「俺に敵わないことはわかっただろ? 夏の夜は短いのだし、そろそろ行くとするか、
うなだれた
(こんな男に好き放題をされて、情けない……)
迅に対するものだけではない。無力なおのれへの嫌悪感で、早梅は打ちひしがれていた。
(こいつを負かすのは、無理なのかもしれないな……)
そうだ。自分は迅には勝てない。それを痛いほどに理解した。
(だが、蹂躙されたままで、いられるものかっ……!)
無謀でも、最期まで足掻く。
傷痕を残すのだ。
たとえ、刺し違えたとしても。
「……何」
違和感を覚えたらしい迅が、声音をひそめ、早梅へ視線を落とした。
早梅は瑠璃の瞳をカッと見ひらくと、渾身の力を込め、左手で迅の襟首を掴む。
そして残るすべての気力を、右の手のひらに集束させた。
ピシピシィッ!
またたく間に、純白に輝く氷の小刀がかたちづくられる。
それを右手で引っ掴んだ早梅は、鋭いきっさきで、迅の首を捉えた。
「
「うぁっ……!」
軌道は完璧だった。しかし、相手のほうが一枚上手だった。
迅は一瞬にして早梅の右手をひねり上げる。早梅の手からこぼれた氷の小刀が、ぱっとはじけ、細かな結晶となって、きらきらと地面へ散った。
「あんたがその気なら、俺も遠慮しないぜ? 今夜だ。今夜中に孕ませてやる。覚悟しろ」
「くっ……!」
色の違う瞳孔をひらき、迅がギリギリと早梅の手首を締め上げる。
「せいぜい泣き叫んで、絶望してくれよ。可愛くて可哀想な、梅雪お嬢さま?」
ゾッとするほど美しい顔で、迅が
迫りくる魔の手を拒む気力は、早梅にはもう、残されていなかった。
──カッ!
そんなときだったか。目がくらむほどの、閃光が走ったのは。
──ばりばりばりぃっ!
間髪を容れず、けたたましい音が、闇夜を切り裂いた。
「梅雪ちゃんっ!」
「ふぇっ……わわっ!」
早梅は、宙に投げ出されていた。かと思えば、
「二星さま……華奢でいらっしゃるのに、けっこう、お力が強いのですね」
「そりゃあ、こどもを育ててきた母ですもの。あなたは私の娘も同然なのよ。無事でよかったわ……無茶は、しないでね」
「……はい。ありがとう、ございます」
抱かれた感触のやわらかさと、あたたかさ。これが母のぬくもりなのか。
二星の愛情が凍える早梅のからだにしみ入り、じわりと、目頭を熱くさせた。
「でも、一体何が起きて……」
「梅雪ちゃん、あれを見て」
早梅は二星の細い指が指し示す先をたどる。そして、ぎょっとした。
「……ふぅぅ……」
結論から言うと、そこにいたのは
ばちばちと、暗珠の指先に火花が散っている。
きわめつけには、地面を焦がしたひとすじの痕が、暗珠のもとから伸びていた。迅と早梅のあいだを引き裂く軌道で。
「皇子サマ、まだ動けたの?」
「やっちゃいな、
蠱毒師の命令を受けた白蛇が、ずるりと頭を持ち上げ、口を開けて暗珠に迫る。
「待てっ……!」
だが、血相を変えた早梅の制止は、届かない。
がっと、突如として、暗珠が白蛇ののどもとを掴んだのだ。
「シャアア!」
暴れた白蛇が長いからだをくねらせ、拘束を抜け出す。と同時に、暗珠の右の前腕へ噛みついた。
ずぷり。鋭い牙が、
「アハッ! 噛まれちゃったね!」
「冥帝の毒液には、皮膚を溶かす胃液が入ってるからね! じわじわからだを溶かされて、泣き叫んじゃえ~!」
ケラケラと、甲高く耳障りな声が響く。
面白おかしく嘲笑う蠱毒師たちは、予想だにしなかっただろう。
天地がひっくり返るほどの出来事が、起こることなど。
──ぶちぃっ!
何かが、引きちぎられる音がした。
呼吸を忘れた早梅の目前で、頭と胴が泣き別れた白蛇が、無造作に放り捨てられる。
「えっ……」
呆然とする蠱毒師をよそに、ひざを立て、ゆらり……と立ち上がったのは、暗珠だったか。
「うそっ、冥帝! 冥帝っ!」
地面には、胴体を引きちぎられ、絶命した白蛇が、転がっていた。
(頭に血がのぼれば、攻撃は単純になりやすい。それは人も蛇も同じだ)
にわかには信じがたいけれども、早梅の見間違いではなかった。
わざと白蛇を怒らせた暗珠は、自身の右腕に噛みつかせた。そして白蛇の拘束がゆるんだ隙に抜け出し、一撃で仕留めたのだ。
内功が底をついていた暗珠に、まさかそこまでの思考力と気力が残っていたなんて。早梅は息を飲む。
「……ふざけんな」
誰もが絶句する中、暗珠が言葉を発する。
「……黙って聞いてりゃ、俺の前で好き勝手やりやがって……やることなすこといちいちセクハラなんだよ」
ゆらり、ゆらり……と幽鬼のごとく異様な雰囲気をまとって暗珠が向かうのは、迅のもとだ。
「つーか俺だってまだハヤメさんとキスしてないのに、ふざけんじゃねぇぞ……その汚い手でベタベタベタベタハヤメさんさわりやがって、あぁあうぜぇえええ! 殺す……てめぇぶっっっ殺す!!」
「え……えぇっと」
暗珠、発狂。これには早梅も反応に困ってしまった。あの荒ぶりよう、暗珠というより、
「これはこれは殿下、お元気そうでよかったです?」
「二度とハヤメさんに近づけなくしてやる……殺す、確実に、殺すッ!」
「わー、すごい殺気だナー」
暗珠の殺気を一身に受けた迅が、素晴らしい棒読みで両腕を上げている。なんか面倒くさい餓鬼に絡まれたな、とでも言いたげな表情だった。自業自得だろうに。
「あーもうマジでふざけんな、マジでうぜぇ……この糞野郎とっととぶっ殺してハヤメさんとイチャイチャしてやる……ハグしてキスしてその先も……うん、そうだな。ちょっと目を離したらすぐに悪い虫くっつけるんだから、さっさと手篭めにしてしまおう。俺天才かも。はっ、あははははっ! 覚悟しろよ、ハヤメさぁんっ!」
信じられない展開の連続ではあったが、不思議なことに、何かに取り憑かれたような暗珠を目にしたら激しく納得できてしまった。いろいろと。
「あれ……なぜに私、狙われてるのかしら?」
それも、暗珠に。
「ふはははっ! 俺とハヤメさんの幸せな家庭のために、速やかに死にさらせぇっ!」
あの高笑い、どう見ても、物語の主人公が浮かべてよい笑みではない。