弘忠は織田
竹千代は、もとは松平から今川への人質として出されたのだが、護衛の家臣が裏切り織田についたため、横流しされたというか、掠め取られたというか。何とも微妙な立場にあった。
岡崎城主頓死の報に、
そして松平家の所領を支配すると共に、国人領主を直接支配下に取り込んでいった。
同年十一月。義元は信長の庶兄
殺されなかったのは良かったのか、悪かったのか。捕らえた信広と交換に、竹千代を取り戻した。
安祥城を巡っては、
安祥城は西三河地方の覇権を巡るにあたって、格別重要な城であった。
信広は何度も城の防衛に成功していたが、今回ばかりは守りきることができなかった。
凛々しさは
信長の後見に美濃の
帰蝶は
信長と濃姫とは仲睦まじくしているようで、時折連れ立っては遠乗りになど行っているようだ。
どちらかと言えば信長が無理矢理に連れ回しているのではないだろうか。
付き従う小姓たちも、悪童と
妻を迎えたからといって、信長の振る舞いが改まることはなかった。
それどころか激しさを増しているようにさえ見える。
相変わらず武芸に励み、鷹狩りに興じ、冬以外は水練に勤しんでいる。
時にはそれに濃姫を同行させることすらあった。
そんな乱雑に、大事な姫を扱ってよいのだろうかと信勝は思うのだが。
そんな有様だから子が出来ぬのだとか、所詮うつけの
信勝も先日妻を迎えた。
それなりにうまく付き合ってはいるものの、仲睦まじくとまではいかず、どうにも空回ってしまう。
高子は
彼女は和歌が得意であったが、信勝は気の利いた和歌を
政略結婚とはそのようなものと思いながらも、信長と濃姫の遠慮のない遣り取りが好ましく、二人のようになれたらと思うこともしばしばあった。
自分ではまさか高子を遠乗りになど誘えはしないけれども。
少しでも歩み寄ろうと、先日来暇を見つけては古今集など読んでいる。
とはいえ上達はまだまだ先のことになりそうではある。
今は父の補佐の仕事を覚えるのに精一杯なのだ。
最近、父
同じ
信勝は早く一人前になりたかった。
今の自分は少しづつではあっても、理想に近付いている手応えがある。
父を支え、兄を支え、家を守る。
いつかは辿り着きたい理想の姿であった。
最近は父の体調が思わしくないこともあり、なるべくその負担を減らしたくもあった。
そんな信勝の気持ちなど露知らず、家中では密やかに
なんと信長の
信長の身近であるが故に、奇行が余計目につくのだろうか。
その考えに信勝の
嘆かわしい、と信勝は睫毛を伏せる。
そんな微かな仕草さえ麗しく、憂いの為か妙に艶めいてみえる。
城の女たちに騒がれているのを、信勝本人だけが知らない。
廊下の端できゃあ、と可愛い歓声があがった。
視線を遣れば、誰かが慌てて隠れようと転んだらしい。結構痛そうな音がした。
それはさて置き。
兄こそが、戦国の世を生き抜くに相応しい大器であると。
しかしながら、その器は
小さな盃に樽一杯の水は酌めない。
だからうつけなどと呼ばれるのだ。
本物のうつけは自分達であることにも気付かず信長を
理解が及ばぬものを忌避し、見下す。
家中で
そして自分だ。
信長の
信勝は父を尊敬し慕っていた。
その父に認められている信長に憧れていた。
兄の様になりたいかといえば、それは違うと答えるのだが。
父を、兄を支え
それが信勝の望みだった。
ささやかながら難しい願い。
信勝は戦国の世には珍しく争いを嫌い、血を嫌い、家族の和を望む青年だった。
信勝は多忙な父の補佐を
「信勝、何やら美味い砂糖饅頭があると聞いた故、来たぞ」
ひょいと信長が顔を覗かせた。
「これは兄上、おいでなさいませ。義姉上もようこそ」
隣に濃姫を連れ、信長は相変わらずの派手な出で立ちで末盛城にひょっこりと現れた。
相変わらず何とも機敏な。きっと供も
乳兄弟の
「では、取らせて参りましょう」
砂糖は当時貴重品であった。
饅頭は野菜を入れた菜饅頭や、塩饅頭が普通で、甘い餡を入れた饅頭は、砂糖饅頭と特別に呼ばれた。
「よい。自分で行く。お濃も参れ」
「はい」
本当に、軽やかというか行動力があるというか。もう少し重々しくても良いのではないかと、時々思う。
「では、参りましょうか。私も食べたくなりました」
しかしそれが信長らしさであり、鈍重な様は如何いかにも兄らしくはない。
そのような瑣末なことに頓着するのでは、信長では無い気がした。
「兄上はどうぞそのままで」
「何がだ」
信勝はくすっと笑った。
「砂糖饅頭のお好きな兄上のままで、いらしてくださいね」
信長と濃姫は顔を見合わせ、同じ角度で首を傾げた。
「甘いものは嫌いにならんぞ」
「はい。存じております」
変わらなければいい。ずっと、このまま。
束の間の平穏が、いつまでも続けばいい。
今が少しでも長く続くよう、信勝は祈った。
だがそれは叶わなかった。
呆気なく終わりは訪れた。