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第236話 手と手を取り合う【後】

 妻の命日が、娘の生まれた日だった。


 やっとの思いで、授かった子だ。

 娘を命懸けで生んだ妻は、満足げに泣き笑い、逝った。


「おとうさま!」


 男手で、右も左もわからなかった。

 それでも娘は、朱華ヂュファは、まっすぐに育ってくれた。

 わがままも言わなかった。

 おさないこどもなら、「あそんで」のひと言くらい、あってもおかしくはないのに。


「お父さまはがんばってるもの。なのに、これ以上がんばってなんて、言う必要はないでしょう?」


 そうだろうか。私はおまえに、何をしてやれていただろうか。


「だっこしてくれたり、子守歌を歌ってくれたり」


 それは、おまえが赤子のときだけだろう。

 おまえが元気に駆け回るようになったとき、遊び相手にもなってやれなかった。

 仕事が忙しかっただなんて、言い訳にもならない。


「それでも。お父さまが私を愛してくれていることは、ちゃんと伝わってる。それだけで、いいの」


 だいじなひとり娘すら守れなかった愚かな父に、おまえは恨みごとのひとつも言わないのか。


「さびしくないよ。だって、お父さまもいっしょでしょう?」


 ……嗚呼、朱華。

 そうか、そうだったな。


 死した者がみな地獄へ行くのなら、私とおまえは、いっしょだ。


「すこし、疲れたな……昼寝でもするか、朱華」


 娘の亡骸を腕に抱き直す。

 それから無意識のうちに、歌を口ずさんでいた。

 娘を寝かしつけるために、おぼつかないながらに歌っていた、子守歌だ。


 ──お父さま、だいすき。


 そよ風とともに、そんな声が聞こえた気がした。


「私もだ。朱華……愛している」


 最期にそうわらって、ふっと、からだの力を抜く。



 ──娘を抱いたチェン仙海シェンハイのからだは、とぽんと、水底へ消えていった。

 あとには白と紅の蓮の花が、音もなく、広大な池の水面を漂うだけ。


「親子の愛……か。すこしだけ、うらやましい」


 すべてを見届けた憂炎ユーエンは、おのれのほかにだれもいなくなった岸辺で、静かに独りごちる。


「もし、俺にもこどもができたら……なんて」


 くすりと笑った憂炎は、きびすを返す。


「帰ろう。梅姐姐メイおねえちゃんのところへ」


 しゃらん。

 耳を飾る柘榴石の珠玉をなびかせ、憂炎は、夜風とならんだ。



  *  *  *



「うおっ! なんかヒュンってきた! ヒュンってきたぁ!」

「…………うん?」


 早梅はやめがまぶたを持ち上げると、晴風チンフォンがいた。


「おめぇの仕業か、にゃん小僧!」

「はは、ご名答ですー」


 晴風は興奮した様子で、「びっくりさせんなよなぁ!」と一心イーシンへ詰め寄る。


 キィン、とひびく晴風の大声に、耳をおさえて顔をしかめた早梅は、しばらくして、あたりの様子をうかがう。

 ゆれる感覚。月明かりのもと、流れる街の景色。

 早梅の姿は、大河に浮かぶ船上にあった。


「貨物船のようですね。かなり大型です」


 黒皇ヘイファンも状況を把握したらしかった。

 黒皇はあたりを見回しながらも、早梅を抱いた腕の力はゆるめない。これには早梅も苦笑する。


「『獬幇かいほう』の所有する船です。貨物船というのは表向きで、実際は、獣人の移動手段としてよく利用されます。私たちも、こうした貨物船に乗って、燈角とうかくへやってきたのですよ」

