「まぁ、妙な真似をされちゃ困るんでね。指にはめた法器は手放してもらおうか。そちらのきれいなお姉さんも、琵琶を」
しばらく沈黙が流れ、
さらに長い沈黙をへて、深く息を吐き出した
「
「いいから」
拒もうとする黒皇の手へ、早梅は指輪型の法器を押しつける。
「これは、兄さまそのものだ」
愛する
これまで、ただの一度だって手放したことはなかった。
「おねがい、黒皇……」
命よりも大切な宝物を託せるのは、黒皇しかいなかった。
早梅の懇願に、黒皇の表情が悲痛に歪む。
「…………慎んで、お預かりいたします」
ひろい手のひらで指輪を包み込んだ黒皇が、深々と頭を垂れる。さまざまな感情を押し殺した、ふるえる声音だった。
黒皇へわずかばかりの笑みを返した早梅は、次いできびすを返す。
背筋をぴんと張り、悠然と待ち構える男のもとへ向かう早梅の半歩後に、二星が続く。
「別れのあいさつは済んだか? なら、行こうか」
「おや、面白味に欠けるエスコートだね」
ぶしつけに早梅の肩を抱く直前で、男の手が止まる。
言葉の真意を問う。そんなまなざしが頭上に注がれているのを感じながら、早梅は凛として顔を上げた。
「熱烈な逢引をご所望なら、私をその気にさせてくれないか」
挑戦的に、不敵に、男を見据える。
早梅のまなざしをその身に受けた男は、何を思うたか。
「たしかに。これじゃあ雰囲気も何もないよなぁ」
男はクツクツと笑いながら、おもむろに覆面へ手をかけた。
それから慣れた手つきで、しゅるりと結び目をほどく。
ひゅうと、そよ風がひとつ、早梅と男のあいだをすり抜ける。
顔を隠していた布が取り払われ、男の素顔があらわとなった。
「おやまぁ……これは」
言葉では驚嘆してみせながら、早梅は特に波立たない心境のまま、瑠璃の瞳で男を見つめ返す。
曇天のように、くすんだ
肌は良く言えば色白、悪く言えば病的な白さ。
想像よりも若く、年のころは二十代後半。三十までは行っていないだろう。
そして何より早梅の目についたのは、男の瞳。
左右で、色が違った。
左は新月のごとく光を宿さない漆黒で、右は原石をそのままはめ込んだような、輝きの鈍い翡翠色だ。
不遜な態度からもっと無骨な人相を想像していたのだが、見目だけなら、どちらかと言えば儚げな美青年の部類だ。見目だけなら。
「生まれつきこのナリでね。いろいろと舐められたもんだが……色を
「そうだな、何かをまかり間違った末に思わず口づけのひとつでもしてしまいそうな、とんでもない男前だ」
「ふはっ! 棒読みもいいとこだって。いいねぇ……俺の名は
男はためらいなく素顔を、名をさらした。
(やはり、加虐癖のある変態とは相容れないな……)
こちらの心がみじんも傾いていないことを知りつつも、いつになく饒舌で、ご機嫌であるところを見せつけられたのだ。早梅は心底辟易する。
「おしゃべりもそこそこにお願いしますわ、変態さん」
「俺は迅だって。そんな憎まれ口を叩く可愛いお口は、お望みどおり、熱い口づけで塞いでやろうか?」
とたん尋常でない嫌悪感と吐き気を催したが、名を呼んでしまえば、それこそ奴の思惑通りだろう。
つくりだけはきれいな顔を至近距離まで寄せて誘惑してくる男、迅のたわ言には、完全無視を決め込む。
(奴は私を屈服させて、快感に浸りたいだけだ)
決して愛されているわけではない。だから早梅は、迅の求めには応じない。
「私に指一本でもふれてみろ。──その不埒な手を氷漬けにして、粉々に砕いてやる」
早梅は迅の耳もとへ顔を寄せ、桃色に色づいた瑞々しい唇で、怨念のような言葉を吐く。
真っ向から拒絶されているというのに、色違いの双眸を見ひらいた迅の反応は、歓喜に染まるものだった。
