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老人と偶像

事務所が存在するビルより歩いて十五分。ピンク色の看板やラブホテルが立ち並ぶ通りから住宅街へ移動し、そこから更に歩いた先に目的地である教会が在る。


 背の低い草木が茂り、蔦塗れとなっている教会は俺が住むビルと同じくらいに廃れているように見えるが、よく見ると意外に管理の手は行き届いておりこの場所を管理する神父とシスターの親子の努力が垣間見えた。


 金メッキの塗装が剥げたドアの取っ手を握り、ゆっくりと押し開けると教会内はシンと静まり返り、神父とシスターの姿も見えなかった。恐らく懺悔室か何処かにいるのだろう。俺は教会を見渡し、長椅子に座る老人を見つけると彼の隣まで歩を進め、静かに座った。


 「神に赦しでも貰いに来たのかね、狼よ」


 「俺は神の赦しを必要としていない。貴男に用があっただけだ」


 「信仰を是とせぬのだな君は。まあいい、何用か」


 「依頼の件で来た」


 俺は懐から純金製のロザリオを取り出し、老人へ渡す。彼はロザリオを手に十字を切ると厭な笑みを浮かべてハットを深く被り直した。


 「確かに受け取った。狼よ、君は何故私がこのロザリオを欲していたか分かるか?」


 「さあ」


 「信仰とは信奉に非ず。十字を握る者は信じ仰ぐ為にロザリオという象徴を握るのだよ。コレを持っていた者は信仰と信奉の違いが分からぬ阿呆であった。いいか狼、信仰者とは求道者なのだ。故に、私はコレを求めた」


 「……咲州さきしまさん、持論を語るのは結構だが先ずは貴男の誠意を見せて欲しい。報酬を渡して貰おう」


 「そう早まるな狼よ。老人の話に付き合ってくれてもよかろうに」


 老人、咲州吾郎を睨みつけるが彼は含んだような笑い声をあげるばかりで素直に金を差し出す気は無いようだった。俺は仕方無しに両腕を椅子の背へ回すと祭壇の上に飾られている偶像を見上げる。


 「君はあの救世主の偶像を何だと思う?」


 「ただの金属の塊だ」


 「金属の塊。確かに神を信じない者には、あの偶像はメッキが塗られた金属の塊に見えるかもしれぬ。

 だが、救いを求め、神という証明不可能な存在へ信仰の意を向ける者は縋るのだよ。己の弱さを支える為に、罪悪を擦り付ける為に偶像に救いを求める。

 故に、救いを求められた瞬間に鉄塊は偶像と成り、意味を持つ」


 「つまり?」


 「鉄塊と偶像は信仰と無信仰の境界線上に揺蕩う小舟と評すべきだろう。少しの波風により小舟が揺れるよう、信仰者と無神論者の精神も耐え難い苦痛により揺れ動く。その揺れ動いた先に鉄塊と偶像の真なる姿が見えるのだ」


 「……どれだけ精神を痛めつけられようとも、身体が悲鳴を上げようとも、鉄塊に救いを求めるほど人は弱くは無い。俺は、人は一人で立ち上がり生きられる存在だと思う。偶像なんて所詮は人の意思が見る象徴に過ぎない」


 人は絶望的な状況に立たされても強くあらねばならない。強くなければ生きていけない。人は一人で産まれ、一人で死ぬ。どれだけ家族に愛されていようと、どれだけ他者と関りを持っていようと最後は一人で死ぬ。その死を恐れる為に人は何かに縋ったり救いを求めるが、結局その恐怖に立ち向かうのは自分という個人だ。


 「咲州さん、人は何かに救いを求めて生きる存在ではない。皆強い筈なのに弱いと思っているから縋るんだ。誰しもあんな鉄塊に縋る程弱くない。最後の最後に決着をつけなければいけない存在は、自分自身だ」