五音ウーオンさま」


 いつの間にかそばへ歩み寄っていた五音が、早梅へほほ笑みかける。

 ついで五音は、早梅を抱く黒皇に向けて、唇を尖らせてみせる。


「独り占めはいけませんよ、黒皇。お祖父さまに、梅雪メイシェさまのお怪我を診ていただかないと。ね?」


 紫水晶の瞳で、五音はたしなめる。

 しばしの沈黙をはさんで、黒皇は無言で腕の力をゆるめた。そうして差し出された早梅を、今度は五音が抱く。にっこりと、いつもの糸目で笑いながら。


「はい、よくできました」

「えーと、五音さま……」


 満足げな五音だが、早梅としては、黒皇が五音に変わっただけだ。姫のごとく横抱きにされている現状は、なんら変わりない。


梅梅メイメイ、怪我してんのか!? そりゃあ大変だ! 待ってろ、おじいちゃんが治してやるからなー!」


 一心から状況の説明を受けたらしい晴風が、そう声を張り上げたかと思うと、あわただしく船室へ消えていく。


「なんか、さわがしい父上みたいなのがいる……」

「あ……あはは」


 そういえば紫月ズーユェは、晴風とは初対面だったか。


フォンおじいさまは、私たちのご先祖さまです」

「なるほどな──って納得するわけがあるか」

「ですよねぇ」


 晴風が何者かを説明するには、仙人やらお空の上のことにまで、言及しなければならない。

 賢い紫月はうまく状況を把握してくれるだろうが、それゆえにいろいろと追及されそうな気がして、早梅は遠い目をした。

「ちょっと見ない間に、仙女になったんですよ、てへ」と早梅が笑って誤魔化したところで、誤魔化されてくれる紫月ではない。


「あんた、大丈夫なの!?」


 五音の腕の中で現実逃避に走ろうすれば、そんな早梅のもとへ、ひとりの少女が血相を変えて駆け寄ってくる。

 フー族の少女、凜花リンファだ。肩を血に染めている早梅を目にし、顔面蒼白になっている。


「あぁ。ちょっと凶暴なわんちゃんに噛みつかれたけど、大丈夫だよ。それより、萌萌モンモンは? お兄さんを連れ帰ってきたよ」

「あんたはもう……なんでそう、ひとのことばっかり……ばかじゃないの」


 凜花がうつむいている。

 早梅たちが何を言おうと感情を乱さず、虚ろな表情だった凜花が、肩を震わせている。


「梅雪が言い出したら聞かないのはむかしからなので、諦めてください、虎族のお嬢さん」


 しゃらん。

 宝玉がこすれ合うふいの音色と、人の気配に、早梅は振り返る。

 船のへりに、微笑を浮かべた憂炎がたたずんでいた。


「憂炎」

「見届けてきました。立派な最期でしたよ。陳仙海……人間ながら、尊敬に値する人物です」

「……そうか」


 早梅へすらすら言葉を返した憂炎は、とっ、と危うげなく甲板へ降り立つ。


 カンカンカン! とけたたましい鐘の音がひびき渡ったのは、そのときだ。


「煙が出ている……火事だ!」

「待て、あれは陳太守のご邸宅の方角じゃないか?」

「急げ、急げ!」


 祭りににぎわっていた街は、またたく間に騒然とする。

 早梅は瑠璃の瞳を細め、煌々と炎の上がる方角を、見つめていた。


「ほんとうに……やってのけたのね」


 噛みしめるように、凜花がつぶやく。


「すごいなんてもんじゃないわ……梅雪」


 鈍色にびいろの凜花の瞳に、じわりと涙が浮かぶ。


「わたしたちは、自由なんだ……!」


 すがるように早梅の手を取り、凜花は嗚咽をもらした。

 ありがとう、と、しきりに繰り返しながら。


 すすり泣く凜花。

 凜花の頭をなでる早梅。

 それは、人と獣人が、手と手を取り合った瞬間だった。


ルオ皇室──太陽を射落とした伝説の一族、か」


 寄り添う早梅たちからふと視線をはずした憂炎は、今一度、赤に染まる街並みを見やった。


「次に撃ち落とされるのは、その栄華かもしれませんね」


 季節が移り変わるように、すべては移ろう。

 そして生あるものには、必ず終わりがある。


 甲板の片隅で息を殺していた蒼雲ツァンユンが、緋色の瞳に、燃える街を映し出した。


「……飛龍フェイロン……私は、おまえを……」


 蒼雲がつぶやいた言葉は、波音に消えゆく。



 夜が更け、やがて朝がやってくる。

 陽は、必ず昇るのだ。

 それを知ることができるのは、空を見上げた者だけ。


「いっしょに行こう、凜花」

「……うん」


 さぁ、うずくまっていないで、起き上がろう。

 絶望を乗り越えた先に、光はあるのだから。

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