最後に高校の校舎を見たのは何か月前のことか、もう覚えてはいない。まして、その中に入ったのは一年近くぶりのことだったはずだ。
なにはともあれ、教室の中に足を踏み入れた僕は、すぐに耳をふさいだ。
なんだこれ、めちゃくちゃうるせえ。
電車の乗り換えに手間取って少し遅れたのもある。始業チャイムの鳴る五分前の教室はおよそ三十人分の声とは思えない賑やかさで少し眩暈がする。
他愛もない会話、ふざけあい、じゃれあい。ハルもその輪の中にすんなりと混ざっていって……僕はやはり孤立した。
一年ぶりの登校で、友達が一人もいないのは仕方がないと思っている。むしろ、僕の席が確保されていることが不思議なくらいなのだ。
黒板に貼り付けられていた座席表に自分の名字が乗っていたことに多少の驚愕を覚えつつ、教室の最後方に設けられた机に向かう。
げ、乗っ取られてんじゃん。
見るからにアホそうな男子グループに占領されていた自分の座席。そこから逃げるように立ち去ろうとすると。
「おっ、可愛い娘いんじゃん。見ねぇ顔だが」
「誘っちゃおうぜ。おーい」
話しかけられたっ!?
内心の悲鳴と混乱と恐怖。それを押さえつけつつ、どう返すかをシミュレートする。
選択肢は三つだ。
①普通に会話に混ざる→できません無理です怖いヤバい。
②無視する→それができるほどの度胸はありません。
③理由を付けて逃げる→実質これしかないじゃねーか!
「あはは、ごめんなさい。トイレに行くので……」
会話になっているかどうかはもはや気にしてはいられなかった。
「あー、トイレかい」
「なら仕方ねーべな。行っトイレー、なんつって」
そうしてゲラゲラ笑う男子グループ。しょーもな。でも割と優しい人でよかった!
僕はカバンを置くことも忘れて全力疾走でトイレに駆け込んだ。
息を切らして、トイレの個室。便器に座った僕は一つだけ大きなため息を吐いた。というかため息つきすぎな気がするな最近。
でも、思わず逃げてしまった。きっと、一つ目の選択肢を選んでいればどうにか友達……と言っていいのかはわからないけど、少なくとも話す相手はできたと思う。
自己反省が頭の中をぐるぐると渦巻く。そこにがやがやと男子の声。何にも考えずにまたため息を吐いて。
「あれ、女子の吐息聞こえなかった?」
「気のせいだろ。まさかこの男子トイレでいま唯一閉まっている一番奥の個室に女の子が入っているなんてエロ漫画じゃあるまいし」
……うそだろ、この男子トイレに女子がいるなんて。
いたわ。というか僕はいま女子だったわ。
……。
男子トイレに入った何の罪もない男子が去っていくのを待って、男子トイレに入ってしまった大罪人は発狂した。
間違えて男子トイレに入ってしまった……どうすりゃいいんだ……!
いや、これが逆だったらもはや退学モノだけどさ! 女子の身体だからこそワンチャン許されるような気がしないでもないんだけど! 僕なら許す!
ああもう、こうなったら誰も人がいないタイミングを見計らって出るしかない!
誰もいないタイミング、つまり今しかない。
反省はあとだ! スカートを履いて、一応流しておいて、鍵に手をかけて……さん、にー、いち!
ばっと鍵を開けてドアを開けて出口へと駆けこむ。そして、女子禁制エリアを抜けた瞬間――ごつん。
何かが僕の胸にぶつかった。目線を下ろすと、そこには白い髪の女の子がいた。
「だ、大丈夫!?」
反射的に言ってしまうあたり、僕も良心を捨てきっているわけではないらしい。転んでしまったその幼い少女に手を伸ばすと、彼女は握り返す。
「問題ない。私の体に異常はないようである」
その幼そうなモノローグ、否、目の前の女の子の声に僕はひとまずほっとした。
「ならよかった」
僕の言葉にこくりと無表情で首を縦に振って、彼女は立ち上がった。
「私は衝突に関する謝罪の意と私の直立補助への感謝を示すものとし、これにて筆を置くこととする」
「え、筆? どういう……あっ」
謎の呪文のような言葉とともに、彼女は去っていった。
何だったんだろう、あの子。
一時間目。英語。
「伊東!」「あいっ」
ハルの返事にクスリと笑いつつ、僕は机に軽く寝そべっていた。……どうにか自分の座席につけてよかった。
誰に注目されるでなく、僕はぼうっとして悠々自適に教科書を開こうと。
「来宮ー。きーのーみーやー。……いるわけないよな」
「はっ、はい!」
突然呼ばれてびっくりして返事をすると、空気が一瞬凍り付いた。
「……え、来宮。来てたのか」
「来宮さんが来るなんて……今日は天変地異でも起こるの……」
