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第218話 演者たれ【前】

 夜空を流れる雲が、欠けた月を覆い隠す。

 月明かりの遮断された暗い岸辺で、早梅はやめは弾かれたように振り返った。

 その先には、蓮池に浮かぶ舞台がある。びっしりと浮島をかこむ橙灯篭の灯火は、目をくらませるほどの輝きだ。

 きらびやかな舞台上には、人影がひとつ、ふたつ、みっつ、そして。


「のんきにおしゃべりしてる場合ー?」

「じゃあじゃあ、わたしたちの好きにしちゃうけど、いいよね? いいでしょー?」


 きゃはははっ! と、無邪気で非情な笑い声が響く。

 早梅は瑠璃の瞳を見ひらき、驚愕した。

 蠱毒師のそばに、先ほどまでなかったはずの人影を認めたためだ。


「くっ……!」

「殿下!?」


 間違いない、暗珠アンジュだ。

 舞台上にうつ伏せに転がされ、そのからだには、青白い体躯に真っ赤な目をした大蛇が巻きついている。

 早梅の腕より太い胴の白蛇が、ずるずると暗珠のからだを這ってとぐろを巻き、大口をあけて、鋭い牙と、血のように赤い二股の舌をちろちろとのぞかせた。


「使役していたのは、毒蜘蛛だけではなかったか……殿下を離せ」

「えぇ? だれに向かってそんな口きいてるのぉ?」

「そーそー、そんなこと言える立場じゃないでしょお?」

「うぐぁっ……!」

「殿下っ!」

「──動くな。皇子サマ、締め殺しちゃうよ?」


 早梅は唇を噛む。


(しまった……クラマくんを人質に取られてしまうとは)


 だが、ここで怯んではならない。侮られてはならない。

 焦る気持ちを抑え、早梅は目前の光景を睨みつける。


「はな、せぇっ……!」


 暗珠も拘束から抜け出そうともがいてはいるが、巻きついた白蛇はびくともしない。


「く、そぉっ……!」


 なすすべもなく、暗珠が地面を引っ掻く。

 その指先からぱちぱち……と弱々しい電流が土の表面へ逃げていくのを目にし、早梅ははっとする。


(クラマくんの|雷功《らいこう》が弱まっている……闘う力が、残っていないんだ!)


 そこで、早梅は思い出す。

 クラマの憑依した『羅暗珠ルオアンジュ』が、生まれながらに病弱な少年であったことを。


(彼は十五年間、ずっと都にいて、武功を実戦であつかう機会もなかった)


 才能はある。だが、武功を自在にあつかうためのからだが出来上がっていない。

 先ほど毒蜘蛛の攻撃をかわすので精一杯だったのも、そのためなのだ。


(今夜のような長期戦ともなれば、内功が底をつくのは必至だろう。見誤った……こうなってしまうことを予測できなかった、私の失態だ)


 この場において、どうすべきか。何が最善策か。

 もっとも、はじめから選択肢など用意されていないことを、早梅はよく理解していた。

 まぶたを閉じた早梅は、しばしの沈黙の末、静かに瑠璃の瞳をひらいた。


「蠱毒師よ、私がそちらへゆく。ならば異論はないな」

「っ、なにをおっしゃいます、梅雪メイシェさま!」


 真っ先に叫んだのは、臨戦態勢だったシアンだ。


「殿下の身代わりになられるおつもりですか。いけません、お嬢さま」


 早梅の考えをいち早く悟ったのだろう。険しい面持ちで、黒皇ヘイファンが早梅の肩を押しとどめる。


「この場で不利なのは、圧倒的に私たちだ。この身ひとつで救える命があるのなら、安いものだろう」

「お嬢さま……!」

「おまえがあちらの手中におさまったところで、連中が私たちを見逃すと思うか。これは罠だ。馬鹿なことは考えるな、梅雪」


 むろん、わかっている。そんなことはわかりきっている。

 桃英タオインの言うように、これは罠なのだ。

 早梅を手に入れたとして、蠱毒師らは桃英たちを殺そうとするだろう。


(……隙が、必要だ。一瞬でいい)


 思惑を気取られずに敵のふところへもぐり込めるのは、おのれだけ。

 ゆえに早梅は、怒りにふるえるこぶしを淡色の袖に隠し、荒ぶる闘志を胸中に隠す。

 諦めを身にまとい、無力な少女の仮面を被る。

 大丈夫だ、演じることは、得意なのだから。


「気の利かない殿方ばかりね。健気な女の子に、野暮なことはおっしゃらないでくださる?」


 そっと背にふれられる感触があり、早梅は無意識に睨みつけていた地面から顔を上げた。

 早梅を支えていたのは、紫水晶の瞳で静かにあたりを見回す、すず色の髪の女性だった。


四宵スーシャオさま……いえ、二星アーシンさま」


 呆けたように早梅が呼ぶと、二星が振り返り、花のような笑みをほころばせた。


「さすがは桜雨ヨウユイのお嬢さんね。彼女に似て、賢い子だわ」


 二星の口ぶりは、早梅の考えに気づいているものだ。


「ふふ、女の勘ってやつよ」


 二星は早梅にしか聞こえない声音でささやくと、黒皇や桃英たちへ向き直る。


「あなたたちの心配はわかるわ。私が付き添います。それならいいわね?」

「……いいわけがないだろう、紅娘ホアニャン

「桃英、彼女の覚悟を無駄にしないで」


 二星が毅然と放った言葉は、桃英を黙らせた。


「梅雪さん、君は、どうしてそこまで……」


 何事かを言いかけた一心イーシンが、唇を噛む。


(ごめんなさい……一心さま)


 すがるような琥珀色のまなざしから顔を背け、早梅は声を絞り出す。


「……私がそちらに行けば……陛下のもとへ行けば、よいのでしょう」

「アハッ! そーそー、お姫サマはよくわかってるじゃん!」

「陛下に泣いてお願いしたら、そっちのひとたちも助けてくれるかもねー?」


 戯言を。

 いっそ怒号を飛ばしたい気持ちをなんとか飲み込み、早梅は沈黙を貫く。


「……ふぅん?」


 なりゆきを眺めていた黒装束の男が、早梅を見つめ、興味深そうにあごをひとなでした。


「そういうことなら。俺がお姫さまをお連れするお役目を頂戴しようか。さぁお手をどうぞ、姫君?」

「ちょっと、遊ばないでよね、おにいちゃん!」

「はいはい」


 気障キザったらしく早梅へ手を差し伸べた男が、直後に生返事をする。


(蠱毒師に、兄と呼ばれている……? この男も、蠱毒師の関係者なのか……?)


 だとするなら、正攻法ではなく、煙幕弾などを使う一筋縄ではない戦法を企てるのも納得できる。


(もしこの男が、蠱毒を使ってきたら……)


 ひやりと、早梅のこめかみに冷汗がつたう。

 武功の使い手であり、なおかつ蠱毒師だったとしたら。

 それは早梅の想像し得る、最悪の展開となる。


 動揺を気取られぬよう、平静を保つことで必死な早梅をよそに、ふっ……と男が笑った。

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