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天文二三年一五五四、一月二四日、村木むらき砦の戦い。


赤塚あかつかの戦い以来、今川いまがわ義元よしもと尾張おわり国内に着々ととりでを築き出した。

その頃、駿河するが勢は岡崎おかざきに在陣、鴫原しぎはら山岡やまおか伝五郎でんごろうを滅ぼし、鴫原城を乗っ取った。

その城を根城に、水野みずの忠政ただまさ緒川おがわ城を次の目標とし、堅固な城を築き立てこもった。

その城が村木砦である。


これに呼応し、近くの寺本てらもと城も駿河勢に味方、信長のぶながに反旗を翻した。

緒川城と那古野なごや城を繋ぐ道を塞いだのである。


信長は一旦海へ出、背後から村木砦を突くこととした。

しかしそこで困ったのが清州きよす大和守やまとのかみ家の存在である。

本来は身内。しかし萱津かやづの戦い以来敵対している。

留守中、大和守信友のぶともに攻められてはかなわぬと、しゅうとである斎藤さいとう道三どうさん城番じょうばんの軍勢の派遣を求めた。

道三は快諾。


天文二三年一五五四、一月十八日、安藤あんどう守就もりなりを大将に一〇〇〇人ばかり。

それに田宮たみや甲山こうやま安斎あんざい熊沢くまざわ物取ものとり新五しんごらを加え、見聞した状況を毎日報告せよと命じ出発させた。


一月二〇日。美濃みのよりの援軍、尾張へ到着。

信長は那古野を安藤守就に任せ、翌日出陣する予定であったが、宿老おとなはやし秀貞ひでさだ通具みちともの兄弟が不服を申し立て、荒子あらこ城、つまりは林の与力、前田まえだ与十郎よじゅうろうの城へ退去してしまった。

林兄弟は美濃勢、しかも斎藤家の重臣である安藤に、那古野を任せるという措置が我慢ならなかったのである。

道三の裏切りがあれば、城はまるまる乗っ取られてしまうのであるから、当然といえば当然の反応ではある。

帰る場所がなくなれば、路頭に迷うことになる。


林兄弟の挙動に家臣らは当然の如く酷くうろたえたが、信長は、

「構わぬ」

とのみ。翌二一日、予定通り出発した。

流石さすがは兄上」

信勝のぶかつは頷く。

例の如く。信勝は守役もりやく柴田しばた勝家かついえを自身の代わりに参陣させていた。

「これでは大和守やまとのかみ殿も手は出せまい」

「どういうことです?」

「そちにはわからぬか。兄上は隣国の舅殿へ全幅の信頼を見せてまるごと留守を預けた。これを裏切ればまむし殿の面目が立たぬ」

「はあ」

美濃みのの蝮の名折れとなろうよ。安藤あんどう殿は誇りに懸けて城番じょうばんを務められよう。ふふ、蟻一匹たりと、入りこめぬかもしれぬな」

にこにこと楽しげな信勝に、津々木つづき蔵人くらんどはこっそりと首を傾げた。

相変わらず信勝は、兄が突拍子もないことをすると嬉しそうなのだった。


二二日は予想外の大風となった。

「ご渡海はできませぬ」

船頭、舵取りらはそう言ったが信長のぶながは聞かなかった。

「昔、みなもと義経よしつね梶原かじわら景時かげとき逆櫓さかろで言い争った時も、このくらいの風だったことだろう。是非とも渡海する故、舟を出せ」

平家物語、屋島やしまためしを以て、強引に出港させた。

大いに誇張であろうが、二十里ほどのところを僅か半刻で押し渡ったという。


それほどの勢いではあったのだろう。

着岸し、その日は野営をさせ、信長自身はただちに緒川おがわへ行き、水野みずの忠政ただまさの子、信元のぶもとに会った。


二四日、夜明けと共に出撃。

駿河するが勢の立て篭もる村木むらき砦に攻撃を開始した。

北は天然の要害で守備兵はいない。

東が大手おおて、西が搦手からめて

南は大きな空堀からぼりを甕の形に掘り下げた堅固な構えである。

信長のぶながは南の特に攻め難い所を引き受け、東は水野みずの信元のぶもと、西は織田信光のぶみつが引き受けた。

信長は堀端に陣取り、鉄砲を取り換え引き換え、間断なく撃たせ続けた。

鉄砲の威力は途轍もないが、一発を撃つのに時間がかかり過ぎることが問題であった。

しかし、信長は複数の鉄砲を取り換えながら撃つことによって、その問題を解決してみせた。

信長が采配を振っている為、南側の士気は非常に高く、兵たちは先を争って攻め登った。

駿河するが勢の働きも比類ないものであった。

しかし隙を与えず攻め続けられたので負傷者、死者が続出。

次第に兵が少なくなり、ついに降参した。

信長の小姓の歴々も数知れず負傷、討ち死にし、目も当てられぬ状態であった。

本陣に帰って後、信長は部下の働きや討ち死にした者らのことをあれこれと口にし、落涙したと伝えられる。


二六日、信長は安藤あんどう守就もりなりの陣所へ行き、城番じょうばんの礼を述べた。

翌日、美濃みの勢は帰還。那古野なごや城には傷一つなかった。

美濃に帰還後、安藤は道三どうさんに信長の謝意を伝え、更には大風をついて渡海した様子や砦攻撃の一部始終を報告した。

道三は信長を凄まじき男と評したという。


信長と今川いまがわ義元よしもととの決着はこの後、永禄三年一五六〇の、桶狭間おけはざまの戦いまで持ち越されることとなった。


この年、天文二三年一五五四には甲相駿こうそうすん三国同盟もなされている。

甲斐かい武田たけだ信玄しんげん相模さがみ北条ほうじょう氏康うじやす、駿河の今川いまがわ義元よしもとら三名の合意によるものである。

今川義元の娘嶺松院れいしょういん武田たけだ信玄しんげんの子義信よしのぶに。武田信玄の娘黄梅院おうばいいん北条ほうじょう氏康うじやすの子氏政うじまさに。北条氏康の娘早川殿はやかわどのが今川義元の子氏実うじざねに。

それぞれ当主の娘が、お互いの嫡男に嫁いだ婚姻同盟である。


尾張おわりの周囲だけでなく、日本全土が揺れ動いていた。

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