「というかナイストゥーミートゥってやつじゃね?」
「てかこの娘めっちゃ美人じゃんナンパしよーぜ。おーい、放課後一緒に遊ばない?」
「ちょっと男子ぃー」
ざわざわと雑談が始まった。その中心となった僕は。
「あばばばばばば……」
目を回していたのだった。誰かに囲まれることはあまり得意ではないのだ。
「来宮ってどのくらい来てなかったっけ?」
「一年の最初のころに消えてなかった?」
「そもそもなんで二年に上がれてんだこいつ」
正解です。一年の最初のころにいなくなってました。
……正直、こういう高校生特有のノリが嫌いで逃げてたんだよ。
というわけで質問攻め……にされる前に、先生が制止する。
「静かに。まだ出欠確認の最中だからな」
ほっとしたのもつかの間。
「来宮のことが気になるなら休み時間にな」
『Yeeeah!!』
教室が沸き上がると同時に、僕は大きなため息を吐いたのだった……。
二時間目、数学。
早くも帰りたくなってきた。
ほとんど初対面のクラスメイト達のおもちゃにされていた。もみくちゃにされてトイレにすらいけなかった。おそらく午前中はこんなものだろう。小中学校で転校生が来たときはよくそんな様子を傍観していたものだ。自分がその対象になるなんて思わなかったが。早々に興味を失ってくれることを祈ろう。
そうして平穏が訪れた。いや、平穏なようでこそこそと僕について話されてたりする。うるせえ。
ひとまずだ。
僕は教科書をペラペラとめくってこれまでに習ったとされる内容を確認する。教科書を見るだけでだいたい黒板に書かれている内容が分かったのは僥倖と言えようか。
「来宮ー」
「はっ、はい!」
「この問題解けー」
中年太り数学教師の威圧的な目つきに僕は少しビビりつつ、教科書を片手に恐る恐る問題を解く。
黒板に書かれていた内容から数式を推測して、教科書に書いてある公式を参考にノートに計算式を書き綴る。ほんの少しの矛盾点にも気付かぬまま。
前に出て、黒板にその答えを写して――。
笑われている。そんな気がした。
「問三のカッコ一……来宮のやってくれたやつ、間違っとるぞ。あと、霜田のやってくれたカッコ二もだ」
びくりとした。
教室が笑い声に包まれる。それがあたかも嘲笑に聞こえて。
教師の解説が流れる中、脳内には失敗の二文字が渦巻いていた。
三時間目、現代文。
落ち着け、落ち着け僕。深呼吸して、自分の失敗を忘れようとする。
「シキ、どしたの?」
ちょうど前の席にいたハルが、僕の頬をつつきながら聞く。
「なんでもないよ」
答えると、彼女はくすくすと笑って。
「うーそー。こういう時のシキってだいたいなんか悩んでるの、知ってんだから」
目ざとい奴め。当ててあげようかーなんて言って、ハルは少しだけ口に手を当てて考える素振り。
そして、言い当てた。
「さっき問題間違えたの、引きずってるんでしょ」
見事な大正解。僕は「そうだよ。……気にすんな」とため息を吐くと、その幼馴染は僕の顔を覗き込んで。
「一番気にしてないのはシキじゃん」
ものすごく的を射た発言に、僕は眉をひくつかせる。
「図星だー。そんなこと考えてるから友達出来ないんだよシキは」
「うるせえよ。だいいち、友達作るために学校行ってんじゃねぇ」
そもそも学校に行く気がなかったのに、連れてきたのはお前だろうが。
愚痴とともに教壇に立つ女教師から「後ろのあなたたち、真面目にノート取りなさい」と名指しで注意され、慌てて背筋をただす。
粛々と授業が続く中、ハルはまた僕に小声で話しかけた。
「……一回の失敗なんて、誰も気にしちゃいないわ。問題を間違えちゃうなんてなおのこと。誰にでもあるし」
そんなものだろうか。教師が誰かを指名する声が聞こえた。ハルはくすくすと笑って。
「ちょっとの失敗なんて、成功で上書きしちゃえばいいのよ。あんなふうにね」
ハルが小さく指さした方向には、白い長髪がきれいな、小柄な少女が立っていた。
さっき僕とぶつかった女の子だ。同じクラスだったとは思わなかった。というかそもそも高校生だったんだ。
そんな驚きとは無関係に、彼女は答えた。
それは、あまりにも完璧な答えだった。
受験や試験の模範解答と全く同じという意味ではない。それ以上に、その小説に対して込められているであろう作者の意図や心情を考察してのけたのである。圧倒的な文章力、表現力で以て。
彼女が着席したとき、誰かが拍手した。つられてまた誰かが拍手した。それは、伝播していき……やがて、大きな波になった。
「ね?」
微笑むハル。僕はただただ呆然とするほかなかった。