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第232話 魂をかけて守るべきもの【前】

 蓮池の岸辺一帯が、ゴウゴウと音を立てて、燃えて、燃えて、燃えている。ものすごく。


「あわわ……やりすぎちゃった? 力加減が、難しいです……どうしましょう、梅雪メイシェさま~!」

「あはは……さすがだねぇ」


 半泣きになりながら、黒慧ヘイフゥイが抱きついてくる。早梅はやめは苦笑いをもらし、黒慧の頭をなでるしかない。


「なんですか、あの内功……ふざけてません?」

小慧シャオフゥイは、いたって真面目です。私が育てましたから。素直な、いいこです」

「そういうこと、素で言っちゃうんです……?」


 大真面目に返す黒皇ヘイファンに、憂炎ユーエンはすこしというか、かなり引いていた。

 とはいえ、黒慧の操る陽功ようこうは、太陽の力。自然の摂理に勝てる者が、果たしているだろうか。いやいない。


「梅雪さまがご無事で、よかったです~! ファン兄上も、おひさしぶりです! フゥイはこのとおり、元気で……んっ? えっ?」


 黒皇へ視線を向けたとき、黒慧は気づいてしまった。黒皇の肩の向こうに、シアンの姿があることに。


「そこにいるのは……ジュン兄上!? なんで!? えぇえっ!?」

「あぁ……信じられないかもしれないけど、生きてるよ。大きくなったね……小慧」

「ふぇえっ、俊あ~に~う~え~っ!」

「おっと! 泣き虫は変わらないな、まったく……」


 いきなり飛びついてきて、ぐすぐすと泣き始めた黒慧を抱きとめた爽だが、夜色の瞳は潤んでいる。

 とんとん、と黒慧の背を叩いてなだめる慈愛に満ちた表情は、『兄』そのものだった。


「うぅ……ぐすっ……申し遅れました……黒皇と黒俊ヘイジュンの弟の、フオ黒慧ヘイフゥイと申します……お見知りおきおねがいしますぅ……」


 いろいろと急展開だが、混乱しながらもあいさつを忘れない限り、黒慧の育ちの良さがにじみ出る。さすが、黒皇が育てただけはある。

 そうこうしているうちに、ほほ笑ましく見守る早梅の頭をぶん殴るような衝撃のひと言を、憂炎がにこやかに放つ。


「ご丁寧にどうも。梅雪の婚約者の、憂炎と申します」

「婚約者ですって!? 僕のつがいになってくださるお話は、どうなったのですか、梅雪さま!」

「あーっ! そこまで! そこまでにしとこうね、黒慧!」

「なぜですか! 僕には、責任を取らせていただく必要が、むぐぅっ」


 憂炎は確信犯だが、黒慧のそれは無自覚であるのが、恐ろしいところ。

 とんでもないことを口走る黒慧を黙らせたが、口をふさいだところで手遅れであることを、早梅は悟る。

 にっこりと笑みを浮かべた憂炎やら紫月ズーユェやら一心イーシンマオ族が、怖すぎて。


「あのっ、誤解なんです」

「警戒心がなさすぎるのも、考えものだなぁ。あとで覚悟しとけよ、梅雪」

「ひぃぃ……」


 中でも紫月が、別次元のレベルで恐ろしかった。

 早梅の涙は、ちょちょ切れそうだった。


「はっ!」


 とここで、黒慧がはじかれたように顔を上げる。

 かと思えば、申し訳なさそうに腰を折った。


「ごめんなさい! もう時間みたいです……」

「黒慧? どうしたの?」

「えっとですね、ここにいる僕は、本当の僕ではなくてですね、手鏡に込めた陽功をもとに顕現けんげんしている、言わば僕の分身なんです。僕は、下界へ降り立つことを、禁じられていますから……」


 考えてみれば、至極当然のことだった。

 太陽そのものである黒慧は、強大な陽功を持つ。それゆえに、下界、つまり央原おうげんへ及ぼす影響も大きい。


「ですから、手鏡を通して僕が発揮できる陽功にも、制限があるんです」

「制限があって、アレですか……つくづく、ぶっ飛んでますね」


 憂炎が失笑しているが、早梅としては、「神さまだからね」としか言いようがない。


「そういうわけで、手鏡に込めた陽功が尽きてしまうと、僕も顕現を保てなくなってしまう、ということでして……」


 体感的に、三分ほどだったろうか。

 透けかけている黒慧の手を握り、早梅は問う。


「もう、会えないの?」


 かぁっとほほを朱に染めた黒慧が、ぶんぶんと首を横に振る。


「いいえ! 陽功をまた集めていただければ、大丈夫です! 日中に空へ向かって手鏡をかざしてくだされば、季節やお天気にもよりますが、ひと月からふた月で、陽功が集まります!」

「そっか、安心したよ」

「よかったです! そうだ! 陽功の量に関係なく、手鏡に向かって僕の名前を呼んでくだされば、瓏池ろうちが映し出されますからね! 金王母こんおうぼさまや玄鳥元君げんちょうげんくんも、梅雪さまとお会いしたがっていましたから、お気軽にぜひ!」


 はつらつと声を上げる黒慧の姿が、徐々に薄れてゆく。


「あぁっ、まだまだお話ししたいことが、いっぱいあるのに! えっと、えっと、黒慧はいつでも、梅雪さまたちを見守っていますからね! いつか金玲山こんれいざんにも、帰ってきてくださいね! 約束ですよっ!」


