天文二三年、一月二四日、村木砦の戦い。
赤塚の戦い以来、今川義元は尾張国内に着々と砦を築き出した。
その頃、駿河勢は岡崎に在陣、鴫原の山岡伝五郎を滅ぼし、鴫原城を乗っ取った。
その城を根城に、水野忠政の緒川城を次の目標とし、堅固な城を築き立てこもった。
その城が村木砦である。
これに呼応し、近くの寺本城も駿河勢に味方、信長に反旗を翻した。
緒川城と那古野城を繋ぐ道を塞いだのである。
信長は一旦海へ出、背後から村木砦を突くこととした。
しかしそこで困ったのが清州の大和守家の存在である。
本来は身内。しかし萱津の戦い以来敵対している。
留守中、大和守信友に攻められてはかなわぬと、舅である斎藤道三に城番の軍勢の派遣を求めた。
道三は快諾。
天文二三年、一月十八日、安藤守就を大将に一〇〇〇人ばかり。
それに田宮、甲山、安斎、熊沢、物取新五らを加え、見聞した状況を毎日報告せよと命じ出発させた。
一月二〇日。美濃よりの援軍、尾張へ到着。
信長は那古野を安藤守就に任せ、翌日出陣する予定であったが、宿老の林秀貞、通具の兄弟が不服を申し立て、荒子城、つまりは林の与力、前田与十郎の城へ退去してしまった。
林兄弟は美濃勢、しかも斎藤家の重臣である安藤に、那古野を任せるという措置が我慢ならなかったのである。
道三の裏切りがあれば、城はまるまる乗っ取られてしまうのであるから、当然といえば当然の反応ではある。
帰る場所がなくなれば、路頭に迷うことになる。
林兄弟の挙動に家臣らは当然の如く酷くうろたえたが、信長は、
「構わぬ」
とのみ。翌二一日、予定通り出発した。
「流石は兄上」
信勝は頷く。
例の如く。信勝は守役、柴田勝家を自身の代わりに参陣させていた。
「これでは大和守殿も手は出せまい」
「どういうことです?」
「そちにはわからぬか。兄上は隣国の舅殿へ全幅の信頼を見せてまるごと留守を預けた。これを裏切れば蝮殿の面目が立たぬ」
「はあ」
「美濃の蝮の名折れとなろうよ。安藤殿は誇りに懸けて城番を務められよう。ふふ、蟻一匹たりと、入りこめぬかもしれぬな」
にこにこと楽しげな信勝に、津々木蔵人はこっそりと首を傾げた。
相変わらず信勝は、兄が突拍子もないことをすると嬉しそうなのだった。
二二日は予想外の大風となった。
「ご渡海はできませぬ」
船頭、舵取りらはそう言ったが信長は聞かなかった。
「昔、源の義経と梶原景時が逆櫓で言い争った時も、このくらいの風だったことだろう。是非とも渡海する故、舟を出せ」
平家物語、屋島の例を以て、強引に出港させた。
大いに誇張であろうが、二十里ほどのところを僅か半刻で押し渡ったという。
それほどの勢いではあったのだろう。
着岸し、その日は野営をさせ、信長自身はただちに緒川へ行き、水野忠政の子、信元に会った。
二四日、夜明けと共に出撃。
駿河勢の立て篭もる村木砦に攻撃を開始した。
北は天然の要害で守備兵はいない。
東が大手、西が搦手。
南は大きな空堀を甕の形に掘り下げた堅固な構えである。
信長は南の特に攻め難い所を引き受け、東は水野信元、西は織田信光が引き受けた。
信長は堀端に陣取り、鉄砲を取り換え引き換え、間断なく撃たせ続けた。
鉄砲の威力は途轍もないが、一発を撃つのに時間がかかり過ぎることが問題であった。
しかし、信長は複数の鉄砲を取り換えながら撃つことによって、その問題を解決してみせた。
信長が采配を振っている為、南側の士気は非常に高く、兵たちは先を争って攻め登った。
駿河勢の働きも比類ないものであった。
しかし隙を与えず攻め続けられたので負傷者、死者が続出。
次第に兵が少なくなり、ついに降参した。
信長の小姓の歴々も数知れず負傷、討ち死にし、目も当てられぬ状態であった。
本陣に帰って後、信長は部下の働きや討ち死にした者らのことをあれこれと口にし、落涙したと伝えられる。
二六日、信長は安藤守就の陣所へ行き、城番の礼を述べた。
翌日、美濃勢は帰還。那古野城には傷一つなかった。
美濃に帰還後、安藤は道三に信長の謝意を伝え、更には大風をついて渡海した様子や砦攻撃の一部始終を報告した。
道三は信長を凄まじき男と評したという。
信長と今川義元との決着はこの後、永禄三年の、桶狭間の戦いまで持ち越されることとなった。
この年、天文二三年には甲相駿三国同盟もなされている。
甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、駿河の今川義元ら三名の合意によるものである。
今川義元の娘嶺松院が武田信玄の子義信に。武田信玄の娘黄梅院が北条氏康の子氏政に。北条氏康の娘早川殿が今川義元の子氏実に。
それぞれ当主の娘が、お互いの嫡男に嫁いだ婚姻同盟である。
尾張の周囲だけでなく、日本全土が揺れ動いていた。