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第231話 空を見上げて【後】

「生きるために、選択肢なんかなかった。そうするしかなかった。わかるよ。俺も、同じだったから」


 姉妹がそろって、こわごわと視線をずらす。

 すると、そばに膝をついたシアンが、同じ目線まで屈んでくれていることがわかった。


「人を殺めるのは、とても正気ではできないことだ。生きるために、心を殺してきたんだろう」


 優しすぎるほどの声音に、姉妹がうつむく。

 ちいさく、か細い肩は、小刻みに震えていた。


「……お父さんも、お母さんも、殺されちゃった……」

「わたしたちは弱いから、冥帝ミンディ冥王ミンワンが、守ってくれたの……ずっといっしょにいてくれた、わたしたちの、お友だち……」

「でも、わたしたちにもできることがあるって、だれかの役に立てるって、おにいちゃんが、言ってたから……ううん、ちがう」

「なんにも考えないで……なんにも考えないようにしてた、わたしたちが、悪いです」

「わたしたちが、弱いのが、悪いです……」

「弱いのは、悪いことじゃない」


 断言する爽。姉妹が、はっとしたように顔を上げた。


「大事なのは、これからどうするかだ。過ちを知ったなら、変われる。変わるために何ができるかを考えるだけで、弱い自分から一歩抜け出して、前に進める」


 爽が両腕を伸ばす。びくりと肩を跳ねさせる姉妹だが、逃げるそぶりはない。


「ねぇ、知ってる? どんな雨でも、雪の日でも、雲の上には、おひさまがいるんだよ。でも、空を見上げなきゃ、おひさまには会えない」


 魅入られたように、よっつの黒い瞳が、爽へ釘付けになる。


「このままうずくまっているか。それとも、おひさまに向かって手を伸ばすのか。きみたちは、どうしたい?」


 爽は静かに、語りかける。

 罪は消えなくても、償うことはできるはずだと。

 おのれの意思を声にすることを、選択する自由を、提示してみせる。

 選ぶのは、あくまで、彼女たち自身。


「……ごめん、なさい」


 やっと紡がれた言葉は、消え入りそうなほど、弱々しかった。

 だが、かぶりを振った姉は、もう一度、声を絞り出す。


「ごめんなさい……わたしたち、間違えました。いっぱい、いっぱい……!」

「いろんなひとに、ひどいこと、いっぱいしました……ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」


 妹も、嗚咽をもらしながら、声を張り上げる。


「でも、いつもこわがって、おびえるだけなのは、もうやだ……!」

「わたしたちも、つよく、なりたい……かわりたい!」


 姉妹は、差し伸べられた爽の手を取り、自分の意思を叫んだ。


「そうか」


 爽は姉妹の言葉を噛みしめるように、ゆっくりとうなずく。そして、姉妹の手を力強く握り返すとともに、ぐっと腕を引いた。

 引き寄せられた姉と妹が、爽の右肩と左肩に、もたれ込んだ。


「自分たちの力で、殻をやぶったんだな。よくがんばった。大丈夫、きみたちは、強くなれる」


 ぽん、と頭に手を置いたかと思えば、やさしく、なでてきて。

 ひだまりのような爽のぬくもりに包まれた姉妹の瞳から、ぼろぼろと、涙があふれ出す。


「う……うぅ……」

「うぁ……うわぁああん!」


 すがりつき、泣きじゃくる姉妹を、爽はなでる。

 そこにもう、言葉などは必要なかった。

 抱きしめるぬくもりが、彼女たちを、もう孤独にはさせないのだから。


 ──ぱちぱち、と。


 穏やかな夜の静けさを、乾いた拍手が打ち壊す。


「はいはい、お涙頂戴のすばらしいお芝居を、ありがとさんってね。同じラン族だってのに、全然対応が違うじゃないか。おにーさん悲しくなっちゃうぞ、族長サマ?」

「気持ち悪いこと言わないでくれます? はなから反省する気のない下衆とあの子たちなら、あの子たちのほうがよっぽどえらいと思いますけど」

