目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第217話 夏夜に注ぐ氷雨【後】

(見事なものだ……)


 桃英タオインは剣の達人であるとともに、弓の名手でもあった。それも歴代きっての腕前であると称賛されていたことが、梅雪メイシェの記憶には刻まれている。

 長弓を引き、残心に至るまで凛としたたたずまいの桃英を前に、早梅はやめはしばし時を忘れていた。


「……桃英さまを、怒らせてはいけませんねぇ」


 手練の暗殺者たちを一瞬で地へ沈めた桃英に、さすがの一心イーシンも圧倒されたのか。薄ら笑いできぬ越しに二の腕をさすっていた。

 まぁ一心の気のせいなどではなく、氷功ひょうこうの影響で冷気に満たされた桃英の周囲は、実際に気温が二、三度低いのだが。


「俺のきょうだいが一瞬で瀕死とは。これは恐れ入った」


 ぱちぱちぱち、とわざとらしい拍手が響く。

 覆面で顔まではわからずとも、どこか挑発的な言動は、早梅をねらうあの男のものにほかならない。


「お父さまの攻撃を受けて、無傷だなんて……!」


 男は、早梅たちと向かい合った場所から、ほとんど動いていない。黒装束のほかに防具などをつけた様子もなければ、腰に提げた剣以外、武器らしい武器も持っていない。

 血まみれで倒れ伏す四人の男たちをちらと一瞥いちべつした桃英は、余裕綽々の男に向かって、低くうなった。


「私の氷功を、内功で防いだか」

「そのようですね。相殺ではなく、矢の軌道をいなしたようです」


 夜目がきく一心にも、男の一連の行動が見えていたようだった。


「矢を弾いた先にお仲間がいることも、お構いなしですか。……あなたは、人命をなんだと思っているのか」


 厳しく追及する一心の言葉から察するに、男は仲間が巻き添えを食らうことを承知で、桃英の攻撃を弾いていた、ということになる。


「強い者が生き残り、弱い者は死ぬ。それが真理じゃないか?」


 あっけらかんと、男は言ってのける。

 単独行動が目立っていたことからもわかる。男は他人の命、それが仲間の命であっても、何とも思ってはいないのだ。

 腹立たしいほど、『ルオ飛龍フェイロンの部下』にふさわしい男。


「なぁ、ザオ家の姫、俺と一緒に陛下のもとへ行こう。道中も長いのだし、仲良くしようじゃないか」

「断る! 変態やろうは都へお帰り!」

「フラれたか。まぁ簡単に手に入るのは、面白くないしな」


 やれやれ、と肩をすくめてみせた男が、クッとのどの奥で笑う。


「威勢のいいその表情を恐怖に塗り替えるのは、楽しそうだなぁ……気が変わった。泣き叫ぶのを無理やり組み伏せて、夜どおし犯すのもいいかもしれない」

「……黙れ」

「あの皇帝陛下を虜にするくらいだ。相当具合がイイんだろ? そのからだは」

「──黙れ。その耳は飾りか。それともよく回るその舌を切り刻まれたいか」

「ははっ、いいねぇその眼! その殺気! ゾクゾクする! 来いよ、俺が可愛がってやる!」

「貴様っ……!」


 これは挑発だ。早梅を逆上させ、正常な判断力を奪う、男の策略だ。そうとわかっていて、やすやすと乗るわけにはいかない。

 けれど、だけれど。ここまで貶められて、黙っていられるか。


「どうした、何をためらうことがある? 犯されるのが怖いか? やはりおまえもか弱い女なのか? もう傷モノにされたんなら、何度だって同じことだろうに!」

「ちがうっ、違う違う違う! 私はっ──!」


 たまらず声を上げようとした早梅は、ひろい手のひらにす……と視界を覆われ、思考停止する。


「傷モノなどではありません。穢れてなど、おりません。あなたさまは、身も心も、おきれいです」


 ことさら穏やかな声が、すぐ耳もとでささやく。

 視覚を遮断されているがために、陽の光のようにあたたかいその声音が、じかに早梅の鼓膜へしみ入った。


「……ヘイファン


