蓮池の岸辺一帯が、ゴウゴウと音を立てて、燃えて、燃えて、燃えている。ものすごく。
「あわわ……やりすぎちゃった? 力加減が、難しいです……どうしましょう、
「あはは……さすがだねぇ」
半泣きになりながら、
「なんですか、あの内功……ふざけてません?」
「
「そういうこと、素で言っちゃうんです……?」
大真面目に返す
とはいえ、黒慧の操る
「梅雪さまがご無事で、よかったです~!
黒皇へ視線を向けたとき、黒慧は気づいてしまった。黒皇の肩の向こうに、
「そこにいるのは……
「あぁ……信じられないかもしれないけど、生きてるよ。大きくなったね……小慧」
「ふぇえっ、俊あ~に~う~え~っ!」
「おっと! 泣き虫は変わらないな、まったく……」
いきなり飛びついてきて、ぐすぐすと泣き始めた黒慧を抱きとめた爽だが、夜色の瞳は潤んでいる。
とんとん、と黒慧の背を叩いてなだめる慈愛に満ちた表情は、『兄』そのものだった。
「うぅ……ぐすっ……申し遅れました……黒皇と
いろいろと急展開だが、混乱しながらもあいさつを忘れない限り、黒慧の育ちの良さがにじみ出る。さすが、黒皇が育てただけはある。
そうこうしているうちに、ほほ笑ましく見守る早梅の頭をぶん殴るような衝撃のひと言を、憂炎がにこやかに放つ。
「ご丁寧にどうも。梅雪の婚約者の、憂炎と申します」
「婚約者ですって!? 僕のつがいになってくださるお話は、どうなったのですか、梅雪さま!」
「あーっ! そこまで! そこまでにしとこうね、黒慧!」
「なぜですか! 僕には、責任を取らせていただく必要が、むぐぅっ」
憂炎は確信犯だが、黒慧のそれは無自覚であるのが、恐ろしいところ。
とんでもないことを口走る黒慧を黙らせたが、口をふさいだところで手遅れであることを、早梅は悟る。
にっこりと笑みを浮かべた憂炎やら
「あのっ、誤解なんです」
「警戒心がなさすぎるのも、考えものだなぁ。あとで覚悟しとけよ、梅雪」
「ひぃぃ……」
中でも紫月が、別次元のレベルで恐ろしかった。
早梅の涙は、ちょちょ切れそうだった。
「はっ!」
とここで、黒慧がはじかれたように顔を上げる。
かと思えば、申し訳なさそうに腰を折った。
「ごめんなさい! もう時間みたいです……」
「黒慧? どうしたの?」
「えっとですね、ここにいる僕は、本当の僕ではなくてですね、手鏡に込めた陽功をもとに
考えてみれば、至極当然のことだった。
太陽そのものである黒慧は、強大な陽功を持つ。それゆえに、下界、つまり
「ですから、手鏡を通して僕が発揮できる陽功にも、制限があるんです」
「制限があって、アレですか……つくづく、ぶっ飛んでますね」
憂炎が失笑しているが、早梅としては、「神さまだからね」としか言いようがない。
「そういうわけで、手鏡に込めた陽功が尽きてしまうと、僕も顕現を保てなくなってしまう、ということでして……」
体感的に、三分ほどだったろうか。
透けかけている黒慧の手を握り、早梅は問う。
「もう、会えないの?」
かぁっとほほを朱に染めた黒慧が、ぶんぶんと首を横に振る。
「いいえ! 陽功をまた集めていただければ、大丈夫です! 日中に空へ向かって手鏡をかざしてくだされば、季節やお天気にもよりますが、ひと月からふた月で、陽功が集まります!」
「そっか、安心したよ」
「よかったです! そうだ! 陽功の量に関係なく、手鏡に向かって僕の名前を呼んでくだされば、
はつらつと声を上げる黒慧の姿が、徐々に薄れてゆく。
「あぁっ、まだまだお話ししたいことが、いっぱいあるのに! えっと、えっと、黒慧はいつでも、梅雪さまたちを見守っていますからね! いつか
屈託のないまばゆい笑顔を残し、黒慧は、夜闇に消えていった。
「小慧……」
名残惜しげに、爽がつぶやく。
爽の肩を抱き、黒皇も、静かに空を見上げていた。
「さてと。黒慧くんのおかげで、ほとんど燃やされちゃったね。残るは、あと……」
早梅は気を引きしめ、燃えさかる炎へ目を向ける。
そして、思考停止した。