「あはっ……はははっ、その目つき! ゾクゾクが止まらないなっ……本当に、どうしてくれる? 俺をこんな風にして!」
愉快でたまらない、と。本来ならばもっと高らかに笑い飛ばしたくてたまらないところを、恍惚と愉悦に浸るのみにとどめた迅が、今一度早梅へ顔を寄せ、ささやく。
「いいぜ……あんたに付き合ってやるよ。今夜は特別に、な」
「──! 貴様っ……」
「おっと。これ以上はお静かに、だ。それとも、熱い熱い口づけを、今すぐにご所望か?」
おのれの唇に人差し指を当てた迅が、しぃ……と、これみよがしに笑う。
(こいつ……私の考えに気づいたな)
その上で、早梅の『演技』に付き合ってやると、そう言っているのだ。
考えてみれば、そうだ。弱者は不要だと断言していたこの男なら、『か弱い少女』を目にしたとたん、一切の興味を失くすはずなのだ。
だというのに、依然として狂気とも言える早梅への執着を衰えさせていないのは、早梅の秘めた闘志を、見抜いていたからこそ。
(この男は、何を考えている……? 私に加担することで、この男が得るものはなんだ……? ……いや)
深く考えるまでもない。これも罠なのだろう。
だが不本意ながら迅の協力を得た現在に限っては、すくなからず早梅の有利に事が運ぶ。それもたしかなことだ。
早梅のそばに身を寄せたまま、迅は甘くささやく。
「うまくできたら、ご褒美に抱かせてくれよ。思う存分嫌がってくれて、おおいに結構だ。泣き叫んで、隅々まで犯されてくれ。俺の可愛いお姫さま?」
「すこしでも対話をしようと思った私が馬鹿だった。このイカレやろう」
「強い者が強い者に惹かれるのは、当然のこと。種の繁栄としても、な。女に興味などなかったが、あんたとの子なら、俄然欲しくなってきたな。期待していてくれ。快楽の底に突き落として、孕むまで犯してやるから」
甘い誘惑の先に、愛などない。
「あぁ……泣きながら俺にすがりついて厭らしくよがるあんたを、早く見たい。ゾクゾクするくらい……可愛いんだろうなぁ。夜もすがら、俺とイイコトしようぜ?」
その加虐心と性欲を満たすためだけの道具に成り下がるつもりは、毛頭ない。
「聞かなかったことにしてやる。ありがたく思え」
早梅が心からの軽蔑を込めて睨みつけてやれば、迅が人形のようにととのった顔で、笑みを深めた。
「──孕ませてやる。いずれ、必ずな」
獲物に狙いを定める、ギラついた目つきだった。
「あいにくだけど、強引な男は好きじゃないんだ。やっぱり、優しくて包容力のある男性じゃないとね。女心を一から学んで、出直してきてくれ」
欲望を隠しもしない迅のたわ言は、素っ気なく突き放す。
「その言葉、忘れるなよ? 気丈に咲く一輪の花を、俺が根もとから手折ってやるよ」
迅は背を向けた早梅の翡翠の髪を掬い取り、そのひと房に口づけを落とした。
素肌にふれられずとも、全身を掻きむしりたいような嫌悪感に見舞われた早梅だが、悶絶する姿こそ迅の好物だろう。奥歯を噛みしめ、耐え忍んだ。
変態だの暴言を吐いても突き放しても、執着という名の好感度は上昇する一方だ。何なんだ一体。早梅は考えることを放棄した。
釈然とするはずもないが、意外にも、それ以上迅が早梅へまとわりつくことはなかった。律儀にも『監視役』として、早梅が妙な真似をしないよう、形式上ふるまっていた。
むろん、人格的にも生理的にも嫌悪している男に背後を取られた早梅は、内心穏やかではなかったが。
二星がそれとなく迅の視線をさえぎるように肩を抱いてくれなかったら、発狂していたかもしれない。
かくして早梅は、二星とともに、敵の本陣、蠱毒師の待つ水上の舞台へとたどり着いたのだ。