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第233話 魂をかけて守るべきもの【後】

 長い長い沈黙の中、ぱちぱちと、炎の燻る音だけが響く。


「『白姫パイヂェン』……戻って」


 月の浮かぶ夜空を見上げ、深く息を吐き出した早梅はやめは、二連の指輪を左手の中指へおさめると、静かに歩み出した。

 蓮がたゆたう水面近くの岸辺では、空鼠そらねず色の毛並みをした一頭の狼が、倒れていた。

 これが、シュンの本来の姿。人の姿を保てなくなっているということは、彼に余力は残されていないことのあかしだ。


明林ミンリン……」


 迅の手前には、明林が倒れていた。

 血功けっこうの支配がとかれ、そのからだは、地面へ投げ出されている。


「ごめんなさい、梅雪メイシェお嬢さま……自分じゃもう、動けないんです」

「謝るな」


 今の明林は、蠱毒によって薬漬けにされ、無理やり腐敗を止められている状態。

 主である迅の支配がなくなれば、すぐに物言わぬ亡骸へと戻るだろう。


「梅雪お嬢さま……わたし、あなたのお役に、立てましたか……?」


 強ばる唇を動かして、明林は早梅へ問う。


「当たり前じゃないか……!」


 たまらず両ひざをついた早梅は、仰向けに倒れた明林の背を両腕ですくい上げる。


「明林は臆病者なんかじゃない。私のために闘ってくれた、強いひとだ。ありがとう、明林……ありがとう……!」

「そう……そう、ですか…………よかった」


 噛みしめるようにつぶやいた明林の声が、震える。


「わたし……今このときが、一番、しあわせだわ……死んでいてもしあわせだと思えるなんて、不思議なものですよね」


 痩けた土色のほほにえくぼを刻んで、明林は笑った。


「梅雪お嬢さま……敬愛するあなたを置いて先に朽ちることを、どうか、おゆるしください」


 別れの時は、すぐそこまで迫っている。

 早梅は唇を噛みしめ、きつく、明林を抱きしめた。


「願わくば……梅雪お嬢さまの生涯が、しあわせなものでありますように。さよゥ、なら……おジョウ、さマ…………アリガ、トウ……」


 きゅっと早梅の淡色の袖を握り返したのち、明林は、沈黙する。

 だらりと脱力した明林の亡骸をしばし抱きすくめていた早梅は、嗚咽を堪えながら、一心イーシンを見上げた。


「一心さま……明林を、連れ帰ってもいいですか」

「えぇ、もちろん」


 間を置かず、一心はうなずいてみせる。


「丁重に、埋葬いたしましょう。今度は誰にも暴かれることなく、安らかに眠れるように」

「ありがとうございます……帰ろっか、明林」


 涙を袖でぬぐい、早梅は明林へ笑いかける。

 脅かすものはもう何もないのだと、信じて。


 そして立ち上がろうとしたとき、早梅は頭上に飛びかかる影を、目の当たりにした。


「梅雪お嬢さま!」

「来るな黒皇ヘイファンッ!」


 真っ先に黒皇が駆け寄ろうとするも、早梅がそれをさせない。

 黒皇にとって、早梅の言葉は絶対である。

 躊躇してしまった一瞬の後に、黒皇は衝撃的な光景を目にした。

 空鼠色の毛並みを逆立てた狼が、早梅に襲いかかる光景だ。


「うぁあっ……!」


 強烈な痛みに、早梅はうめき声を上げる。

 早梅にのしかかった狼が、右肩に噛みついているのだ。


「迅、貴様……自分が何をしているのか、わかっているのか!」


 頭を掴み、力任せに引き剥がすものの、狼はぺろりと、舌なめずりをするだけ。


「当然だろ。あんたが欲しい。これはもう本能なんだよ。あんたは俺のつがいだ、俺のものだ! 俺のことしか考えられなくなるようにしてやりたい! あぁ、梅雪……梅雪梅雪梅雪、俺の梅雪! 愛してるっ!」


 身をよじる早梅を押さえつけた迅が、絶叫する。

 直後、狼の鋭い牙が、ふたたび早梅の右肩を貫く。

 ずぷずぷと、楔を打ち込むように。


「やめ……っい、ぁあああっ!」


 先ほどとは比べものにならない激痛が、早梅を襲う。

 ちかちかと、視界が明滅するほどの痛みだった。

 次いで、傷口からじんと熱が広がる。

灼毒しゃくどく』が、回り始めたのだろう。


(頭が、クラクラする……くそっ!)


 黒皇が、何かを叫んでいる。

 でも、だめだ。ここに来てはいけない。迅に噛みつかれたら、ひとたまりもないのだ。

 だから早梅は、来るなと、ひたすらにかぶりを振る。


「ふざけた真似もいい加減にしてくださいよ……この発情犬が!」


 ぶわりと、殺気をふくれ上がらせる憂炎。

 今に迅へ襲いかかる寸前の憂炎の名を、はじかれたようにシアンが叫ぶ。


「お待ちください、憂炎さまっ!」

「なにを──!」


 苛立ちを募らせた憂炎が爽を振り返ろうとした、そのときだった。


 ヒュッ──パァンッ!


