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第225話 地獄の果てより【中】

「もう、独りでがんばらなくていい……君は、独りぼっちじゃないんだから」


 早梅はやめ暗珠アンジュのほほを手のひらで包み込み、顔を近づける。

 そっぽを向き、かたくなに視線を合わせようとしなかった暗珠が、魅入られたように、早梅へ釘付けになった。


「……独りぼっちじゃ、ない?」

「うん。目の前に、私がいるじゃない」

「俺は……あなたが憎んでるひとの、血を引いてるのに……」

「生まれなんか関係ない。皇子である以前に、君は、羅暗珠ルオアンジュというひとりの人間だ。悪に抗う意思を、君自身が示したじゃないか」

「……こんな、かっこ悪い俺でも……あなたのそばにいて、いいのかなぁ……?」

「もちろん。君の迷いも全部受け止めるから、教えて。君の本当の気持ちを」

「──っ!」


 早梅を映した薔薇輝石の瞳が、じわりと潤む。


「……ごめ、なさ……俺、父上のこと、なんにも、知ら、なくてっ……」

「それは、君のせいじゃない」


 小刻みに震え出す暗珠の背へ、早梅はそっと腕を回す。


「それに、君は無力じゃない。私の大っ嫌いなやつを、ぶっ飛ばしてくれたじゃないか。私の代わりに、あんなに怒ってくれて……」


 シュンを打ち負かすこと。それは、早梅でさえできなかったことだ。暗珠は、成し遂げた。

 彼の存在は、屈辱を味わう早梅に射し込んだ、『光』に違いなかった。


「君は私の、正義の味方だよ。最高にかっこよかった。ありがとう……よく、がんばったね」

「……俺、おれ……いらない子じゃ、ない……?」

「うん、君のがんばりは、ちゃんと見てる。本当に、よくがんばった。君はえらい子だ」

「っ……うっ……くぅ……」


 たまらず早梅の首にすがりついた暗珠の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。


「うぅ……うぁああ! うぁああっ!」


 母もなく、尊敬する父に裏切られ、わけもわからないうちに、戦禍のど真ん中に放り込まれ。

 寂しかったろう。怖くて、逃げ出してしまいたかったろう。

 それでも、暗珠は逃げなかった。早梅を守るために。


「大丈夫……私が、そばにいるよ」


 暗珠のために早梅がしてあげられることなんて、抱きしめることくらいだけれど。


「う、ん……そばに、いて……俺の前から、もう、いなくならないで……っ!」


 きつくきつく抱きしめ返しながら、暗珠は声をあげて泣いた。

 早梅もじんと目頭が熱くなるのを感じながら、幼子のように泣きじゃくる暗珠の背を、心音と同じ速度で、やさしく叩いていた。


「なーんか、皇子さまにいいとこ持ってかれちゃったよねぇ」


 唇を尖らせながらも、やれやれ、と肩をすくめた一瞬後の九詩ジゥシーの表情は、清々しいものだった。

 ひとりで強敵を倒した暗珠の実力を、九詩も認めていたのである。


 つかの間おとずれた平穏に、さやさやと、岸辺の木々が木の葉をこすれ合わせる。


「うん……?」


 なぜだろうか。九詩は妙に胸さわぎがした。

 ひろい蓮池を、薄緑の瞳で注意深く見渡す。

 やがて暗視に長けた視力と、敏感な聴覚をもって、不自然に波打つ水面を捉えた。


「っ! 梅雪メイシェさまッ!」


 血相を変えた九詩が、瞬時に身をひるがえす。


詩詩シーシー──」


 何が起こったのか、早梅が理解しないうちに……


 ず、ぷり。


 皮膚を深く深く刺し貫く、嫌な音が聞こえた。

 ぴちゃり、と生温かいものが頭上に降り注ぎ、暗珠は、恐る恐る振り返る。

