早朝、目が覚める。
ベッドの上、朝日のまぶしさに目を細めて。
不意に、甘いシャンプーの香りが鼻につく。
「んぅ……」
自分の声、じゃない。けど、自分の声よりも聞きなれた甘い声。
「……しき」
その声は寝ぼけながら、ぼくの名を呼んだ。
「はる……」
彼女の名前を呼び返して。
「……ハル!?」
なんでハルがぼくの部屋で寝てたの!?
眠気眼をこすりながら「おはよー」と言って上体を起こす彼女。……しゅごい、かわいい。
でもでも、そうじゃなくって! なんでハルがここにいるの!
昨日のことを思い出そうとしてもなんだか思い出せない。妙にぼんやりして。
件の彼女はというと、なんでか涙をこぼしていて。
「……どしたの」
「なんとなく、なんとなくね……シキが生きててくれてよかったなって」
「なにそれ」
ぼくは少しだけ笑って。
「生きてるに決まってんじゃん」
ハルの涙をぬぐった。
「ほら、準備しよ。たぶんアキちゃんも起きてきてるはずだし」
「そうだね」
パジャマを脱いで、下着をつける。
制服のスカートを履いて、ブラウスの襟を立てて。
ふと、微かな違和感を覚えた、ような気がした。
……ぼくは最初から女の子だったはずなんだけどなぁ。
なんだか、何かを忘れているような気さえする。
けれど、この幸せな日々が続くのなら、忘れたままでも構わない。何故だかそう思えた。
「行こう、ハル」
「うん!」
そうしてぼくたちは、部屋の扉を開けたのだった。
*
「こんな早朝から私を呼び出して……何の用だ、オーディン」
「……初めて会ったときより心なしか人間らしくなってないかしら、あなた」
言われ、私こと霜田 フユはわずかに顔をしかめて見せる。
嫌な夢を見た直後の早朝、電話で叩き起こされて、冷え込む初夏の空気を浴びながらこの女の屋敷、すなわちここまでへっこら歩いてきたのだ。少しは褒められてしかるべきだろう。
そんな本音をおくびにも出さず――どうせばれてるのだろうが――私はふっと息を吐いた。
「人間らしくとはどういうことであろうか。そんなことのために足を運ばされたのではないと私は信じたいのだが」
「あはは、もちろん違うわよ」
よかった。人間らしさとは定義があいまいなので議論が長引くところだった。学校にはなるべく行きたいのだ。
「では、何の用なのだ」
私が問うと、オーディンはその顔から笑みを消し。
「まず、精霊という存在をあなたは覚えてるかしら?」
精霊。その言葉を聞いたとき、わずかに頭の中が揺らめき……どっと襲ってきた倦怠感とともに、私は答えた。
「……うむ、覚えている。何故だか忘れかかっていたが」
「そう。やっぱり思った通り」
「と、いうと?」
「……まず、この世界に精霊はいない。私たちを除いて、ね」
意味が分からない。まったく。精霊がいない、とは。
首をかしげた私に、彼女は「そりゃそうよね」と静かに笑った。
「順番に説明するわ。まず、昨晩の夢は覚えてる?」
「ああ、いちおう……」
「なら、話は早いわ。どうやら、あの夢を通して本当に現実改編が起こってしまったみたいなのよ」
「……現実、改編」
私の呟きに、オーディンが頷いて。
「少なくとも、ヒメちゃんは自分が精霊であることも、魚介人類の存在も忘れてしまっていたわ。ほかの精霊の子たちも、おそらく同様に」
「精霊の記憶と力を封じられている、とでもいうのか」
「そうね。魚介人類や黒精霊については検証のしようがないけど……けれど、精霊の力と記憶を保持しているのは、多分、私とあなたの二人だけみたい」
それまで聞いて、少しだけ背筋に悪寒。
「……もしかして、その改編を行った張本人すらも」
「ええ。おそらく自分の起こした現実改編に巻き込まれて、一部の記憶が書き換わっていると思われるわ」
不安。自分の知る彼女が消えてしまったのか、あるいは――。
胸がバクバクと音を立てて鼓動して……オーディンの手が私の頭に置かれた。
「大丈夫よ。精霊に関係しない記憶は最大限整合性を保っていると思われる。だから、人間関係はきっとそのまま。それに」
目の前の女は、一息おいてから言った。
「彼女は彼女なのだから。それは、変わらないはず」
その言葉に少しだけ安心して。
「私たちにこの力が残されたことに意味があるのなら」
微笑みを湛えながら呟いた。
「それは、この平和な世界を守るためだと思うのだ」
「突然ね。どうしたの?」
「……言うまい」
親友を失うことに一抹の恐怖を感じた結果だとか、そういう夢のないことを言うのはやめておこう。この心中だけの秘密だ。
「それでは、私もそろそろ学校に行くとする。……準備はしなくていいのだろうか、生徒会長殿?」
「今日は動けそうにないの」
連絡もしてるので大丈夫とぬかす彼女の姿に、呆れてため息を吐いた。これでいいのか生徒会長殿。病弱が過ぎるのではないだろうか。
「ひとまず、私は学校へと向かうからな。見舞いには……友人たちもつれてこよう」
「助かるわ。ついでに、生徒会の子たちも」
「すまぬ、彼らとは面識がないのだ。では、さらばだ」
もう重要なこともないはずなので、私は踵を返してその部屋から出ていった。
長い廊下をメイド――よく見たら魚介人類の元クイーンであった――に案内されるまま歩いていき、玄関を出るころには始業時間まで間もなかった。
走れば間に合うだろうか。けれど、一秒でも早く学校までたどり着きたくて。
「……シグルドリーヴァ」
精霊の能力を行使した。
――そんな姿を屋敷の中から……そして、オーディンの能力を通して、私は見ていた。
きっと、私とフユちゃんの精霊の能力が残ったのは、非常事態や不具合への対処のため。シキちゃんが本来やるべき仕事を押し付けられたような恰好かしら。
フユちゃんの言ったことも間違ってはいないけれど、一部でしかない。
……きっと、これからよくないことが起こってしまうのだろう。あの力が自然の摂理までもを捻じ曲げていたのだとしたら……それを元に戻そうとする力が働くはずだ。まるで、押しつぶされたバネが元の形に戻ろうとするように。
不安要素だらけ。この先、世界がどうなるかなんてわかりはしない。
それをどうにかするだなんて、できるかどうかもわからない。
けど、奇跡的なバランスで成り立ったこの平和な世界を楽しむ余裕くらいはくれてもいいんじゃないか、なんて意地悪な神様に文句を言ってみた。
お返し、と言わんばかりに頭が痛くなって。
やっぱり休まないとだめね。
枕に頭をうずめて、軽く息を吐いた。
「ひとまず、見守りましょうか。人間たちの、そして人として生きる精霊たちの行く末を」
きーめたきめた、なんて虚空に向かって口にした。
その平和が崩れ去るその日まで、どうなるかもわからない彼ら彼女らの道を見てみようと、そう決めたのだった。
Fin.