猛烈な黄金の炎の中から、よろよろと抜け出してきた二体の傀儡。そのうち一体は、焦げた朱色の衣をまとっており、もう一体は……
「……そんな」
思わず、早梅は手のひらで口もとを覆う。
見まごうはずもない。
残る一体の傀儡。小柄な女性。早梅は、『彼女』がえくぼの似合うやさしいひとであったことを、知っていた。
「おやおや……その傀儡がお気に召したか? 梅雪お嬢さま」
炎の中から、男がひとり、姿を現す。
「その腕、使い物にならんだろう。糸を操れなきゃ、傀儡師も大したことはないな」
「──てめぇに発言は求めちゃいないんだよ。黙れよ」
早梅たちを
右腕を押さえた迅は、は、は、と肩で息をしている。呼吸がととのわないのは、内功が枯渇している証拠だ。
窮地に陥っていることは違いないはずだが、迅は笑みに顔を歪め、早梅へ向き直った。
漆黒と翡翠の瞳は、どろりとした欲で、ぎらついている。
「『そいつ』は、二年前に拾った人形だ。蠱毒の実験台程度にしか思っちゃいなかったが、梅雪お嬢さまのお気に召したなら、掘り出し物だったなぁ」
ククッと、のどの奥で笑う迅。その前にたたずんでいた傀儡は、見間違いようもなく。
「……
早梅が声に出したとき、ふと、傀儡が顔を持ち上げた。
目玉のあるべき場所に、ぽっかりと、ふたつの空洞があいていた。
黙りこくる早梅に、何を勘違いしたのか。迅は愉快そうに笑う。
「親しいやつが俺の人形にされた心境は、どうだ? 悲しいか? 泣きたくてたまらないだろう? なぁ梅雪お嬢さま、うつむいてないで、可愛い顔を見せてくれよ!」
「──黙れ」
つくづく、勘違いも甚だしい。
早梅は、絶望に打ちひしがれているのではない。
言葉にできない怒りに、打ち震えていたのだ。
「──これ以上、死者を愚弄するな」
「ッ……!」
そのとき、その瞬間、迅は腹の底から凍えるような『何か』を感じた。
「あぁ……怒った顔も、イイなぁ……あんたが俺だけを見てるなんて、ゾクゾクするっ……! 早く……早くこっちに来い、この腕で、抱きしめさせてくれっ!」
早梅へ左腕を伸ばしながら、迅はわらっていた。
ほほを紅潮させ、命のやり取りを楽しんでいた。
正気の沙汰では、ない。
「明林……待っていて。私が、助けるから」
早梅がうわごとのようにつぶやいたときだ。
ふるふる、と。
傀儡が、かぶりを振った。
「……え?」
気のせいかと思った。
「……ジョウ…………マ……」
けれど、明林の姿をした傀儡は、ゆっくりと、首を横に振っていた。
「オジョウ、サマ……ワタシ、ハ……ダイ、ジョウ、ブ……」
目玉のない彼女に、早梅は見えていないだろう。
だが、早梅の声を聞き、朽ちたのどを震わせて、言葉を紡ごうとしていた。
「ワタ、シ……わたシ、は、もゥ、間違えナイわ……っ!」
わっと声を張り上げた傀儡が、身をおどらせる。
そして迅へ、掴みかかった。
「この女っ……!」
「イヤ! 離サないッ!」
迅が頭をわし掴み、引き剥がそうとするも、傀儡はかたくなにしがみつき、離れようとはしない。
……傀儡?
いや。彼女は人形などではない。
明林という、ひとりの人間だ。
「命を奪われたとしても、わたしの魂までは、思いどおりにはさせない!」
──だれも、すくえないの。
──おくびょうで、やくたたずの、わたしなんかじゃ。
彼女はもう、そうして悲観していたときの彼女とは、違う。
「この魂をかけて、梅雪お嬢さまは、わたしが守るわ!」
死者に感情はないと、誰が決めたのだろう。
彼女の魂は、こんなにも、早梅の心を震わせるのに。
「明林……ありがとう」
早梅の胸に、熱がこみ上げる。
道は、定まった。
証明してみせよう。
弱き者も、誰かのために、強くなれることを。
「
ヒュルリと冷たい風が渦巻き、
早梅は白琵琶を左腕に抱き、右の
「舞い狂え──『
──ベベン!
琵琶の音が、凍てつく風をまとい、解き放たれる。
明林に羽交い締めにされ、絡まる血の糸から抜け出せずにいる迅には、なすすべもなく。
「これで……終わりだ」
早梅が見据える目前で、迅は凍てつく風に、左肩を撃ち抜かれた。