 「なら君は何故便利屋なんて仕事をしている。弱い人々の為に何故君のような鋼の狼が存在している。強さを信じるならば弱い人々を捨てるべきではないのか?」


 「俺は金を貰って手助けをしているだけに過ぎない。強さを隠して近づいてくる人間も存在するが、最後に事を済ませるのは本人次第だ。依頼人対しては誠意と誠実さを以て仕事に臨む。それが俺の信条だ」


 「狼よ、若き鋼の孤狼よ。君の鋼鉄たる精神は尊敬に価するものだが、鋼鉄は意図せぬ圧力には弱いものだ。誠意と誠実の信条には必ず裏切りという対価が存在することを忘れてはならない。裏切りの対価は応酬である。努々忘れるな、狼よ」


 懐から万札が詰まった封筒を取り出し、俺に手渡した咲州はゆっくりと立ち上がると淀んだ黒い眼を俺に向ける。


 「一つだけ忠告しておこう。狼よ、路地のゴミ捨て場には近寄らない方がいい」


 「何故だ」


 「ただの忠告だ。問の理由を君が知ることになるのは暫く後になるだろう。いいか? ゴミ捨て場には近づくな、狼よ」


 老人は意味深な言葉を残すと教会を去る。その後姿を見送った俺は、顎に手を当てると彼の言葉の意図を推理する。


 路地のゴミ捨て場。俺の事務所が在るビルは路地の奥まった場所に存在し、ゴミ捨て場は路地へ入って二分という入り口付近にある。事務所へ戻る為には必ずゴミ捨て場の前を通らなければならないし、それ以外に帰る道は存在しない。彼はゴミ捨て場に近寄るなと言った。それは事務所に戻るなという意味ではないのだろうか?


 事務所に戻らなければ仕事の書類や顧客名簿を見られない。帰る仕事場が事務所であるのならば、寝泊りする場所も事務所。どう転んでも一度は帰らなければならないのだが、咲州が言う言葉には必ず不吉な出来事が絡み合う。


 「……」


 慎重に行動しなければならないだろう。俺が死んでも悲しむ人間なんか一人も居やしない。だが、死ぬ時と場所は決めている。忠告に従うのが吉であろう。


 俺は金が詰まった封筒から紙幣を三十枚抜き、椅子から立ち上がり偶然懺悔室から出て来たシスターへ歩み寄る。


 「寄付は受け付けているか?」


 「はい、受け付けていますよ」


 「ならこの金を寄付したい」


 万札が詰まった封筒をシスターへ手渡し、教会の出口へ向かう。彼女の名前は知らないし、彼女も俺の名前を知らない。言葉を交わす時は決まって老人との取引を終えた後、不要な金を教会に押し付けたい時に彼女は懺悔室から姿を現すのだ。


 「……何時もありがとうございます」


 「俺はただこの場所が必要なだけだ。無くなられては困る」


 「それでも、ありがとうございます」


 「……ああ」


 シスターを一瞥し、教会のドアを開く。外は相変わらず雨が降っており、重い雨雲が空を覆っていた。


 ポケットに突っ込んでいた携帯が震え、ディスプレイを見ると知人の名前が表示されていた。名前は飯野静香。喫茶店ノワールの一人娘からの電話を取った俺は携帯を耳元に近づけ「もしもし、神城だ」と話す。


 「あ、銀二さん? いまってお仕事中?」


 「いや、もう終わったよ」


 「なら良かった。お仕事を依頼したいのだけれど、大丈

夫?」

 「ああ」


 「ありがとう。天照女学院を知ってる?」


 「ああ、知っている。市街地の方だったな?」


 「うん。えっとね、十七時に新しいアルバイトの子が来るんだけど、少し手が空かなくて……銀二さんが迎えに行って貰ってもいい? 報酬は一か月間の食事券なんだけど」


 「十七時……あと三十分程か。分かった、今から向かう」


 「うん、お願いします」


 「ああ」


 通話を切り、歩き出した俺は天照女学院に向かうのだった。

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