっぽど気持ち悪い。烏丸の件が思い出された。

「申し遅れました」

 老紳士は警戒する桜子の様子を気にするそぶりもなくゆったりと話す。

「私、安倍志穂様の遣いで参りました」

「安倍、志穂?」

 どこかで聞いたような名前だ。というか、安倍?

「安倍清隆様の妹でございます」

「妹……」

 なるほど。私のことを知っている理由ははっきりした。清隆から写真か何かで私の顔を教わっていたというわけか。

「なるほど……いや」

 おかしい。だとしてもなぜ今、このタイミングで声を掛けられる。私がDVDを借りようと思い立ったのはついさっきだ。完全に思いつき。タイミングも、どこのレンタルDVDショップに行くかも、気まぐれで決めたようなものだ。

 それに、清隆が私の写真を撮った覚えもない。いつの間にか撮影していたという説も無いではないが、清隆の性格的に許可の一つくらい取りそうな気がする。加えて、それを私の知らない他人に無断で譲渡するなんて、清隆がするだろうか。

 おかしい。この人が言っていること、していることは、筋が通らない。

「鬼頭様には、ぜひ我が主の書簡を清隆様にお渡しいただきたく」

 私の名前まで知っている。

 桜子の中の警戒アラートが鳴る。烏丸を対処したら次は清隆の妹がきた。

「どうして私の顔と名前を知っているの」

「どうしてと申されましても、そういうものとしか申し上げられません」

「言えない、ってわけ?」

「私には計り知れないというだけでございます。あなたも、清隆様がなぜ霊を見て、術を使えるのか、説明はできないでしょう?」

 桜子は、ぐ、と返事に困った。

 この老紳士が言っていることはわかる。清隆が術を使える理由も、「後ろの真実」で幽霊が見える理由も、桜子はよくわかっていない。それは安倍家の秘伝であり、素人の桜子には手が届かない秘密だ。そういうもの、としか言えないことはたしかにある。

 その弁でいくと、この老紳士が私を捕まえられたのは、清隆の妹――志穂といったか―—の術ということになるのでは?

「鬼頭様」

「名字呼びはやめて。嫌いなの」

「では、桜子様。余計なお世話だとは存じておりますが、なぜここで私とあなたが出会えたのか、ということを考えるのは止めた方がよろしいかと存じます」

「どうして」

「考えても無駄だからです。志穂様がそう望まれたから、そうなったのです。志穂様が命じられたから、そうなったのですよ」

「意味がわからないんだけど」

「その通り。意味がわからないものに頭を悩ませることはありません。そういうものだと受け入れた方がずっと健康的です」

 桜子は顔をしかめた。わからないものをわからないままに放置して、それで状況が悪化したことがある。烏丸の目的や心情を考えず放置して、結果的に命を脅かされた。いつの間にか個人情報を握られているという状況は、とても看過できるものではない。

 老紳士は微笑む。

「どうしてもと仰るなら、清隆様に訊いてみればよいですよ。私やあなたより、余程事情に通じているはずですから」

「私は、今、あなたに訊いているんです」

「私は命じられただけの存在ですので、訊かれても答えようがありません」

 桜子は隠すことなく舌打ちした。知らぬ存ぜぬで押し通す気か。

 そんな桜子の様子を受け流すように、丁寧な口調で老紳士は言う。

「いかがでしょう。この書簡を清隆様にお渡し願えませんか」

 老紳士は真っ白な封筒を懐から取り出し、差し出した。桜子は悩んだが、結局、ここで押し問答をしても何も解決しないと思い、大きなため息と共に封筒を受け取った。

「どうして私なんです?」

「と、仰いますと?」

「清隆さんの妹なんでしょ、あなたの主は。だったら私なんて経由せずに、直接渡せばいいじゃない。こんな手紙だなんて方法使わず、電話するなり、メッセージを送るなり、やり方は色々あるはずでしょう。回りくどくない?」

 老紳士は唇の両端を上げた。

「あなたに会っておきたかったから、という理由が一つ。もう一つは、こちらが最大の理由ですが、志穂様と清隆様は喧嘩中なのですよ。直接話されるのは気まずいのですね」

「そんな理由? いい大人が」

「よい大人であろうと人間ですから」

 桜子はガシガシと頭を掻いた。納得できないことは多々あれど、これ以上はどうしようもない。ここで追い返して付き纏われても面倒だ。ここは一旦受け入れて、後で清隆と今後のことを相談しよう。私の素性が知られてしまった以上、敵にすることが一番厄介な展開だ。できれば妹とやらとも友好的な関係を築いておきたい。

 桜子は宛名、差出人をチェックする。

「わかりました。清隆さんにこれを渡せばいいんですね」

 宛名も差し出し人も無かった。のっぺりしたただの封筒である。

「ありがとう、お姉ちゃん」

 知らない声がして顔を上げると、そこにいたのは老紳士ではなく、ハーフパンツにロングTシャツを着た少年だった。

「え、誰?」

「よろしくね」

 少年は破顔すると、煙のように消えた。

 桜子は呆然と立ち尽くし、手に持った封筒を確かめる。間違いなくあるそれだけが、白昼夢でないことを示していた。

「人じゃ、なかった?」


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