「へぇ、なんだかんだ、優しいんだな? ま、これで遠慮なく、その餓鬼どもも始末できるってわけだ」


 悪びれもせずそう言ってのけるシュンに、姉妹が身をこわばらせる。


「できるものなら、やってみろ」


 だが、すぐさま姉妹を背にかばった爽が、夜色の瞳で迅を射抜く。


「ハッ、威勢だけはいいことだな。それじゃあ、ご期待に応えようか」


 何かが、来る。『それ』はおそらく、今までとは比べものにならないほど凄まじい『脅威』だと、早梅はやめは直感した。

 なぜなら、迅の周囲に、濃密な内功が渦巻いているから。


血功けっこう──」


 早梅たちが態勢をととのえる隙を、迅は与えなかった。


「『死屍涙涙ししるいるい』」


 空高くへかざされた迅の両の手のひらから、血が弾け飛ぶ。

 それは無数の血の矢となって、雨のごとく降り注いだ。

 とっさに迎撃をこころみようとする早梅だが、それがまったく見当違いの行動であることを、その直後に思い知る。


 早梅たちを襲うものと思われた雨のごとき血の矢は、はるか遠く、人影のまるでない岸辺に降り注いだのだ。


「さぁ、お楽しみはこれからだ。さっさときろ、人形ども」


 血の矢が突き刺さった地面に、突如、何かが突き出す。


「……なんだ、あれは…………人の、手?」


 早梅の見間違いなどではなかった。まぎれもなく、人の手だった。


「……ウゥ…………ウァアアア…………!」


 うめき声とともに、地中から『それ』が姿を現す。

 土気色の肌に、落ちくぼんだ眼窩がんか襤褸ぼろをまとった、かろうじて人だと認識できるモノ。

 脳天や、背、胸に血の矢が突き刺さり、そこから伸びる糸によって四肢を操られた死者たちが、次々と立ち上がる。


「陛下に言われたとおり、死体をただ燃やすのも、もったいないと思ってたんだよなぁ。こういうこともあろうかと、埋めといて正解だったぜ。再利用、再利用っと」

「貴様は、どこまでひとの命を弄べば気がすむのか……っ!」


 事もなげに言ってのける迅に、早梅は腹の底から怒りがこみ上げるのを抑えられない。


「ざっと数えただけでも、百はいますね……それも、女性のご遺体が多いということは、やはり」


 一心イーシンはそこで言葉を止めた。あまりの嫌悪感に、吐き気を催したためだ。


「あれは……朱華ヂュファ!」


 そして、思わぬところから声が上げられる。

 チェン仙海シェンハイが血相を変え、死者の群れへ向かって駆け出したのだ。


「ちょっとおじさん! 危ないでしょ! おとなしくしててよ!」

「お離しください! あそこにいるのは、朱華……わが娘なのです! 離してください、どうか、娘のもとにゆかせてください!」


 陳仙海は、くすんだ朱色の襤褸をまとう傀儡くぐつへ向かって、手を伸ばしていた。

 今に舞台から飛び降りようとする陳仙海を、八藍バーランが押しとどめるも、陳仙海は明らかに取り乱しており、聞く耳を持たない。


「これはこれは、美しき家族愛だな。こっちに来たところで、何になる? 娘は死んでるのに?」

「朱華……どうして、なぜ……朱華……ぁあああ!!」


 心ない迅の言葉に、陳仙海は泣き崩れた。


「妙だな……死後数か月以上がたっている死体にしては、腐敗があまり進んでいない。何か、細工をしているな」

「……蠱毒だよ」


 紫月ズーユェの疑問に答えたのは、狼族の姉妹だった。


「臓物を取り出して骨と皮だけにして、蠱毒を煮詰めた毒液に全身をひたらせたら、死体も、腐らなくなるの」

「蠱毒の使い方は……わたしたちが、教えた」

「なるほどな」


 そうとだけ返す紫月。うつむいた姉妹が、ひざの上で握りしめたこぶしを、震わせる。


「わたしたちの、せいだ……」

「ごめん、なさい……」

んだろう。謝らなくていい」


 迅が姉妹に向かって「用済みだ」と言い放っていた意味を理解した爽は、すすり泣く姉妹の背をさする。


(目的のためならば、同族さえも利用する……迅は、そういう男なのだ)


