「
引きちぎられた白蛇の亡骸に駆け寄った蠱毒師が、わっと泣き出す。
戦力が削がれた今、戦意を喪失するかと思われた。
「ひどい、ひどいよ……わたしたちのお友だちに、こんなひどいこと……ゆるさない」
だが泣きわめく片割れの肩を抱いた蠱毒師から、殺気が放たれる。
「ゆるさないゆるさない、ゆるさない……ころして、みんな殺して
金切り声のような命令が響きわたり、六つ目の毒蜘蛛が、バネのように弾みをつけて飛び上がる。
「またあの毒針を放つつもりか!」
毒蜘蛛は、みる間に早梅たちの頭上高くを捉える。そして毒液を多量に含む硬質な糸を、勢いよく吐き出した。
しかし、襲いかかる毒の糸が早梅たちを捉えることは、なかった。
「……外野がうぜぇな」
低い声音が聞こえ、はっと我に返る早梅。
「邪魔をするな」
「きゃあっ!?」
「
白い閃光が早梅のすぐそばを駆け抜け、その頭上に迫る毒蜘蛛もろとも、命令を下した蠱毒師を吹き飛ばした。
あまりに一瞬のことで、しばし呆けていた早梅は、信じられない気持ちで背後を振り返る。
「殿下……」
白蛇のみならず、毒蜘蛛までを一瞬で地に沈めたのは、
「やぁ、お見事ですねぇ、殿下」
わざとらしい拍手を送りながら、
「蛇に咬まれてるはずなんですけどね。あぁ、血流を制限して、蠱毒が全身に回るのを防いでるのか。それでそんだけ動けるのは、見事なもんです、本当に」
歯に衣着せぬ物言いは、皇子である暗珠を皇子だとは思っていない言いざまだ。
実際、迅にとって暗珠は、取るに足りぬ『弱者』の部類なのだろう。主君である
(そうだ、かろうじて動けるからといって、体内の蠱毒が消え去ったわけじゃない。迅の相手をするのは危険だ。クラマくんを止めなければ……!)
今もっとも優先すべきは、暗珠の治療をすること。迅の相手ならおのれが請け負う。その心づもりで、声を上げようとした早梅だが。
「……ごちゃごちゃうるせぇっつってんだろ。黙れよ」
心ない迅の言動が、怒りに燻る暗珠の導火線に、火をつけてしまった。
「彼女に手を出したこと、死んで後悔しろ!」
「殿下、待っ……!」
とっさに早梅が伸ばした右手は、虚空を掻く。
はじかれたように首をめぐらせ、早梅が瑠璃の瞳で捉えたのも、暗珠の残像だった。
悠長にかまえていた迅の顔面に、こぶしが叩き込まれる。それを、迅は涼しい顔で受け止めた。
「おっと。……ん?」
──バチィンッ!
打撃の瞬間、迅の視界が白く明滅した。
こぶしから
「危ないなぁ、いてて」
ジンと痛む右手をひらひらと振って、迅は肩をすくめる。内功をぶつけて攻撃を相殺していなければ、今ごろ高圧電流の直撃を食らい、丸焦げになっていただろう。
「余裕ぶってる場合か?」
「──!」
右、左、右。単調に左右からこぶしを叩き込まれていたかと思えば、足を払われる。
迅は瞬発力とからだの柔軟さを活かしてこぶしの攻撃を避けきると、たっと地面を蹴り、後転する。
やがて、地表を水平に薙いだ蹴りとともにばりばりと電流が駆け巡り、土を焦がしたころ、一回転ののちにはるか後方へ着地した迅が盛大なため息をもらした。
「ただの世間知らずのおぼっちゃんだと思ってたんだけどなぁ」
こぶしだけでなく、蹴りもそうだ。暗珠の攻撃は、ことごとく雷功をまとっていた。
暗珠が攻撃を繰り出すたび、電撃が放たれ、目を刺すようなまばゆい閃光が走る。
そうして迅の視界がくらんだ隙を逃さず、容赦なく次の手を叩き込んでくるのだ。
実戦慣れしていないはずだが、暗珠は力の使い方をよく理解していた。それは暗珠の戦闘センスが、天才的とも言えるほど抜きん出ている証拠。
退避した迅がそんなことを分析しているあいだにも、ひろく取られた距離を、暗珠はまばたきのうちに詰める。
「
もはや、視覚に頼ることはできない。
迅は迫りくる電流の音や、焦げたにおい、肌に感じる風の流れなど、聴覚や嗅覚、触覚と、持てるものをすべて駆使して、暗珠の攻撃を回避していた。
「さて、困ったな」
「どうした、かわしてばかりか!」
暗珠も、迅の動向の把握に全神経を注いでいた。ゆえにこそわかる。暗珠の攻撃をかわしながらも、思案する余裕が、迅にはあることを。
この期に及んで、遊ばれている。暗珠の苛立ちは募るばかりだ。
「舐めるなよ!」
「舐める? とんでもない」
暗珠が声を荒らげた直後、迅は鼻を鳴らして笑う。手のひらで受け止めた暗珠のこぶしを、ぎりりとにぎり込んで。
