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さて、那古野なごや城主となった叔父の信光に代わって、その弟孫十郎まごじゅうろう信次のぶつぐが守山城主となった。


六月二六日。

信次が若侍らと庄内川しょうないがわで川漁をしている所へ、若者が一人馬に乗って通りかかった。

城主の御前を乗馬のままで通るという無礼を許さず、洲賀すが才蔵さいぞうという侍がすかさず弓をとり矢を射掛けた。

脅しのつもりであったのか、しかし運悪く胸を貫いた。

若者は馬から転げ落ち、川へと落ちた。

即死であった。

よくやった、見事、などと歓声があがる。

信次のぶつぐをはじめ、若侍らがわっと駆け寄り無礼者の顔を見てやろうと、覗き込んだ。

歳の頃は十五、六。肌は白粉おしろいを塗ったように白く、あかい唇で柔和な姿、容貌は人に優れて麗しく。

「ぎゃっ!喜六郎きろくろうではないか!」

信次は腰を抜かしその場にへたり込むとがたがたと震えだした。

若者は、その美しさはなんとも喩えようもないとされた、信長のぶなが信勝のぶかつの弟、喜六郎秀孝ひでたかであったのだ。

皆一様に肝を潰した。

特に信次は取るものも取りあえず、守山もりやま城に立ち寄りもせず、そのまま国外へと出奔。

その後行方知れずとなった。

秀孝は信長、信勝共に特に可愛がっている弟であったため、その怒りを恐れたのだ。


まさしくその通りのことが起こった。

秀孝の訃報を受け、信勝は柴田しばた勝家かついえらを従え、ただちに末盛すえもり城から守山城へ駆け付けると城下に火を放ち、守山城をあっという間にはだか城にしてしまった。

まさしくあっという間の出来事であった。

普段戦に出ない信勝であったが、その差配は見事と言う他なく。

鬼のような、と囁かれたという。

「か、勘十郎かんじゅうろう様、勘十郎様!どうぞお気をお静めください!ご家来衆も逐電、もはや空き城でございます!」

「止めるな蔵人くらんど!」

普段穏やかな信勝らしからぬ乱暴さに、津々木つづき蔵人ら若衆が慌てふためきながらも宥めるも、止まらず。

辺り一面を焼け野原にして漸く、信勝はどうにか冷静さを取り戻したが、その嘆きは深かった。

「喜六郎……!」

堪え切れず涙を零す信勝に、周囲は意外そうな視線を投げかけるのだった。

怒りに任せて火を掛けるなどと、常の信勝からは想像もできない有様で。

誰も口にはしなかったが、まるで兄、信長のような振る舞いであったのだ。

やはり血の繋がった兄弟なのだなと、柴田勝家などは背筋を寒くしたという。


一方の信長も清州きよすからただ一騎で駆け通し、守山の入り口矢田やた川で馬に水を飲ませていた。

家来衆は勿論後に続いたのだが、引き離され追い付けなかったのである。

清州きよすから守山もりやままで三里ほどある。

信長のぶながは朝夕、馬の調練ちょうれんをしていたのでこの度も馬はよく堪えて何事もなかった。

しかし信長の後を追った者らの馬はいつもうまやに繋いだまま、常時乗ることが無かった為、屈強の名馬であっても片道走り抜くことができなかったのである。

山田やまだ二郎左衛門じろうざえもんの馬をはじめとして、倒れる馬が続出した。

無茶を強いられた馬は堪ったものではなかった。

そこへ守山城から犬飼いぬかい内蔵くらが慌てふためきながら駆け付けて告げた。

孫十郎まごじゅうろう殿はただちに何処へとも知れず逃げ去り、城には誰も居りませぬ。城下はことごと勘十郎かんじゅうろう殿が焼き打ちなさいました。どうぞ家臣共をお助け下さいませ」

額を地面に擦り付けんばかりである。

普段穏やかな信勝の暴れぶりに、もはや何をどうして宥めればよいのか、皆目見当もつかなかったのである。

まさか皆殺しにはされないであろうが、信勝の鬼のような有様にはおののくしかない。

事の次第を報告する段になり、漸く皆が追いついて来た。

「供も連れず一騎で駆け回る喜六郎きろくろうにも非があったのだ」

信長はぽつりと零した。

いやに冷静な呟きだったと後に皆は囁いた。

「勘十郎に、やり過ぎるなと伝えよ」

追いついた者たちを従えると、後始末を言い付け、ゆっくりと清州へ帰っていった。

普段とまるで逆の光景であった。荒ぶる信長となごやぐ信勝。

火のような信長に水のような信勝。

普段穏やかな信勝の見せた烈火の如き怒りは周囲に驚愕と動揺を齎もたらした。

弟の暴虐ぶりに、却って頭が冷えたのだろうか。

信長は悲しみはすれど、目に見えて荒ぶることはなかった。

覇権争いから一人脱落。

それを喜んだのだろうと、口がさなく言う者もあったが、信長は敢えて反論しなかった。

が、その者らは信勝によって手酷く罰せられ、噂は瞬く間に消え去った。


その後、守山城には庶兄信広のぶひろの同母弟の信時のぶときが入った。

しかしこの後信時もその後横死してしまい、守山城は呪われた城などと呼ばれてしまうことになる。


信時死亡の少し前、同年十一月二六日。

不慮の事件が起こって信光のぶみつ那古野なごやで横死した。

信光近臣でその北の方と通じていた坂井さかい孫八郎まごはちろうにより殺害されたのである。

その坂井さかい孫八郎まごはちろうは、信長のぶながの命を受けた佐々さっさ孫介まごすけに討たれた。

あまりの手際の良さに、裏で手を引いていたのが信長であるとか、まことしやかに囁かれもしたが事実は不明である。


信光のぶみつの殺害に続き信時のぶときも死去したことで、弾正忠だんじょうのじょう家内の覇権争いは、信長と信勝の二人にほぼ決定した。


ほぼ、というのは庶兄信広のぶひろがまだ未練がましくも家督を諦めていないが為である。

信広は後に美濃の斎藤さいとう義龍よしたつと結んで謀反未遂を起こしている。

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