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天文二一年一五五二四月十七日。赤塚あかつかの戦いがあった。

信秀のぶひでが没してすぐ、信長のぶながが家督を継いで最初の戦いである。


鳴海なるみの城主山口やまぐち教継のりつぐが謀反を企て、今川いまがわ義元よしもとに通じ、駿河するが勢を尾張おわり領内へ引き入れたのである。

教継は、弾正忠だんじょうのじょう家の家督を継いだ信長はまだ若く、遠からず潰れると踏んだのだった。


「親父に目をかけられていたにも関わらず、何という奴らだ!」

相変わらずの大音声だいおんじょう

お元気そうでなにより、と末盛すえもり城から慌ただしく駆け付けた信勝のぶかつは頼もしく思った。

「兄上、どうぞ冷静に……」

信長はぎろりと信勝を睨み、踵を返した。

「すぐに出るぞ!」

「私もお供を、」

「いらぬ」

にべも無い。台詞も途中で遮られた。

「お主は留守番しておれ。おのう、こやつに茶でも点たててやれ」

「畏まりました」

濃姫のうひめは慎ましやかにこうべを垂れる。

「いってらっしゃいませ」

そして艶やかに微笑んだ。

信長は満足げに頷く。そして足音高く出立した。


兄を見送り、信勝は少し困った様に濃姫を見た。

確かに昔から、とろい、鈍くさいなどと言って、信勝を置いていくことの多い兄ではあったけれど。

ことは戦であるのだが。

留守番とはこれ如何いかに。

濃姫は動じた様子もなく泰然としている。

義姉あね上、如何いかが致しましょう」

「茶を点てまする。勘十郎かんじゅうろう様、どうぞご一服を。白魚羹はくぎょかんなどございますので」

白魚羹は白い豆の粉などを魚の形に製し、蒸した菓子である。信長の好きなものの一つでもある。




茶室は戦の準備の音も聞こえず、酷く静かな空間だった。

こぽこぽと湯の沸く音がする。

茶杓がかつんと茶碗の縁を叩く。

静かに茶筅の音が耳に届く。さらさらと心地良く。

「どうぞ」

柔らかく白い手が、そっと茶碗を置いた。

信勝は手を揃え、ゆっくりと頭を下げる。

「お点前頂戴致します」

茶は甘く柔らかかった。

「大変美味しゅうございました」

濃姫のうひめはにこりと微笑む。

艶やかな黒髪。涼しげな目許に長い睫毛。

瑞々しい唇。陶器の様に滑らかな頬。

相変わらず人形の様に美しいが、瞳が強く煌めいていて。

儚さよりも力強さを感じる姫だ。

「今後も、どうぞお気軽にお越しくださいませ。勘十郎殿とは仲良くしとうございます」

「畏れ入ります。また是非に」

穏やかな空気がふっと流れた。

「けれど」

濃姫はそっと睫毛を伏せた。

「これからは中々、難しくなるやもしれませぬね」

信秀のぶひでの生前と比べ、戦はまず、間違いなく増えよう。

「……はい。力及ばず、申し訳ございません」

己が配下の動きすら抑えきれぬ信勝のぶかつの、心からの思いだった。

信勝にもっと力があれば、全て従わせ、信長にかしずいただろう。

或いはもっと力がなければ、信勝を担ぎ出そうなどと思う者も居なかっただろう。

「勘十郎殿の所為ではございません。殿とのがもっとお強く御成り遊ばせば、いずれ収まりましょうが。大殿亡き後、有象無象が我先にと襲って参りましょうから」

濃姫のうひめは悪戯っぽく笑った。

「我が父も、言うに及ばず」

「これはこれは」

手厳しい台詞に、信勝のぶかつは思わずといったように笑い声をあげた。




信長のぶながは八〇〇人余の軍勢を率い、那古野なごや城を出た。

中根なかね村を駆け抜け、小鳴海こなるみへ進み、三の山へ登った。

山口やまぐち教継のりつぐの息子教吉のりよしは三の山の東、鳴海から北の赤塚へ、軍勢一五〇〇ばかりで出陣。

それを見た信長も赤塚へ進軍した。

矢戦の後に槍戦となったが、敵味方の距離があまりに近過ぎたので、双方とも討ち取った敵の首級くびを取ることもできなかった。

首を落とすのも中々時間が掛かるのである。

乱戦は巳みの刻よりうまの刻。

信長方で討ち死にした者は三〇人に及んだが勝敗はつかず、元々は味方同士、顔見知りの為、生け捕りにした兵は交換しあい、また敵陣に逃げ込んだ馬も返し合った。


信長はその日の内に帰陣した。


その後、山口教継、教吉父子はその後、義元に呼ばれ駿河に行ったが、再度信長への寝返りを疑われ殺害されたという。

「阿呆め。大人しくわしに従っておれば良かったものを」

信長は苛立たしげに吐き捨てた。


また同年八月十五日。萱津かやづの戦い。

この頃、下四郡を支配する清州きよす衆、つまりは守護代織田おだ大和守やまとのかみ家、その当主は達勝みちかつから信友のぶともに移っていたが、実権は又代まただいである坂井さかい大膳だいぜんが握っていた。

