さて、
六月二六日。
信次が若侍らと
城主の御前を乗馬のままで通るという無礼を許さず、
脅しのつもりであったのか、しかし運悪く胸を貫いた。
若者は馬から転げ落ち、川へと落ちた。
即死であった。
よくやった、見事、などと歓声があがる。
歳の頃は十五、六。肌は
「ぎゃっ!
信次は腰を抜かしその場にへたり込むとがたがたと震えだした。
若者は、その美しさはなんとも喩えようもないとされた、
皆一様に肝を潰した。
特に信次は取るものも取りあえず、
その後行方知れずとなった。
秀孝は信長、信勝共に特に可愛がっている弟であったため、その怒りを恐れたのだ。
まさしくその通りのことが起こった。
秀孝の訃報を受け、信勝は
まさしくあっという間の出来事であった。
普段戦に出ない信勝であったが、その差配は見事と言う他なく。
鬼のような、と囁かれたという。
「か、
「止めるな
普段穏やかな信勝らしからぬ乱暴さに、
辺り一面を焼け野原にして漸く、信勝はどうにか冷静さを取り戻したが、その嘆きは深かった。
「喜六郎……!」
堪え切れず涙を零す信勝に、周囲は意外そうな視線を投げかけるのだった。
怒りに任せて火を掛けるなどと、常の信勝からは想像もできない有様で。
誰も口にはしなかったが、まるで兄、信長のような振る舞いであったのだ。
やはり血の繋がった兄弟なのだなと、柴田勝家などは背筋を寒くしたという。
一方の信長も
家来衆は勿論後に続いたのだが、引き離され追い付けなかったのである。
しかし信長の後を追った者らの馬はいつも
無茶を強いられた馬は堪ったものではなかった。
そこへ守山城から
「
額を地面に擦り付けんばかりである。
普段穏やかな信勝の暴れぶりに、もはや何をどうして宥めればよいのか、皆目見当もつかなかったのである。
まさか皆殺しにはされないであろうが、信勝の鬼のような有様には
事の次第を報告する段になり、漸く皆が追いついて来た。
「供も連れず一騎で駆け回る
信長はぽつりと零した。
いやに冷静な呟きだったと後に皆は囁いた。
「勘十郎に、やり過ぎるなと伝えよ」
追いついた者たちを従えると、後始末を言い付け、ゆっくりと清州へ帰っていった。
普段とまるで逆の光景であった。荒ぶる信長と
火のような信長に水のような信勝。
普段穏やかな信勝の見せた烈火の如き怒りは周囲に驚愕と動揺を齎もたらした。
弟の暴虐ぶりに、却って頭が冷えたのだろうか。
信長は悲しみはすれど、目に見えて荒ぶることはなかった。
覇権争いから一人脱落。
それを喜んだのだろうと、口がさなく言う者もあったが、信長は敢えて反論しなかった。
が、その者らは信勝によって手酷く罰せられ、噂は瞬く間に消え去った。
その後、守山城には庶兄
しかしこの後信時もその後横死してしまい、守山城は呪われた城などと呼ばれてしまうことになる。
信時死亡の少し前、同年十一月二六日。
不慮の事件が起こって
信光近臣でその北の方と通じていた
その
あまりの手際の良さに、裏で手を引いていたのが信長であるとか、まことしやかに囁かれもしたが事実は不明である。
ほぼ、というのは庶兄
信広は後に美濃の