 屈託のないまばゆい笑顔を残し、黒慧は、夜闇に消えていった。


「小慧……」


 名残惜しげに、爽がつぶやく。

 爽の肩を抱き、黒皇も、静かに空を見上げていた。


「さてと。黒慧くんのおかげで、ほとんど燃やされちゃったね。残るは、あと……」


 早梅は気を引きしめ、燃えさかる炎へ目を向ける。

 そして、思考停止した。


 猛烈な黄金の炎の中から、よろよろと抜け出してきた二体の傀儡。そのうち一体は、焦げた朱色の衣をまとっており、もう一体は……


「……そんな」


 思わず、早梅は手のひらで口もとを覆う。

 見まごうはずもない。

 残る一体の傀儡。小柄な女性。早梅は、『彼女』がえくぼの似合うやさしいひとであったことを、知っていた。


「おやおや……その傀儡がお気に召したか? 梅雪お嬢さま」


 炎の中から、男がひとり、姿を現す。

 シュンだ。お得意の内功で防御したようだが、黒慧の陽功を相殺しきれなかったようだ。だらりと垂れた右腕は、重度の熱傷を負っていた。


「その腕、使い物にならんだろう。糸を操れなきゃ、傀儡師も大したことはないな」

「──てめぇに発言は求めちゃいないんだよ。黙れよ」


 早梅たちを飄々ひょうひょうと翻弄していた迅が、紫月へ噛みついているところを見ると、余裕がないのだろう。

 右腕を押さえた迅は、は、は、と肩で息をしている。呼吸がととのわないのは、内功が枯渇している証拠だ。


 窮地に陥っていることは違いないはずだが、迅は笑みに顔を歪め、早梅へ向き直った。

 漆黒と翡翠の瞳は、どろりとした欲で、ぎらついている。


「『そいつ』は、二年前に拾った人形だ。蠱毒の実験台程度にしか思っちゃいなかったが、梅雪お嬢さまのお気に召したなら、掘り出し物だったなぁ」


 ククッと、のどの奥で笑う迅。その前にたたずんでいた傀儡は、見間違いようもなく。


「……明林ミンリン


 早梅が声に出したとき、ふと、傀儡が顔を持ち上げた。

 目玉のあるべき場所に、ぽっかりと、ふたつの空洞があいていた。

 黙りこくる早梅に、何を勘違いしたのか。迅は愉快そうに笑う。


「親しいやつが俺の人形にされた心境は、どうだ? 悲しいか? 泣きたくてたまらないだろう? なぁ梅雪お嬢さま、うつむいてないで、可愛い顔を見せてくれよ!」

「──黙れ」


 つくづく、勘違いも甚だしい。

 早梅は、絶望に打ちひしがれているのではない。

 言葉にできない怒りに、打ち震えていたのだ。


「──これ以上、死者を愚弄するな」

「ッ……!」


 そのとき、その瞬間、迅は腹の底から凍えるような『何か』を感じた。


「あぁ……怒った顔も、イイなぁ……あんたが俺だけを見てるなんて、ゾクゾクするっ……! 早く……早くこっちに来い、この腕で、抱きしめさせてくれっ!」


 早梅へ左腕を伸ばしながら、迅はわらっていた。

 ほほを紅潮させ、命のやり取りを楽しんでいた。

 正気の沙汰では、ない。


「明林……待っていて。私が、助けるから」


 早梅がうわごとのようにつぶやいたときだ。

 ふるふる、と。

 傀儡が、かぶりを振った。


「……え?」


 気のせいかと思った。


「……ジョウ…………マ……」


 けれど、明林の姿をした傀儡は、ゆっくりと、首を横に振っていた。


「オジョウ、サマ……ワタシ、ハ……ダイ、ジョウ、ブ……」


 目玉のない彼女に、早梅は見えていないだろう。

 だが、早梅の声を聞き、朽ちたのどを震わせて、言葉を紡ごうとしていた。


「ワタ、シ……わたシ、は、もゥ、間違えナイわ……っ!」


 わっと声を張り上げた傀儡が、身をおどらせる。

 そして迅へ、掴みかかった。


「この女っ……!」

「イヤ! 離サないッ!」


 迅が頭をわし掴み、引き剥がそうとするも、傀儡はかたくなにしがみつき、離れようとはしない。


 ……傀儡?

 いや。彼女は人形などではない。


 明林という、ひとりの人間だ。


「命を奪われたとしても、わたしの魂までは、思いどおりにはさせない!」


 ──だれも、すくえないの。

 ──おくびょうで、やくたたずの、わたしなんかじゃ。


 彼女はもう、そうして悲観していたときの彼女とは、違う。


「この魂をかけて、梅雪お嬢さまは、わたしが守るわ!」


 死者に感情はないと、誰が決めたのだろう。

 彼女の魂は、こんなにも、早梅の心を震わせるのに。


「明林……ありがとう」


 早梅の胸に、熱がこみ上げる。

 道は、定まった。


 証明してみせよう。

 弱き者も、誰かのために、強くなれることを。


の章」


 ヒュルリと冷たい風が渦巻き、あおい梅花でいろどられた白琵琶が、姿を現す。

 早梅は白琵琶を左腕に抱き、右の義甲ゆびで、四本の弦を同時にかき鳴らす。


「舞い狂え──『音吹雪おとふぶき』」


 ──ベベン!


 琵琶の音が、凍てつく風をまとい、解き放たれる。

 明林に羽交い締めにされ、絡まる血の糸から抜け出せずにいる迅には、なすすべもなく。


「これで……終わりだ」


 早梅が見据える目前で、迅は凍てつく風に、左肩を撃ち抜かれた。

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