 かっと燃えあがるようだった心地が、波を引くように、凪いでゆく。

 そっと手をはずされ、そのまま誘われるように見上げれば、やわらに細めた黄金こがねの隻眼で、早梅を映し出した黒皇がいる。


「早梅さまは、早梅さまです」


 強ばる早梅のほほをするりとなでた黒皇が、ふいにひたいへ口づけを落とす。

 とたん、からだの芯からこみ上げてきた熱が、早梅にこびりつく嫌悪感を吹き飛ばした。


「お控えください」


 早梅から黒装束の男へ向き直った黒皇は一変、そうとだけ言い放つ。


「俺と姫のやり取りに、ほかの男はお呼びじゃないんだが?」

「──黙れ、というのがおわかりにならないか」


 なおも言い募る男を一蹴したのは、黒皇だったか。


「わが主のお心を弄び、尊厳を傷つける愚行、もはや見過ごしてはおけぬ」


 その声音は、研ぎ澄まされた刃のごとく鋭利で。

 早梅もいまだかつて目にしたことがないほど、黒皇は激高していた。


「兄上、ごめんなさい。暴力はいけないと兄上はおっしゃっておりましたが、俺、いまとてつもなく、あの男をぶっ飛ばしたい気分です」


 ふつふつと怒りにこぶしを震わせながら、シアンが黒皇と肩を並べる。


「大丈夫だ、私もそうだから」

「兄上も同じだったら大丈夫ですね」


 温厚で争いを好まない黒皇ら兄弟を激怒させたのだ、男に、弁明の余地はない。


「チッ……水を差すなよ。興ざめじゃないか」

「悠長にひとりごとをこぼしている場合ですか? 僕らを相手にして、あなたに勝ち目があるとは、万に一つも思えませんが」


 一歩、一心が歩み出る。

 いつも笑みをたたえている一心からは、一切の表情が剥がれ落ちている。

 桃英は押し黙っているが、周辺の気温がさらに二、三度低下したような気がする。何ならその頭上で、局地的にぱらぱらとひょうも降り始めた。


「うん、ご愁傷さま!」


 しまいには、満面の笑みをはじけさせた九詩ジゥシーが、爽やかに男を見捨てた。


(そうだ、私には黒皇や、お父さまや、みんながいる。こんなことで、負けていられない)


 たった独りで飛龍と闘い、絶望に叩き落とされたあの夜の自分とは、違うのだ。

 ひとつ呼吸をすれば、はやる気持ちが嘘のように落ち着く。

 深い霧が晴れたかのように、早梅は真っ直ぐに、男を見据えた。


「おっしゃるとおり、私は『強くていい女』だからね。陛下も好き好んでひざまずくくらいだ。そんな私を味見なんかしたら、怒った陛下に首をちょん切られちゃうぞ?」


 それは、飛龍に愛されているという主張。


(ふ……あの男よりあなたのほうがマシだと思えるなんて、気の迷いだとしても、笑っちゃうな)


 だがそれは虚勢などではなく、揺るぎない事実なのだ。

 飛龍に愛されるほどの価値が、おのれにはあるのだという。


「私を欲するならば、それ相応の対価を差し出せ」


 決して屈することはないと、気迫で、飲み込むのだ。

 そして、緊迫の一瞬。


「……っくく、ははっ!」


 心底可笑しげに、男が笑い出す。


「あぁ、本当に……最高の女だ、早梅雪……! その可愛い可愛い顔を、絶望で歪めてやりたい……ッ!」

「さては筋金入りの変態さんだな?」


 男の中の、刺激してはいけない何かを刺激してしまったかもしれない。


「梅雪さま、俺にお任せを。一発で、仕留めます」


 相当キているのだろう。殺気をふくれ上がらせた爽が名乗りを上げる。

 となれば、もはや遠慮はいらないだろう。


「半殺しでたのむよ。──とどめは私がやる」


 なぜなら、早梅も我慢の限界だったので。


 構える早梅。不敵な態度でそれをながめる男。

 痛いほどの沈黙の終わりは、予想外の展開だった。



「ねぇ、なにゴチャゴチャやってんの? わたしたちもいるんだけど?」


コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?