ワゴンを押す彼と一緒にリビングへと向かう。
「お待たせしました」
「おっそーい。
あんまり遅いからアフタヌーンティのケータリング頼んだわ」
文句を言いつつ典子さんの視線は携帯から動かない。
「……は?」
一音発し、作り笑顔のまま宣利さんが固まる。
一瞬のち、言われた意味を理解したのか深いため息を吐き出した。
「勝手なことをしないでいただけますかね?」
頭が痛そうに彼は額に指先を当てているが、まあそうなるだろう。
目配せされ、あいているひとり掛けのソファーに腰掛ける。
宣利さんはとりあえずといった感じでお茶をサーブし始めた。
「なぁに?
宣利が私を待たせるからいけないんでしょ?
それに私が奢ってあげるのに、文句あるの?」
典子さんの文句は続くが、家の人間に断りもなくケータリングなんて、迷惑以外のなにものでもない。
それにあの典子さんの奢りだなんて、なにか企んでいるのではと考えてしまう。
「ありますよ。
それに姉さんの奢りはあとで高くつきますからね」
またため息をついた宣利さんは、私と同じ考えのようだ。
「どこのアフタヌーンティを頼んだんですか?」
「港近くのホテル。
エーデルシュタインは断られちゃった。
倉森の人間相手に失礼じゃない?」
典子さんは怒っているが、失礼なのは彼女のほうだ。
会員なのは宣利さん個人であって、倉森の家ではない。
当然、典子さんは会員ではないのだ。
なのに、注文するなんて厚かましすぎる。
そもそもエーデルシュタインは配達をやっていない。
「まったく失礼じゃないですよ。
……すみません、倉森ですが……」
宣利さんは呆れつつ、携帯を操作して通話をはじめた。
きっと守衛に連絡してホテルから来る配達の人を通すようにお願いしているのだろう。
「せっかくケーキを出したのに、無駄になってしまいました」
再び宣利さんがため息をつく。
というかそれしかできないんだと思う。
「あら。
それもいただくわ」
典子さんが寄越せと催促をする。
最後に会ったとき、太ったからダイエットしないといけないと言っていた気がするが、そのダイエットとやらは成功したんだろうか。
「それで。
なんの用ですか、姉さん」
早く帰っていただこうと、宣利さんが早速話を切り出す。
「なんの用って、そちらこそ私に用があるんじゃないの?
特に、花琳さんが」
にたりと嫌らしく典子さんの目が歪み、身体をぞわぞわと鳥肌が駆け上がってきた。
でも、なんで私が?
嫁教育を再開してくれと頼めとでもいうんだろうか。
けれど今のところ、まったく困っていない。
「お父さん、ツインタワーへの出店、断られたそうじゃなぁい?」
ざらざらと耳障りな声が身体に纏わりつく。
どうして典子さんが知っているの?
