「晴れた日の川沿いってどうしてこんなに気持ちいいんだろ。シキもそう思わない?」
ハルの言葉に、僕は顔を青くして首を横に振った。
ああ、気分は最悪だ。まさか、二十分も歩かされるとは思わなかった。
動きにくい着慣れない服。普段からの運動不足。あと日光で目がくらんでしまったのもある
結果が、若者には似つかわしくないすごい息切れである。
「ぜぇ……ぜぇ……」
普段から嫌なことから逃げるという生活を送っていた弊害である。
「……身体的には大丈夫なはずですが」
とアキちゃんが不思議がる。……そういえば、この体は昨日までの僕の身体じゃない。けれども、そんなことを考えていられるほどの余裕はいまのぼくにあるはずもなく。
「ちょ、すごい……つか、れた……」
目の前の人たちが超人のように見えた。いや、自分のスペックが低すぎるだけなのだが。
「休む……」
そう言って芝生に座り込むと、アキちゃんは僕のそばに寄って耳打ちする。
「本当は、あなたが疲れたと『思い込んでいる』だけじゃないですか?」
ぴしゃりと水をかけられたような気分だった。
「昨日、言いましたよね。……イメージで、何でもできると」
「それが、どうした」
僕は少しの嫌な予感とともに、話の続きを聞く。
「……わたしたちの能力は、思ったことをそのまま具現化できる力です。最強だと思えば最強にもなれるし……」
「疲れた、と思えば本当に疲れて動けなくなる」
「ざっつらいと。その通りです」
そうして彼女は空色の瞳で僕を見つめた。
「泳げないと思うから泳げない。動けないと思うから動けない。喋れないと思うから喋れない。人間に対しては根拠のない根性論ですが、わたしたちは違います」
目の前の少女は僕を信じるように言った。
「自分を変えたいんでしょう? ……まずは、こういうところからですよ。お姉ちゃん」
「サバァ……。こいつは麗しき姉妹愛デスネェ」
その汚い笑い声に気づいたのは、数秒が経ってからのことだ。
「エビの次はサバですか」
アキちゃんの言う通りだった。なんか妙な魚臭さとともに現れたその生き物は、まさに鯖だった。鯖をモチーフにしているどころじゃない、脚が生えてて直立二足歩行する、化け物みたいに大きな鯖だった。
うわ、なにこれ気持ち悪っ。
生理的な嫌悪感を隠し切れない。
「そう、ワタシは魚介人類交渉担当の『マックロー』デス」
口とエラをパクパクさせ魚臭さをまき散らしながらそのナマモノは自己紹介する。流石にドン引きである。
鼻をつまみながら、僕は立ち上がり、目の前の鯖に質問する。
「なにが目的だ」
「まず一つ。アナタ……精霊の命デス。まあそれは目的の一つにすぎませんがネ」
「……なら、もう一つは」
「つまるところ、交渉デス。あなたの身柄を、預からせてくだサイ」
どういうことだ? 僕の訝しみを感じ取ったように、マックローは話をつづけた。
「昔から人間が一定の条件下で精霊化することはわかっていマシタ。デスが……人間と精霊が融合したケースは初めてデス。そして、我々魚介人類の、人の手による消滅も、ネ」
僕は目を見開く。
「我々の統率者たる『クイーン』はそのことに大変な興味を持たれたのデス。あなたを調べれば、精霊を滅ぼす一つの手がかりになりえる。そのようなお考えのもと、ワタクシが遣わされマシタ」
そう、なんだ。目の前の鯖の言うことに、こくりとうなづいた。
「……僕は行けば、ほかの誰も傷つけないと約束できるなら」
「約束シマショウ。アナタが大人しくついていってくれれば、デスガ」
こんな魚臭いやつと一緒に行くのは正直嫌だ。けど、みんなを守るためなら――
「マグロ、っていったっけ? この……なんかよくわかんないやつ」
「誰デスか! あとワタシはマックロー、鯖デス!」
マックローが叫んだ。
振り向くと、そこにはハルがいた。
「なんでもいいけど。なんで精霊とやらを滅ぼさなきゃいけないわけ? アキちゃんや……シキを殺して、なんになるの!?」
叫んだハルにマックローは一瞬戸惑う素振り。しかし、すぐに冷静になって。
「……精霊はこの世に存在してはならないから、デス。精霊は、世界の法則をゆがめる存在。故に、精霊をこの世界から絶滅させなければ……」
この世界は崩壊しマス。そんな言葉が続いた。
精霊ってなんだ。理解不能が僕を蝕む。
どういうことだ! 嘘だと言ってくれ!
