「……行ったかしら?」
「ああ、運ばれた。あのバカを引きはがすのが大変じゃったぞ」
目の前で、ウズさんとヒメが話している。あのバカ、とはきっと僕のことだろう。
結果を言うと、ハルはわずかながら心臓の脈が残っていたらしい。首の皮一枚残して生き延びたようだが――。
「医者曰く、生きていることが奇跡的との見解だそうじゃ」
救急車に乗せられて病院に運ばれていく彼女を、僕はただ見ていることしかできなかった。
「そう。……流石に、辛いわよね」
死者四名、重症一名。
死んだ四人はいずれも精霊。故に、死体は残されていない。
唯一守り切れたウズさん。その周りを囲んで、僕らはうつむいていた。
「……友人を喪うということが、これほど辛いものだとは思わなかった」
「わしの理想とは、一体何だったのだろうな。……すべて、わしのせいじゃ」
後悔と自責と無念と悲しみ。フユとヒメが口にするそれらを、僕はただ茫然と聞いていた。
……何も言えないし考えられない。僕はただ、虚空を見つめ、数十分前に起こった出来事を反芻していた。
それしか、できなかった。
助けられなかった。
いつもこうだ。僕は、肝心な時に何もできない。
「……こうなるなら、スクルドをもっと管理しておけばよかったわ」
ウズさんの言葉に僕の精霊名が出て。
「どういう、ことですか?」
かろうじて口に出した疑問。彼女は、精霊の王として僕を見据えた。
「すべて、あなたが悪いの」
彼女はあのカマキリのような黒い化け物――その精霊と酷似した特性から「黒精霊」と呼ばれたそれが現れたその時から疑っていた。僕に授けられたスクルドの能力を。
「きっとあなたに悪意はないのでしょう。けれど、もはや間違いないわ。あなたが、歯車を狂わせたすべての元凶……」
「意味が分かりませんよ! ……僕に、世界が壊せるわけ――」
「あるわ。何故なら、あなたの能力は――」
思ったことが反映される力、だから。
「何らかの理由で、あなたは『私たちに敵対する存在』を願った。きっと、魚介人類とも共通する第三者の敵。それに呼応して、黒精霊という存在が生み出されてしまった。心当たりはないかしら」
ないと言いきれれば、どれほど気は楽になっていただろう。
魚介人類たちとの和解。そのために、僕は願っていた。魚介人類と協力せざるを得ない状況を。そのための、新たな、強大な敵の出現を。
「それがきっかけでヒメちゃんは私たちに協力するようになって」
「結果として、ほかの魚介人類はそれを『裏切り』とみなして、この惨劇が起きた。そう言いたいのじゃな、オーディン」
途中からをヒメが引き継いだその言葉こそ、この事件のすべてだった。
きっと、以前アキちゃんに言われた「想像が具現化する」という能力も間違いではなかったのだろう。ただ、それが能力の一端に過ぎなかったというだけで。
すべてのきっかけは僕だったということを証明する、とても筋の通った説明。反論する余地はなかった。
すなわち。
「ハルをこうしてしまったのは、僕なのか」
間接的に、無自覚に、僕は彼女を――。
理解したくない。わかりたくない。その現実を見たくない。
現実だと思いたくない。
そうだ、こんなのは悪い夢だ。起きたらやっぱり僕は男のままで、深夜に一人起き上がるのだ。それで、小言を言いにハルが来ていて、僕をしかりつけてくれる。
……アイツの言うこと、聞いとけばよかったな。学校も来てみれば結構悪くなかったし。
僕と一緒にいたアイツは、とてもきれいに笑っていたんだ。ほかの誰といるより、生き生きとしていて。
ああ、僕は知ってしまった。自分が壊してしまったものの大切さを。
知らないほうが、よかった。
こうなってしまったのは、この数日が夢じゃないからこそで。知ってしまったのは、僕が変わっていったからで。
故に、僕は。
この無自覚の罪が、耐えきれなくて。
「僕が守ろうとしていたのって、何だったんだろう」
*
放課後、草原に風が吹きすさぶ。
川の土手。水面に浮かぶ小波を眺める。
揺れるスカート、靡く髪。視界が遮られようと、下着が覗かれようと、もはやどうでもよかった。
あの曇り空のように、暗くどんよりとした心境。
「お姉ちゃん、帰りましょう」
「うるさい!」
アキの声に、僕は叫んだ。
「……放っておいてくれ……。僕なんて、いないほうが楽だろう?」
「そうもいかないです。……もはや、あなたにとってのハルさんと同じくらい、わたしの中のあなたは」
「いいよ! そんな慰めなんて、いらない」
言って、僕はアキを突き放した。
誰のために生きて、誰のために死んでいくか。見つけ出したつもりだった。