 どこまでも救いようのない、冷酷非情な男。

 今さらながら、早梅は思い知る。


「迅」

「うん? なんだ、梅雪メイシェお嬢さま。俺と駆け落ちする気にでもなったかい?」


 早梅に名を呼ばれた迅は、見るからに上機嫌になる。この期に及んで、愉快な脳のつくりをしていることだ。


「貴様は、『悪なる者』だ。今宵、ここで、断罪せねばならない」

「……っくく、はははっ! 梅雪お嬢さまが直々にもてなしてくれるのか? 嬉しいねぇ!」


 からからと笑い飛ばす迅。

 馬鹿に、されている。

 か弱い女ごときに、何もできやしないのだと。


「百の死体どもを相手にしながら、あんたはどうやって俺を殺す? やってみせてくれないか、なぁ、梅雪お嬢さま!」


 これは、挑発だ。心を乱してはならない。

 冷静におのれを俯瞰ふかんすることで、不思議と、身を掻きむしりたくなるような嫌悪感から、解放される。

 しばし沈黙していた早梅の手に、そっとふれる手がある。


「梅雪お嬢さまは、お独りではありません。いつ何時も、それを忘れないでください」

黒皇ヘイファン……うん」


 私は、独りじゃない。だって、みんながいる。


 胸に手を当て、黒皇の言葉を繰り返すうちに、じんとからだがあたたかくなる──


「って、あちちちっ! あっっっつ!」


 比喩などではなかった。尋常でない熱を感じた早梅は、慌ててふところをさぐる。


「えっ、なになに……これって…………あっ」


 早梅が夢中で取り出したのは、満月型の手鏡だった。

 焼けるような熱を持った手鏡が、早梅の手を離れ、ふわりと宙へ浮く。


「宝玉が……」


 紅玉、黄玉、翡翠、瑠璃、紫水晶。

 手鏡に散りばめた宝玉の欠片が、きらきらと、五色の輝きを放っている。


 ──宝玉の霊力、それから、僕の力と想いを込めているので、離れていても、梅雪さまをお守りします。


 早梅に手鏡を贈った少年は、そう言って、はにかんでいたか。


 ──カッ!


 くるりと宙で回った手鏡が、迅へ向かって、輝きを放つ。


 黄金の光が、太陽のごときまばゆさで、夜を照らす。


 さやかなそよ風にほほをなでられた気がして、早梅はそっと、まぶたをひらいた。



「──罪深き者。金瓏聖母こんろうせいぼのお怒りにふれた、咎人よ」



 早梅は、瑠璃の瞳を極限まで見ひらいた。

 目前に、それまでなかったはずの人影を認めたためだ。

 いや、思わず息を飲んだのは、早梅だけではない。黒皇、そして、爽も。


「あなたが、梅雪さまに意地悪した、悪いひとですね?」


 漆黒の衣をまとい、濡れ羽色の髪をなびかせる少年が、そこにいる。

 少年が、髪と同じ濡れ羽色の翼で羽ばたくと──


「悪いやつは、お帰りくださーいっ!」


 ──ゴゥウッ!


 金色の炎が、燃え上がる。

 天にも届くのではないかという、すさまじい炎の柱が、早梅たちの視界を埋め尽くした。


「待って……?」


 早梅はわなわなと唇を震わせながら、頭を抱える。


 ──もし嫌いなやつがいたら、この鏡をかざしてください。燃やしますので!


「燃やすってそういうことなの、黒慧ヘイフゥイ!?」


 これには、さすがの早梅も絶句。


 現役バリバリの太陽さま、まさかのご登場である。

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