 同様に頭上を見上げた早梅は、ひゅ、と息を飲んだ。


 たがいに支え合う早梅と暗珠へ覆いかぶさるように、九詩が両腕をひろげていた。

 その胸に、鈍く光る刃を生やして。


「なっ……」


 鮮烈な光景に、暗珠は絶句する。


「チッ……餓鬼が邪魔しやがって」


 止まった時が、忌々しげな男の舌打ちによって動き始める。

 背後から九詩に刃を突き立てていたのは、空鼠そらねず色の髪に、色の違う漆黒と翡翠の瞳が特徴的な男。そう、迅だ。信じがたいが、見間違いなどではない。


「とりあえず、命拾いしましたねぇ、殿下?」


 ハッと鼻を鳴らした迅が、乱雑に剣を引き抜く。

 どさりと崩れ落ちる九詩。その胸から、どくどくと鮮血があふれ出る。


「そんな、詩詩……返事をして、詩詩っ!」


 いくら早梅が呼ぼうとも、九詩は答えない。


「どう見ても即死だろ。心臓をひと突きにしてやったからな」


 九詩を抱き起こす早梅の頭上で、ため息まじりに迅が剣を振り、ピッと血を払う。


「貴様、よくも……!」

「あは、いいねその表情! やっぱそんくらいうろたえてくんないと、俺も割に合わないからさぁ」


 愉悦に顔を歪めた迅は、驚くべきことに、無傷だった。


「なんでだよ……絶対に、当てたはずなのに……!」

「殿下の名誉のために言わせてもらうと、たしかに攻撃は当たってましたよ? 受けたのは、俺じゃないけどな」

「どういう、ことだ」

「あれをよく見てみな」


 にやりと不敵な笑みを浮かべた迅が、蓮池を指し示す。

 暗珠は今一度まばたきをし、そして驚愕した。

 水面に浮かんでいたのは、たしかに黒ずくめの男であった。

 ただし迅ではなく、桃英タオインの攻撃で深手を負ったはずの、仲間の男だ。


「仲間を身代わりにしたのか!? いつの間に……!」

「ざーんねんでした。もうわかっただろ? おまえらがいくらわめこうが、俺は倒せないんだよ。なぁ梅雪お嬢さま、そんな役立たずどもなんか捨てて、俺と行こうぜ? たっぷり、可愛がってやるから」

「梅雪さまに近づくな!」


 すぐさまふところに踏み込んだシアンが、手にした暗器で迅の胸を捉える。


「ハッ、ぬるいぬるい! そんなんじゃ俺は殺せないぞ!」


 が、迅はひらりと後転し、難なくかわしてみせた。


「まだ手札を隠しているな。それを暴かねば、私たちに勝算はないということか」

「ん? ザオ家ご当主サマのお出ましか? いいねぇ、ぜひとも手合わせ願いたいもんだ!」

「黙れ。私の娘を散々辱め、人命を弄んだのだ。命乞いは通用しないものと思え」

「そうこなくっちゃな! 始めようぜ、ゾクゾクする殺し合いをさ!」


 静かな怒気をまとった桃英が早梅たちの前に出れば、興奮した様子で迅が高笑いを響かせる。


「あいつ、俺を殺すつもりで……すみません、俺の、せいで」


 か細い声を絞り出した暗珠が、うなだれる。

 物言わぬ九詩の亡骸を膝に寝かせ、早梅はふるふるとかぶりを振った。淡色の袖が鮮血に染まりゆくことも気にとめず、九詩の胸に、そっと右の手のひらをふれあわせる。


「九詩……すべきことを、まっとうしたんだね」


 一心イーシンが早梅のそばに片ひざをつく。そして右手を伸ばし、九詩の頭を、やさしく撫でた。


「この子の命は、無駄にはなりません」


 唇を噛みしめ、肩を震わせる早梅を抱き寄せた一心の紡ぐ言葉は、静かなものだ。静かすぎるほどに。


「──梅雪さまっ! 一心さまっ!」


 そのときだ。押し黙る早梅たちのもとへ、駆けつける人影がある。

 黒髪に薄緑の瞳を持つ青年。九詩の双子の兄、八藍バーランだ。

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