違う、典子さんは〝知る立場〟にある人間なのだ。
「……あなたが、なにかしたんですか」
お腹の中が怒りでふつふつと沸騰した。
「別になにもしてないわ。
宣利と一緒で知り合いのお店を紹介しただけ」
素知らぬ顔で典子さんはお茶を飲んでいるが、絶対にそれだけではないはずだ。
宣利さんだってなにかがおかしいと言っていた。
「本当にそれだけなんですか!」
怒りに飲まれれば、負けだとわかっている。
それでも、あんなつらそうな母を目の当たりにさせられ、黙っていられるわけがない。
「それだけって言ってるでしょ?」
いたって冷静な典子さんが私を見る目はじっとりとしており、獲物を前にした蛇そのものだった。
「義姉を疑うなんて、やはりまだ教育が必要ね」
彼女の視線が私の身体に絡みつき、雁字搦めにしてしまう。
瞬く間に私は、恐怖の海へと溺れさせられた。
「花琳!」
急になにも見えなくなり、意識が目の前へと戻ってくる。
「たか……とし……さん?」
「いい子だ。
ゆっくり、息をして」
私を抱き締める彼の手が、促すようにゆっくりと背中をさする。
それにあわせて息をしようと努力しているうちに、あんなに苦しかった呼吸が楽になった。
「うん、落ち着いたね。
もう部屋で休んでて」
それに額を擦りつけるようにして首を横に振る。
「……嫌」
「花琳」
宣利さんの声は、私を咎めている。
それでも、譲る気はない。
「これは私自身の問題だから。
だから、ちゃんと自分で解決しないといけないんです」
何度も、私の心が折れるまで怒鳴られた。
折れたあとは従順になるように躾けられた。
あんな短い間でも、心は典子さんに従うべきだって思い込んでいる。
でも、そんなの、嘘。
本当は嫌だってもうひとりの私が叫んでいた。
今なら、宣利さんもいる。
きっと、なんとかなる。
「だからー、そういうこと言われると反対できなくなるだろ」
私を身体から離し、彼が顔をのぞき込む。
「さっき、無理はしないって約束したよね?」
「うっ」
それを持ち出されるとなにも言えなくなってしまう。
「もう一回、約束して。
無理はしない。
興奮して感情的にならない。
また、今みたいになったら強制退場だからね」
厳しい顔をしながらも、私の目尻を拭う彼の指は優しい。
「……はい」
そうだよね、私だけが苦しいならいいけれど、赤ちゃんも苦しくなっちゃうもんね。
「よし」
頷いた彼はスツールを極力寄せ、私に密着するように座った。
「宣利がそうやって甘やかせるから、つけあがるのよ」
はんと小バカにするように典子さんが鼻で笑う。
「……あ?」
宣利さんから彼の見た目に似合わない、ドスの利いた声が出る。
眼鏡の奥ですーっと細くなった目は、触れるだけで切れそうな日本刀を思わせた。
「愛する妻を甘やかせてどこが悪いんです?
それに花琳は誰かと違って、きちんと常識を身に着けていますからね」
宣利さんの発する声は冷気となり、その場の空気がビキビキと凍りついていく。
私はもちろん、典子さんも動けなくなっていた。
硬直した時間が続く。
それを壊したのは、チャイムだった。
「ああ。
姉さんが頼んだアフタヌーンティが来たようですね」
何事もなかったかのように宣利さんが立ち上がり、ようやく緊張が緩む。
「おいで、花琳」
「あっ」
私の手を引き、彼が強引に立たせる。
そのままなにか言いたげな典子さんを残して玄関へと向かった。
彼女とふたりきりにしない気遣いは大変助かる。
「ご無理を言って大変申し訳ありません」
宣利さんは丁寧に謝罪し、配達されてきたものを受け取った。
「近いうちにお礼にお伺いするとお伝えください」
彼に頭を下げられ、配達に来た男性スタッフは恐縮しきったまま帰っていった。
「お茶はさすがに葉っぱだから、また淹れないといけないね」
面倒くさそうに宣利さんがため息をつく。
「なにがいい?
どうせカフェインレスとかじゃないし、花琳の好きなのを淹れてあげるよ」
さすがに両手に引き出物クラスの紙袋を提げては手を繋げないので、彼はちょいちょいと手で中に戻るように指示した。
ふたりで一緒にキッチンへ来たが、また典子さんを放置だけれどいいんだろうか。
「ちょっとワゴンを回収してくるね」
ヤカンを火にかけ、宣利さんは私を置いてリビングへ行ってしまった。
「お茶の準備、しておこうかな」
新しいカップを出し、茶葉の準備をする。
甘いもの相手だし今度はさっぱりめの、レモンフレーバーのルイボスティにしようかな。
「花琳は座っててよかったのに」
戻ってきた宣利さんは、用意をしている私を見て不満そうだ。
「これくらいはしますよ」
それに苦笑いで答えた。
彼はどうも、私のお茶を淹れるのは自分の仕事だと思っている節がある。