妻の命日が、娘の生まれた日だった。
やっとの思いで、授かった子だ。
娘を命懸けで生んだ妻は、満足げに泣き笑い、逝った。
「おとうさま!」
男手で、右も左もわからなかった。
それでも娘は、
わがままも言わなかった。
おさないこどもなら、「あそんで」のひと言くらい、あってもおかしくはないのに。
「お父さまはがんばってるもの。なのに、これ以上がんばってなんて、言う必要はないでしょう?」
そうだろうか。私はおまえに、何をしてやれていただろうか。
「だっこしてくれたり、子守歌を歌ってくれたり」
それは、おまえが赤子のときだけだろう。
おまえが元気に駆け回るようになったとき、遊び相手にもなってやれなかった。
仕事が忙しかっただなんて、言い訳にもならない。
「それでも。お父さまが私を愛してくれていることは、ちゃんと伝わってる。それだけで、いいの」
だいじなひとり娘すら守れなかった愚かな父に、おまえは恨みごとのひとつも言わないのか。
「さびしくないよ。だって、お父さまもいっしょでしょう?」
……嗚呼、朱華。
そうか、そうだったな。
死した者がみな地獄へ行くのなら、私とおまえは、いっしょだ。
「すこし、疲れたな……昼寝でもするか、朱華」
娘の亡骸を腕に抱き直す。
それから無意識のうちに、歌を口ずさんでいた。
娘を寝かしつけるために、おぼつかないながらに歌っていた、子守歌だ。
──お父さま、だいすき。
そよ風とともに、そんな声が聞こえた気がした。
「私もだ。朱華……愛している」
最期にそうわらって、ふっと、からだの力を抜く。
──娘を抱いた
あとには白と紅の蓮の花が、音もなく、広大な池の水面を漂うだけ。
「親子の愛……か。すこしだけ、うらやましい」
すべてを見届けた
「もし、俺にもこどもができたら……なんて」
くすりと笑った憂炎は、きびすを返す。
「帰ろう。
しゃらん。
耳を飾る柘榴石の珠玉をなびかせ、憂炎は、夜風とならんだ。
* * *
「うおっ! なんかヒュンってきた! ヒュンってきたぁ!」
「…………うん?」
「おめぇの仕業か、にゃん小僧!」
「はは、ご名答ですー」
晴風は興奮した様子で、「びっくりさせんなよなぁ!」と
キィン、とひびく晴風の大声に、耳をおさえて顔をしかめた早梅は、しばらくして、あたりの様子をうかがう。
ゆれる感覚。月明かりのもと、流れる街の景色。
早梅の姿は、大河に浮かぶ船上にあった。
「貨物船のようですね。かなり大型です」
黒皇はあたりを見回しながらも、早梅を抱いた腕の力はゆるめない。これには早梅も苦笑する。
「『
「
いつの間にかそばへ歩み寄っていた五音が、早梅へほほ笑みかける。
ついで五音は、早梅を抱く黒皇に向けて、唇を尖らせてみせる。
「独り占めはいけませんよ、黒皇。お祖父さまに、
紫水晶の瞳で、五音はたしなめる。
しばしの沈黙をはさんで、黒皇は無言で腕の力をゆるめた。そうして差し出された早梅を、今度は五音が抱く。にっこりと、いつもの糸目で笑いながら。
「はい、よくできました」
「えーと、五音さま……」
満足げな五音だが、早梅としては、黒皇が五音に変わっただけだ。姫のごとく横抱きにされている現状は、なんら変わりない。
「
一心から状況の説明を受けたらしい晴風が、そう声を張り上げたかと思うと、あわただしく船室へ消えていく。
「なんか、さわがしい父上みたいなのがいる……」
「あ……あはは」
そういえば
「
「なるほどな──って納得するわけがあるか」
「ですよねぇ」
晴風が何者かを説明するには、仙人やらお空の上のことにまで、言及しなければならない。
賢い紫月はうまく状況を把握してくれるだろうが、それゆえにいろいろと追及されそうな気がして、早梅は遠い目をした。
「ちょっと見ない間に、仙女になったんですよ、てへ」と早梅が笑って誤魔化したところで、誤魔化されてくれる紫月ではない。
「あんた、大丈夫なの!?」
五音の腕の中で現実逃避に走ろうすれば、そんな早梅のもとへ、ひとりの少女が血相を変えて駆け寄ってくる。
「あぁ。ちょっと凶暴なわんちゃんに噛みつかれたけど、大丈夫だよ。それより、
「あんたはもう……なんでそう、ひとのことばっかり……ばかじゃないの」
凜花がうつむいている。
早梅たちが何を言おうと感情を乱さず、虚ろな表情だった凜花が、肩を震わせている。
「梅雪が言い出したら聞かないのはむかしからなので、諦めてください、虎族のお嬢さん」
しゃらん。
宝玉がこすれ合うふいの音色と、人の気配に、早梅は振り返る。
船のへりに、微笑を浮かべた憂炎がたたずんでいた。
「憂炎」
「見届けてきました。立派な最期でしたよ。陳仙海……人間ながら、尊敬に値する人物です」
「……そうか」
早梅へすらすら言葉を返した憂炎は、とっ、と危うげなく甲板へ降り立つ。
カンカンカン! とけたたましい鐘の音がひびき渡ったのは、そのときだ。
「煙が出ている……火事だ!」
「待て、あれは陳太守のご邸宅の方角じゃないか?」
「急げ、急げ!」
祭りににぎわっていた街は、またたく間に騒然とする。
早梅は瑠璃の瞳を細め、煌々と炎の上がる方角を、見つめていた。
「ほんとうに……やってのけたのね」
噛みしめるように、凜花がつぶやく。
「すごいなんてもんじゃないわ……梅雪」
「わたしたちは、自由なんだ……!」
すがるように早梅の手を取り、凜花は嗚咽をもらした。
ありがとう、と、しきりに繰り返しながら。
すすり泣く凜花。
凜花の頭をなでる早梅。
それは、人と獣人が、手と手を取り合った瞬間だった。
「
寄り添う早梅たちからふと視線をはずした憂炎は、今一度、赤に染まる街並みを見やった。
「次に撃ち落とされるのは、その栄華かもしれませんね」
季節が移り変わるように、すべては移ろう。
そして生あるものには、必ず終わりがある。
甲板の片隅で息を殺していた
「……
蒼雲がつぶやいた言葉は、波音に消えゆく。
夜が更け、やがて朝がやってくる。
陽は、必ず昇るのだ。
それを知ることができるのは、空を見上げた者だけ。
「いっしょに行こう、凜花」
「……うん」
さぁ、うずくまっていないで、起き上がろう。
絶望を乗り越えた先に、光はあるのだから。