僕はアキのほうを見た。
彼女は、暗く俯いていた。あたかも鯖の言うことを肯定するかのように。
嘘、だろ。
僕の存在が、僕が昨日守ろうとした存在が、世界を崩壊させる。世界が崩壊したら――もう考えるべくもない。
はは、一体僕はなにをしていたんだ。
そうしていつも、間違ってばかり。だから、学校でもなじめなかった。だから、正解できなかった。嘲笑われた。負けた。終わった。
また、今回も。今度は、世界すらも壊すほどの大失敗だ。
だから僕はダメなんだ。なにをやっても裏目に出てばかりで、だから他人に嫌われて、いつしか他者とのかかわりを絶って。
だから僕はダメなんだ。でも、僕が犠牲になれば――
「だから、なに?」
ハルの言葉に、僕は驚いた。
「世界がなに? ワケわかんない。そんなわけわかんないことのために、シキは渡せない」
「だめだ! ……無駄だ。僕が行かなきゃ、みんなが犠牲に……」
「そうかもね。でも、決まったわけじゃないじゃん」
鏡面のような水面に、さざ波が立った。
せっかく決めた決意が揺らぐ。やめろ、僕は世界を救いたいんだ。
けど……もし、僕が行かなくてもいいのなら。誰も傷つかない方法があるのなら……その方法に、賭けてみたい。
「……アナタ、なぜ立ち止まってるのデス? もしかして、あの娘が気になるのデスか?」
マックローの言葉。瞬間、魚臭さがわずかに遠のいた。
「ハルさんっ!」
悲鳴にも似た、アキちゃんの声。僕は恐る恐る後ろを向いた。
彼女は宙を舞っていた。
自らの身体をバッドのように振りかぶり、直接彼女に当てたのだろう。川のほうに、彼女は飛ばされていた。
油断していた。一瞬の反応の遅れが、ハルを危険にさらした。
いや、反省はあとだ。いまは彼女を助けねば。
さっきアキちゃんに教えられたことを思い出す。
『精霊は、思ったことをそのまま具現化できます。泳げないと思うから泳げない。動けないと思うから動けない。喋れないと思うから喋れない。だから――』
飛べると思えば、どこへだって飛べる。宙に舞う少女を受け止めて、助けられる。
果たして僕なんかににできるか? いや、やるのだ。命に、代えても。
僕は助走を開始する。
動け。動け。動け。早く。飛べ。飛べ。飛べ。
飛ぶんだ。僕は――飛べる!
果たして、力強く踏み込んだ右脚が地面を蹴ると、僕は空高く飛翔した。
速く。すいすいと。まるで、魔法のように。
そんなことはどうでもいい。僕は、彼女を助けたいんだ。
広い川幅の中央。ハルの身体は水面から残り十センチ程度まで迫っていた。彼女が川に落ちるまで恐らく一秒もないだろう。そして、その位置まではおよそ百メートル。
足りるか。間に合うか。否、間に合わせる。
僕はさらに加速した。
速く!
瞬間、リニアモーターカーすらも追い越せるほどのスピードが、川を裂いた。
「ハルッ!」
僕は手を伸ばして――――受け止めた。彼女の身体を。
よかった、無事みたいだ。
彼女を傷つけないように少しづつ減速して、地面に降り立つ。
そして、僕は目の前に直立する鯖を睨みつけた。
「なんで、ハルを傷つけた」
「任務遂行の邪魔になると判断したからデス」
「そうかい。……ほかに人がいたなら、どうする」
「口封じに殺しマス。もちろん、そこの精霊の少女が精霊でなくたって、傍観者である時点で殺しマス。むろん目撃したものは例外なく」
「もういい。これほど腹が立ったのは、いつぶりだろう」
これほどまでに感情が揺れ動いたのは、かつて何年もなかった。封印されていた感情が僕の中で、静かに、激しく、燃え盛っていた。
傍らに、気絶したハルの身体を置いて、僕は少女に問う。
「アキちゃん、精霊の力を開放するのってどうやるの?」
「……わたしと、手をつないでください。そして、イメージするのです。自分の理想を。あとはわたしが補助します」
僕は目をつぶった。
幼馴染を、ハルを、イメージした。
勇敢で、優しくて、完璧な少女。弱い僕を守ってくれた。ずっと、面倒を見てくれていた。そんな奴、アイツ以外知らない。
僕はあんな人間に憧れていたのだ。
「ヴァルキリー・スクルド」
脳内に浮かんだ言葉。唱えて、僕は願う。
彼女を守れるような人間になりたい。
――光が爆ぜた。