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第17話 ディープブルー・スプリング(3)

 胸騒ぎがした。

 そのとき、あたしは校門でシキを待っていた。

 あたしの名前と同じ季節、その終わり独特の熱気。梅雨の近いこの季節ならではの陽気が、嫌になるほどに照り付けて。

「暑いっ!」

 誰に向けるでもなく叫んで、逃げるように校舎の中に駆け込む。

 それはただ単に暑かったからか、あるいは幼馴染が来るのが遅くて不安になったからか。

 おそらく、後者だったのかもしれない。

「シキぃ……早くしてよ……」

 半泣きで口にして。

 ……そうだ、シキは生徒会室にいるはず。

 見に行っちゃおう。文句言って連れ戻して……一緒に帰るんだもん。

 そんな風に思ったのがそもそもの間違いだったのかもしれない。

 靴箱から上履きを取り、スニーカーから履き替えて、軽く廊下を駆ける。

 階段を上り、生徒会室は三階。駆けあがった階段を左折して、延びる廊下のその先にあるその部屋を目指して。

 しかし、最後の廊下ですれ違ったのは、全速力で逃げる青い髪の少女。

 その部屋のあるフロア、すなわち三階は生徒会室以外はほとんど使われていない空き教室。人気がないはずのその廊下で、知らない生徒が、何かから逃げるように走っている。

 違和感を覚えるには、十分すぎた。

 ここであたしも逃げればよかったのかもしれない。

 いや、一瞬の判断の猶予すら、一般人には与えられることはないのだ。

「――生臭い?」

 感じた時にはもう遅かった。

 背後、ガラスの割れる音。振り返ると、さっき走っていた少女が「砕けていた」。

 切り裂かれた身体から飛び散った血は光の粒になって消えていって、その胸の中心から割れた水晶玉の欠片が飛んでいく。

 やがてその少女が光に溶けて消えていき――そこに散乱していた、砕け散った水晶玉の欠片たちも、やがて光になって、彼女を殺した犯人――人ともいえないような生臭い怪物だけが、残されていて。

 確か、魚介人類、だっけ。この、魚に腕と足が生えたみたいな化け物。いわゆるアジョットって言われるようなやつ。

 その死んだ魚のような生きた魚の目があたしに向けられたとき、無意識に恐怖した。

「アナタ……精霊の臭いがシマすネぇ……」

 理解不能な言葉。それがあたしに向けられているのは明白で。

「精霊に因縁のある人間ハ、自身も精霊にナル可能性が高イ……。クイーンに教えてもらっタことデス。故ニ――」

 睨む魚介人類。その口角が上がったように見えたのは、果たして気のせいか、それとも――。

「悪い芽は、摘み取らネバ!」

 ――殺意の表れか。

 瞬時に消えた怪物。いや、速すぎてあたしの目が追い付かないだけだと気付いたのは、一秒にも満たないシンキングタイムが過ぎた後。

 腹部に衝撃が走った。眼前に鯖の顔面が迫って――目の前が点滅した。

 脳みそが揺さぶられる感覚、背中が風を切って。

 背中にまた、固い衝撃が走った。

 生徒会室の扉にでもぶつかったのか。胃の中のものが、口から飛び出す。

 喉がヒリヒリする。胃液に焼かれたみたいで――いや、なんとか回復しだした視界に写ったのは、赤。血も一緒に飛び出してたみたいな――。

 あれ? なんでこんなにも冷静なんだろう。

 疑問に思ったときには、もう遅かったらしい。

 下を向いた。

 あたしの身体が、蹂躙されていた。

 ――幽体離脱。自覚した瞬間、急激に重力が戻り。

「ああああああああああああああああっ」

 痛い。熱いくらいに。

 殴られている。殴られている。

 体が壊されていくような感覚。骨が折れて、内臓がつぶれて、衝撃の度にどこかから命の抜けていくような。

 やがてどこかの神経が切れて感覚がなくなっていく。そのたびに思考力が奪われて。

 残ったのは、純粋な恐怖だった。

 怖い。怖い。怖い! 怖い、怖い怖い怖い!!

 血や尿の臭いがもうしなくなって。

 霞んだ視界に、一瞬だけシキが見えた。

 もう、遅いよ……。

 一生懸命叫んでいるように見える。なんて言ってるのかはわかんないけど。

 愛が伝わってくるような気がした。

「シキ、ありがと」

 かろうじて、口と喉に力を入れて――ついに、思考能力は限界に達した。

 *

 悲鳴。それは聞き覚えのある声。

 それとともに、閉まっていた扉が強く叩かれる。

「なんなのじゃ!?」

 ヒメの困惑の声。衝動に突き動かされて振り向くと。

 少女が、倒れていた。

「ハル?」

 フユの一言。頭が真っ白になった。

「ハル、か。ハル……ハル……」

 うつろに名前を呼んで――そこに近づく影を認める。

 鯖の身体を持つその生物。エラから生えた腕が彼女をとらえて。

 殴り始めた。

 馬乗りになって、起き上がれないハルを、一発、二発。

 少女の身体はそのたびに抉られて、壊されて。

 僕は後悔した。

 何故、速く動きだせなかったのだろう。何故恐怖に負けていたのだろう。

 狂気じみた怒りが、僕を飲み込んで。

「ハルに……なにを……している」

 気にせずにハルを傷つける鯖。その姿に、僕の頭の中でなにかが切れた。

「はは、ははは。そうか、殴って……ころそう、と……」

 武器を出現させる。もうなんでもよかった。目の前の危機を排除することさえできれば。

「断罪、する」

 刀身の幅は広く、長い刃の先は丸く。罪人の首を斬ることに特化した処刑人の剣、エクスキューショナーズソードが僕の手に握られていた。

 僕は剣の切っ先を引きずり、ハルの横につく。

 ハルを殴っていた鯖の黒い眼球は、僕を捉えるや否や、怯え震えだす。

 これは、ハルを傷つけ僕を怒らせた報いだ。

 動きを止めた鯖に、僕は断罪の刃を振るう。

 それは、斬撃ともいえないような一撃だった。

 少女に宿った狂気の眼光が捉えた『罪人』。その首に向かって、片手に下げた超重量の剣を振り回したのだ。

 後ろ手に持ったその剣を、全身を使って持ち上げながら、遠心力を使って勢いをつけて――。

 その鯖の頭は、胴体から離れていった。

 ごろりと転がる魚の頭。未だハルに馬乗りになったままの胴体を蹴ってどかして。

「……ハル……ハルッ……!」

 名前を呼んだ。少女の名を。

「死なないで……生きててくれよ……頼むから……」

 僕は失いたくなかった。守るべきものを。世界よりも大事な、幼馴染を。

 だが、運命は無情である。

「……き……」

 ハルの口がかすかに動いて。

 耳を凝らした。吐息が、告げた。

「……あ……が、と……」

 ありがとう。

 その一言が、最後だった。

 彼女の身体が冷たくなっていく。糸を切られたマリオネットのように力が抜けていき。

 やがて、彼女は動かなくなった。

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