 何かが憂炎の目の前をかすめたかと思えば、けたたましい破裂音が。


「なっ……」


 憂炎が気づいたときには、吹き飛ばされた狼が、地面へ叩きつけられていた。


「梅雪お嬢さま!」

「あぁ、黒皇……私は『灼毒』に耐性があるから、大丈夫だよ」

「何をおっしゃいます! 手当てをいたしますので、安静になさってください」


 噛まれた傷口は深い。血相を変えて駆け寄ってきた黒皇が、早梅の右肩に染みをつくる出血場所を圧迫し、止血をほどこす。


 早梅なら、黒皇に任せておけば問題ないだろう。むしろ過保護なあの烏のことだ、憂炎が処置を申し出たところで、自分がやると言って譲らないはずだ。


「耐性があるといっても、『灼毒』の作用でつらいはずです。こんなところからさっさとおさらばして、お祖父さまに診ていただきましょう……と、言いたいところなのですが」


 憂炎は柘榴色の瞳を細め、地面に横たわる狼を見やった。

 迅はぴくりとも動かない。完全に意識を失っている。そして迅のそばには、一本の矢の残骸が散乱していた。


「矢じりが、粉々に砕け散っている……内功の残り香があるということは、矢じりに込めた内功を、瞬間的に爆発させたというわけですか」


 だが、なぜ?

 爆風で吹き飛ばすより、鋭利な矢じりで貫いたほうが、殺傷能力は高いはずだ。

 憂炎はすぐさま、周囲へ視線を走らせる。


「そこですね。出てきなさい」

「憂炎……?」


 黒皇の手を借りて上体を起こしながら、早梅は重いまぶたを持ち上げる。

 長い沈黙があって、舞台の裏、石灯篭の影から、弓を手にした人物が現れた。


「あなたは……!」


 その人物に、早梅は見覚えがあった。

 右足を引きずりながら、ひどくゆっくりと歩み寄る老人といえば、早梅の記憶の中に、たったひとりしかいない。


 この場にいる全員の視線を一身に受けた老人は、早梅たちのそばへやってくると、深々と頭を垂れた。


ルオ暗珠アンジュ皇子殿下、そしてザオ梅雪メイシェさまをはじめとした皆々様へ、ごあいさつを申し上げます」


 間違いない。祭りへ参加できない腹いせに、警備兵からいわれのない折檻せっかんを受けていた老人だった。


「あなたは……何者なのですか?」

「ごらんのとおり、名乗るほどの価値もない、下男でございます」


 そうだろうか。ただの下男が、獰猛な狼を一射で仕留めるとは思えない。

 それに老人は、粗末な身なりのわりに、言動が洗練されているようだと、早梅には思えた。


「私はただ、助けていただいたご恩を、お返しにまいりました。それだけなのです」

「ふふっ……」

「……何かおかしなことでも、申しましたでしょうか」

「だって、荒くれ者を追い払ったお返しに、命懸けで助けにきてくださるなんて、あまりにも割に合わないもので」


 老人には、何か別の目的がある。

 なんとなく、早梅にはそう思えた。


「お顔を、見せていただけますか」


 早梅が語りかけると、すこしの沈黙を挟んで、老人が顔を上げる。


(あぁ、やっぱり……見えているのに、見えない)


 じっと老人を見つめる早梅だけれども、正体不明の違和感がまとわりつく。

 まばたきをするたびに、老人の顔立ちが、微妙に違って見えるのだ。

 まるで、百の仮面を瞬時に付け替える芸でも、披露されているかのように。


 そしてやはり。老人を前にした早梅のふところで、黒慧ヘイフゥイの手鏡が熱を持ち始める。


(たしか、五色の宝玉に瓏池ろうちの霊力が宿っているから、邪悪なものは近づけさせないって、黒慧は言っていたけど)


 老人を邪悪なものとして片付けてしまうのは、違うのではないだろうか。

 なぜなら、老人から悪意は感じられない……むしろ、労るようなまなざしを、早梅は感じ取ったからだ。


 果たして、彼は敵か、味方か。


「神聖なる鏡よ──『真実』を、映し出して」


 そうして早梅が満月型の手鏡を、老人へ向けた刹那。


「うくっ……!」


 まばゆい光に包まれた老人が、袖で顔を覆う。

 やがて光が消え去ったとき、早梅の目前にいたのは、老人ではなかった。


 白髪ではなく、漆黒の髪。

 袖から覗く手も、しわのない、若者特有のハリのある肌で。


「やっぱり。術で、素顔を隠していらしたのですね。あなたは、誰ですか?」

「……それは、訊かれないほうがよろしいかと」

「どういう意味でしょうか?」

「きっと、ご気分を害してしまわれます……」


 弱々しい声も、若い青年のものだ。

 早梅はその声を、どこかで聞いたことがあるような気がした。それはいったい、どこだったのか──


「あぁもう、女々しいですね。梅雪が誰だか訊いているのだから、つべこべ言わずに答えなさい」

「あっ……」


 痺れを切らした憂炎が、顔を隠している青年の手首をさらう。


「なっ……」


 そして、誰もが言葉を失った。


 漆黒の髪を持つ青年の瞳は、あざやかな緋色。

 そしてその面影は、まさに。


「そんな……父、上?」


 ──ルオ飛龍フェイロン、そのものだった。


 呆然と言葉をもらした暗珠に、青年は緋色の視線を伏せ、かぶりを振る。


「いいえ。私は羅飛龍ではありません。私は……私はかつて、ルオ蒼雲ツァンユンと呼ばれていました」


 時の皇帝と瓜ふたつである理由。そんなこと、深く考えるまでもないだろう。


「私は……皇室の記録からも抹消された、忌み子。飛龍の、双子の兄です」


 にわかには信じがたいはずなのに。

 飛龍とは正反対の、物憂げな表情が、彼らが別人であることを、早梅に知らしめた。

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