それから迅は手首のひねりをきかせると、右腕を大きく回す。物凄い力に引っ張られた暗珠のからだは一回転し、地面に叩きつけられる。
「ぐッ!」
背を強打した暗珠は、肺での呼吸を損ねる。
単に打撃を食らうだけではない。遠心力による負荷もかかっている。体内の臓物を掻き回されたのではないかと錯覚するほど、強烈な吐き気にも見舞われた。
仰向けに四肢を投げ出した暗珠へ悠然と歩み寄った迅は、漆黒と翡翠、色違いの瞳を細め、言い放つ。
「舐めてたら痛い目見るのは早々にわかったんでね、どう痛めつけてやろうか考えてたんだよ」
「殿下っ……!」
「あぁ
どこからか短刀を取り出した迅が、にこやかに早梅へ笑いかけ、牽制する。そしてくるくるともてあそんでいた短刀の先で、暗珠の胸もとを捉えた。
「俺にはそっけないくせに、こんな弱い餓鬼を気にかけるなんて、気が狂いそうだよ。そうか……これが嫉妬か。あんたが大事にしてる男ども、ひとりひとり心の臓を抉ってやったら、俺だけを見てくれるかなぁ。その可愛い顔を絶望で歪めて、可愛い声で俺を呼んでくれるのかなぁ」
「やめろ……殿下にそんな仕打ちをして、ただではすまないぞ」
「くははっ! 俺の心配をしてくれてるのか? 大丈夫だって、こんな餓鬼が一匹死んだところで、何も変わらない! 代わりの皇子だっていることだしな!」
「貴様、
「あぁもちろん。陛下は第二皇子、梅雪お嬢さまとの子を後継者にお望みだ。つまり、こいつはもう要らない。陛下が殿下を『殺すな』とお命じにならなかったのは、そういうことだろ?」
迅は、手にした短刀よりも鋭い言葉の刃で、容赦なく、無慈悲に、暗珠を貫いた。
「期待なんかされてないんだよ。恨むなら、弱くて役立たずな自分を恨みな。そんで、早いとこ消えてくれ。目障りだから」
冷めた口調で言い放った迅が、暗珠の胸へ刃を突き立てんと、右腕を振り上げる。
「……めろ……やめろ、迅ッ!」
制止する早梅の声は、もはや悲鳴だった。
早梅の訴えもむなしく、ずぷりと、皮膚を貫く音が聞こえる。
それから、一瞬の静寂が流れ。
「……父上が、言ってた。『帰ってきたら、稽古をつけてやる』って」
絞り出すように発語したのは、暗珠だったか。
「それで、
早梅は、今一度瑠璃の瞳をまたたかせた。
心臓を貫く寸前の刃を、暗珠が受け止めていた。
「自分のことにせいいっぱいで、何も知らなくて……何も知ろうとしないで、馬鹿みたいに憧れて……わかってる。わかってるんだよ、俺が悪いのは」
暗珠は唇を噛みしめ、刃を握りしめた手に力を込める。
ぱたぱたと、指のあいだから鮮血がしたたり落ちる。
「一番近くにいたのに、俺は何も知らなかった、何もできなかった……父上を、止めてさしあげられなかった……!」
おのれは無力である。そんなことはとうの昔に、暗珠自身が思い知っていたこと。
「そうだよ、ハヤメさんは強い。まわりにいるのも、ふざけんなってくらい強いひとたちだよ。俺なんか霞むくらい……」
早梅が知るクラマという人物は、天邪鬼で、あまり本心をあらわにしない男だ。
「でもひとつだけたしかなのは、俺は、ハヤメさんが好きってことだ。彼女を想う気持ちの強さだけは、誰にも負けないってことだ。だから、馬鹿でも、アホみたいに弱くても、這いつくばってんだろうが……!」
頑固で、素直ではない
歯を食いしばって、土を引っ掻き、よろめきながらも、起き上がるのだ。
「泣いてほしくない、笑っててほしい……俺の力は、ハヤメさんを守るためにある! てめぇみたいな糞野郎をぶっ飛ばすためなら、俺は何度だって馬鹿になってやるよ!」
「……餓鬼がわめきやがって」
舌打ちをもらした迅が、瞬時に距離を取る。
しかし、迅の足が地面を捉えられぬうちに、薔薇輝石の瞳を見ひらいた暗珠が、目前まで迫る。
すぐさま腰の剣を抜き払う迅だが、一閃したその軌道に、すでに暗珠のすがたはなかった。
「遅い」
「──!」
右か、左か、いや。
ばちばちと火花のはじける音は、迅の周囲、四方八方から聞こえる。
軽やかに地を蹴った暗珠が、黄金の気をまとい、ジグザグな軌道を描きながら縦横無尽に疾駆しているのだ。
そのあまりの疾さは、目視も困難なほど。
「雷功」
背後は、取った。
反射的に迅が振り返るも、体勢を低めた暗珠の右手で、ばちばちと火花がはじける。
決着は、刹那のうちに。
「いかずちの怒りを知れ──『
──ばりばりばりぃッ!!
ひときわまばゆい閃光が走った刹那、雷鳴が轟き、迅の右肩を撃ち抜いた。
そのさまは、夜闇を切り裂く稲妻のごとく。