夜空を流れる雲が、欠けた月を覆い隠す。
月明かりの遮断された暗い岸辺で、
その先には、蓮池に浮かぶ舞台がある。びっしりと浮島をかこむ橙灯篭の灯火は、目をくらませるほどの輝きだ。
きらびやかな舞台上には、人影がひとつ、ふたつ、みっつ、そして。
「のんきにおしゃべりしてる場合ー?」
「じゃあじゃあ、わたしたちの好きにしちゃうけど、いいよね? いいでしょー?」
きゃはははっ! と、無邪気で非情な笑い声が響く。
早梅は瑠璃の瞳を見ひらき、驚愕した。
蠱毒師のそばに、先ほどまでなかったはずの人影を認めたためだ。
「くっ……!」
「殿下!?」
間違いない、
舞台上にうつ伏せに転がされ、そのからだには、青白い体躯に真っ赤な目をした大蛇が巻きついている。
早梅の腕より太い胴の白蛇が、ずるずると暗珠のからだを這ってとぐろを巻き、大口をあけて、鋭い牙と、血のように赤い二股の舌をちろちろとのぞかせた。
「使役していたのは、毒蜘蛛だけではなかったか……殿下を離せ」
「えぇ? だれに向かってそんな口きいてるのぉ?」
「そーそー、そんなこと言える立場じゃないでしょお?」
「うぐぁっ……!」
「殿下っ!」
「──動くな。皇子サマ、締め殺しちゃうよ?」
早梅は唇を噛む。
(しまった……クラマくんを人質に取られてしまうとは)
だが、ここで怯んではならない。侮られてはならない。
焦る気持ちを抑え、早梅は目前の光景を睨みつける。
「はな、せぇっ……!」
暗珠も拘束から抜け出そうともがいてはいるが、巻きついた白蛇はびくともしない。
「く、そぉっ……!」
なすすべもなく、暗珠が地面を引っ掻く。
その指先からぱちぱち……と弱々しい電流が土の表面へ逃げていくのを目にし、早梅ははっとする。
(クラマくんの|雷功《らいこう》が弱まっている……闘う力が、残っていないんだ!)
そこで、早梅は思い出す。
クラマの憑依した『
(彼は十五年間、ずっと都にいて、武功を実戦であつかう機会もなかった)
才能はある。だが、武功を自在にあつかうためのからだが出来上がっていない。
先ほど毒蜘蛛の攻撃をかわすので精一杯だったのも、そのためなのだ。
(今夜のような長期戦ともなれば、内功が底をつくのは必至だろう。見誤った……こうなってしまうことを予測できなかった、私の失態だ)
この場において、どうすべきか。何が最善策か。
もっとも、はじめから選択肢など用意されていないことを、早梅はよく理解していた。
まぶたを閉じた早梅は、しばしの沈黙の末、静かに瑠璃の瞳をひらいた。
「蠱毒師よ、私がそちらへゆく。ならば異論はないな」
「っ、なにをおっしゃいます、
真っ先に叫んだのは、臨戦態勢だった
「殿下の身代わりになられるおつもりですか。いけません、お嬢さま」
早梅の考えをいち早く悟ったのだろう。険しい面持ちで、
「この場で不利なのは、圧倒的に私たちだ。この身ひとつで救える命があるのなら、安いものだろう」
「お嬢さま……!」
「おまえがあちらの手中におさまったところで、連中が私たちを見逃すと思うか。これは罠だ。馬鹿なことは考えるな、梅雪」
むろん、わかっている。そんなことはわかりきっている。
早梅を手に入れたとして、蠱毒師らは桃英たちを殺そうとするだろう。
(……隙が、必要だ。一瞬でいい)
思惑を気取られずに敵のふところへもぐり込めるのは、おのれだけ。
ゆえに早梅は、怒りにふるえるこぶしを淡色の袖に隠し、荒ぶる闘志を胸中に隠す。
諦めを身にまとい、無力な少女の仮面を被る。
大丈夫だ、演じることは、得意なのだから。
「気の利かない殿方ばかりね。健気な女の子に、野暮なことはおっしゃらないでくださる?」
そっと背にふれられる感触があり、早梅は無意識に睨みつけていた地面から顔を上げた。
早梅を支えていたのは、紫水晶の瞳で静かにあたりを見回す、
「
呆けたように早梅が呼ぶと、二星が振り返り、花のような笑みをほころばせた。
「さすがは
二星の口ぶりは、早梅の考えに気づいているものだ。
「ふふ、女の勘ってやつよ」
二星は早梅にしか聞こえない声音でささやくと、黒皇や桃英たちへ向き直る。
「あなたたちの心配はわかるわ。私が付き添います。それならいいわね?」
「……いいわけがないだろう、
「桃英、彼女の覚悟を無駄にしないで」
二星が毅然と放った言葉は、桃英を黙らせた。
「梅雪さん、君は、どうしてそこまで……」
何事かを言いかけた
(ごめんなさい……一心さま)
すがるような琥珀色のまなざしから顔を背け、早梅は声を絞り出す。
「……私がそちらに行けば……陛下のもとへ行けば、よいのでしょう」
「アハッ! そーそー、お姫サマはよくわかってるじゃん!」
「陛下に泣いてお願いしたら、そっちのひとたちも助けてくれるかもねー?」
戯言を。
いっそ怒号を飛ばしたい気持ちをなんとか飲み込み、早梅は沈黙を貫く。
「……ふぅん?」
なりゆきを眺めていた黒装束の男が、早梅を見つめ、興味深そうにあごをひとなでした。
「そういうことなら。俺がお姫さまをお連れするお役目を頂戴しようか。さぁお手をどうぞ、姫君?」
「ちょっと、遊ばないでよね、おにいちゃん!」
「はいはい」
(蠱毒師に、兄と呼ばれている……? この男も、蠱毒師の関係者なのか……?)
だとするなら、正攻法ではなく、煙幕弾などを使う一筋縄ではない戦法を企てるのも納得できる。
(もしこの男が、蠱毒を使ってきたら……)
ひやりと、早梅のこめかみに冷汗がつたう。
武功の使い手であり、なおかつ蠱毒師だったとしたら。
それは早梅の想像し得る、最悪の展開となる。
動揺を気取られぬよう、平静を保つことで必死な早梅をよそに、ふっ……と男が笑った。