一歩、また一歩。
連行される罪人のごとく虚ろな表情を張りつけ、
やがて水上の舞台にて、前方に人影を認め、伏せていた視線を上げる。
「こんばんわぁ、お姫サマぁ?」
「ほんとに来たし。笑っちゃうね、きゃははっ!」
早梅を心底馬鹿にした蠱毒師が、ふたり。どちらも早梅の歩幅で五歩ほど先にいる。
(射程圏内だ。だが、慌てるな。まだだ)
焦る気持ちを抑え、蠱毒師から反対方向へ視線を向ける。
そこには、白蛇に拘束され、地面に転がされた
「わが身をかえりみず、敵地へ向かう。その心意気、見事なものですな」
「……陳太守」
獣人奴隷売買の首謀者、
(追い詰められた私への皮肉か? いや……)
だとするには、陳仙海の言葉から、悪意は感じなかった。むしろ純粋に、早梅に対する称賛が込められていた。
そのことが、どうも早梅の胸に引っかかるのだ。
「殿下をお離しください。脅しとしても、あまりにたちが悪すぎます」
「これが、脅しだとお思いか」
「なんですって?」
「聡明な
早梅を見据えた陳仙海の言葉は、静かなものだ。
早梅ではない、どこか遠くを見ているのではないかと思うほどに。
陳仙海が何を思っているのか。
この先の行動へ移るためには、それを知る必要性があった。
ちらりと視線だけで振り返れば、付き添いの
悠然と腕を組んだ迅は、漆黒と翡翠色、色の違う瞳を細め、にやりと不敵な笑みを浮かべる。
──さて、あんたは何をするつもりだ? どうぞ俺を楽しませてくれ。
そんな迅の声が、聞こえるようだった。以心伝心だなんて腹立たしいけれど。
早梅はひと呼吸を置き、陳仙海へ真正面から向き直る。
「陳太守。あなたの行動には、矛盾があります」
「ほう……して、それはどのような?」
「あなたはこの
早梅をさがして暗珠が屋敷をたずねてきた際には、暗珠に対する
先日の街での騒動では、烏を丸焼きにしていた主催者を暗珠の命で即刻捕らえ、文字どおり火消しに奔走した。
人づてながら、それは早梅も知るところだ。
「だというのに、どうして殿下にこのような仕打ちをなさるのですか? 殿下への敬意を忘れてしまわれたのですか?」
「敬意……ですか。そのようなものも、あったのかもしれません。ですが、わからないのです」
「わからない?」
「殿下を拝見して頭をよぎるのは、不憫な方だと……同情、と称するのが妥当でしょうな。修羅のごとき皇帝陛下の御子としてお生まれになった、可哀想なお方……」
うわ言のように、陳仙海は語る。その様子に、早梅は確信した。彼は、
「ならば、殿下を痛めつけるなんて馬鹿な真似をしてみせたのは、私をここへ呼び寄せて、あわよくばさらい、陛下のご機嫌取りに利用するためですか?」
なかなか胸の内を明かさない陳仙海へ、早梅は一歩踏み込む。そのときだ。
「ふ……ふははっ」
陳仙海が笑った。
「ははっ、貴殿は陛下のご寵愛をいただいていることを、よくご理解なさっている! えぇ、貴殿を利用したと、そのように解釈いただいても構いませぬ。私が釈明したとして、同じことなのですから。ただ、これだけはお伝えを。
「何を、おっしゃりたいのです?」
「何も。貴殿はそのお心のままに、殿下のため、陛下のために尽くしてくださればよろしいのです」
「つまり、私に後宮入りをしろという意味に取れますが」
「貴殿の健気な献身によって救われる命が、たくさんあるということです」
「それはどういう──」
即座に問い返そうとして、早梅は口をつぐむ。
こちらを見つめ、わずかに笑みを浮かべた陳仙海のまなざしに、仄暗い影が宿っている。そのことに気づいたためだ。
「あぁ、梅雪お嬢さまは、陛下の近況を知らないのか」
わざとらしい発言があり、早梅は背後の迅を睨みつけた。
「体調を崩されているのだろう。それがどうした」
やけに知ったかぶりな物言いをするから追及すれば、にっと、迅がととのった顔に白い歯をのぞかせる。
「じゃあ、これは聞いたことないだろ? 二年ほど前、地方に視察へ行った際に一目惚れした美しい姫のことが忘れられない陛下が、その美姫に似た女を手当たりしだいに集め、毎夜寝所に招いていると」
「なっ……」
「お世継ぎ関連の話はとんと聞かないから、どの女も陛下のお目にはかなわなかったようだぜ? それと同時期だったなぁ。後宮の宮女が、相次いで忽然と姿を消す怪事件が起き始めたのは」
「待て……それは」
迅が何を言わんとするのか。
そう思考せずにわかってしまったおのれが、恨めしい。
「あんたの想像通りさ。あんたにベタ惚れの陛下が、寂しい夜をあんたと同じ年ごろ、同じ背格好の宮女で満たそうとした。そして陛下の満足が得られなかった宮女は、陛下のお怒りを買い、無惨にも殺されたのさ。可哀想になぁ」
──梅雪よ。そなたが行方をくらませて以降、私がどれだけの虚しい夜を過ごしたか、知らんだろう?
──おかげで女を抱けなくなった。
夢路でふたたび相まみえたとき、たしかに、飛龍はそう言っていた。
その言葉の意味が、まさか、こんな。
「もっと言うと、陛下は食事をまったく摂らず、殺した宮女の血を猛毒の入った酒に混ぜて、毎晩のどを潤していた」
こんな凄惨な事実の上に、成り立っていただなんて。
「猪も卒倒する猛毒を飲み干しといてピンピンしてるし、聞けば『わが姫の血はもっと瑞々しく、甘い』のだと、うっとりご執心でいらしたよ。やぁ、わが主君ながらさいっこうにイカレてるねぇ! あはははっ! 欲を言えば、毎度毎度死体を片付けるこっちの身にもなってほしいもんだけど」
「黙れ!」
「なぜだ? 自分のせいで関係ない人間が犠牲になっていたことが、そんなに衝撃だったか? 一途な陛下の性格を思えば、熱烈なご寵愛を拒んだ時点でこうなることは、予測できただろうに」
「黙れっ……!」
「あぁそれとも、殿下か? 偉大な父上を慕ってやまない殿下に、こんな話は聞かせられないもんな? 気が利かなくて申し訳ない。どうもスミマセンね、殿下?」
「黙れと言っているのが聞こえないか、この下衆め!」
激情に駆られ、怒号を飛ばしてしまった。
それが、早梅の失態だった。