だけど、そんなのはみんなまやかしで。
結局誰も守れずに、決めたことすら果たせずに、ただ世界を無意識に壊して。
僕が生きているからいけないんだ。生存することが罪なのならば、いっそ――。
「だめです!」
アキが僕の腕をつかんでいた。
「死なないで、くださいよ……お姉ちゃん……」
なんで? ああ、そうか。
「自分が死にたくないから、そう言ってんだろ?」
現状、僕とアキは魂が繋がっている。一心同体。故に、僕が死ねばアキも死ぬ。アキ自身は生きたい。だから、僕に死んでほしくない。そうだろう。そう、言ってくれ。
けれど、アキは「違う!」と否定した。
「どうしてわからないんですか!? わたしは、こんなにもあなたを……愛して、いるのに」
「だからそんな嘘をついてもどうしようもないだろ!!」
いまの僕を、すべてを壊してしまう僕を、誰も守れない僕を、誰が愛するものか。
受けた愛を返せない僕が、誰かに愛される道理など、あってたまるか。
僕は自嘲気味に笑う。
「あのとき、聞いただろう。僕の中で。僕が化け物を作り出したことを。紛れもない僕の思考が、災厄を産みだしたことを。そのせいで、守りたかったものをこの手で壊してしまったことを」
俯いて、ただひとつため息を吐いた。
「……僕、何をしたかったんだろうね」
地響きがした。
敵。僕の作りだした、破壊の使徒。
魚介人類と和解するという願いが、ヒメとの共闘により果たされた。故に、その願いによって生み出された黒精霊は使命を失い、ただ純粋に世界を破壊するだけの獣になった。
使命のない存在。不要な存在。まるで、僕じゃないか。
「黒精霊が出たらしいです。行きましょう」
誰かと電話をしていたらしいアキ。僕の手を取ろうとして。
「……いや、行かない。行けない」
その手を振り払った。
「行きたくないだけでしょう! 行けないじゃなくて、行くんです!」
「行ったところで! 僕がなにをできるというんだ!!」
拒絶。叫んで。
「……どうせ、行っても何もできない。なにも救えない。なにも果たせない。それなのに……」
「いい加減にしてよ! ……あなたを精霊にしたのが間違いだった、なんて言いたくないですよ……あなたに会えてようやく、この力から解放されるって思ってたのに……」
鼻をすする声が聞こえた。
「愛して、います。本当に……さよなら、お姉ちゃん」
人の気配がなくなった土手。僕は座りこんだ。
降り出した雨が体を濡らし。
ぼんやりと、遠くを見た。
巨大な黒いクワガタが、頭上を通過した。
黒精霊だ。しかし、もう体を動かそうとすら思わない。思わないからこそ、動けない。
背後へ飛び去るクワガタの黒精霊。後ろを振り返った。
黒精霊は、町を蹂躙していた。
燃える家々、人々の悲鳴。見渡すと、人々が河川敷になだれ込む姿が見えて。
黒精霊は、容赦なく人々を殺戮する。
赤が、赤が、赤が、視界を支配する。
動けない。動かない。
とまれ、やめろ、『やめるんだ!』
わずかな耳鳴り。それとともに、目の前の虫たちは攻撃を止め、動きを止めた。
命令を聞いた。いや違う。能力による強制力だ。
僕が攻撃をやめてほしいと願ったがゆえに、強制的に攻撃をやめさせられた。
『消えろ』
その命令によって、黒精霊は消え果てる。僕が作り出したものだから、僕の思考、能力の影響を受けやすいのかもしれない。
僕は笑う。
ああ、この世界って本当にひどい。
眼前の戸惑う人々を殺してしまうことも、記憶を消すことも容易いのだろう。
もう嫌だ。
怖い。自分の力が。暴走するこの力が。自分が死んでも、どうにもならないことが。生存という罰が。
もういっそ、『世界ごと消えてしまえればいいのに』――。
こんな他愛もない願い事が、歪められた形で叶ってしまうとは思わなかった。
僕はかつて宣言していた。
『僕にとっての世界は、ハルだ!』
比喩表現ではあった。口が滑ったといってもいい。周りが見えないほどの怒りの渦中で吐露した、しかしまぎれもない本心。
そして、世界が消えるという願い。それが意味するものは。
制服のブレザーの胸ポケットに入れていた携帯電話が震え、電話の着信を告げる。
五秒ほどの逡巡のうちに操作して、耳に当て――
「ハルさんが……ハルさんが、つい先ほど……息を……引き取り、ました」
アキの声が告げた事実を受け入れるまで、何秒かかっただろうか。
僕の願い。それがとどめを刺したのだ。気付いたのはいつだろうか。
携帯電話が手の中からすり抜けた。豪雨のさなか。僕は何もできずに叫んだ。
痛いほどの耳鳴りが、耳の中を劈いた。