大膳は同輩の坂井甚介じんすけ川尻かわじり与一よいち、織田三位さんみらと謀議。

清州きよす城から松葉まつば城、ならびに深田ふかだ城へと攻め込んだ。

両城ともに占領し、松葉まつば城主織田おだ伊賀守いがのかみ信長のぶながの叔父にあたる深田ふかだ城主織田信次のぶつぐを人質として、信長に敵対する意思を明らかにした。

翌八月十六日。

信長は払暁と共に那古野なごや城を出立。稲庭地いなばじの川岸で、守山もりやま城から駆け付けた叔父であり信次の兄でもある信光のぶみつが合流。

兵を松葉口、三本木さんぼんぎ口、清州口の三手に分け、信長は信光と共に萱津かやづ口に攻め寄せた。

敵も清州から出撃、萱津村に進出した。

この時、信勝のぶかつ守役もりやく柴田しばた勝家かついえを参陣させている。


ただ信勝の参陣はまた叶わなかった。


相変わらず、留守番を申し付けられたのである。

心遣いなのか、嫌がらせなのか。いや、きっと優しさなのだろうけれど。

戦に出られぬのは何とも歯痒い。


たつの刻、合戦の火蓋ひぶたが切られた。

数刻後、清州方は敗れ、坂井さかい甚介じんすけは討ち死に。首級くび中条ちゅうじょう家忠いえただと柴田勝家が二人がかりで取った。

他、五〇騎程が討ち死にした。

松葉城の敵は城の外郭を囲むようにして守ったが、数刻の矢戦で信長方に追われ惨敗。

撤退できたものは僅かだった。

深田城はこれといって防塁となるものもない所であったため、即座に攻め崩された。

かくして信長は深田、松葉の両城へ攻め寄せた。

敵は降参。両城を明け渡し、清州城へ撤収した。

城も人質も取り戻す見事な手腕であった。

信長は余勢を駆って清州の刈田かりたを行った。

以後、大和守やまとのかみ家と信長との敵対が続くこととなる。


柴田勝家からことの顛末の報告を受けた信勝は難しい顔で頷いた。

「よくやってくれた」

「ははっ」

「これから益々こういったことが増えるであろうな……」

勝家かついえはちらりと信勝のぶかつを伺う。

憂いに満ちた主の表情からは、険呑なものは露ほども見られない。

信勝には、いずれ信長のぶながに取って代わって貰わねばならない。

あまり信長を勢い付かせるのも良くはないのではないだろうか。

その割に、信長の軍勢に加わった上大活躍し、うっかり感状かんじょうまで貰ってしまった勝家は、しまったかもしれない、と思った。

勝家の働きを気に入った信長は、また頼むぞとの言葉までくれた。

ますます以もってやり過ぎたかもしれない、と勝家は一人反省する。

「兄上はいくさ上手であろう」

勝家の視線に気付いたか、信勝が少し微笑んだ。

「家督以前に、弾正忠だんじょうのじょう家が無くなってしまっては困る。私は政務で地盤を固める。いくさばたらきは兄上にお任せしよう。その代わりに権六ごんろく、そなたが私の代わりに手柄を挙げよ」

勝家は目を見開き、深々と頭を垂れ、額を畳に擦り付けた。

「なんと勿体無いお言葉、身に余る光栄に存じまする!この権六、粉骨砕身努めて参りまする!どうぞご存分にお使い下され!」

感動し震える大きな身体を前に、信勝はこっそりと苦笑する。

実直な人柄は好ましいが、勝家は謀略には向かない。

鬼柴田だの、かかれ柴田などと呼ばれてはいるが、勇猛果敢で温情ある良い男だ。

裏表無く、まっすぐに突き進んでゆく。

「そなたは私よりも……」

「は」

「……いや、なんでもない」

小さくかぶりを振った。


信長のぶながにこそ相応しいのだろうな、という言葉は呑み込んだ。


志がある。守りたいものがある。

だから、必ずや遣り遂げる。

織田おだ弾正忠だんじょうのじょう家をひとつに纏め上げる。

そして家中だけでなく、いずれは尾張おわりをも。


信勝のぶかつの中には明確な未来図が浮かび上がっていた。

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