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第216話 夏夜に注ぐ氷雨【前】

 蓮池の岸辺で、夜風が物悲しくいている。

 早梅はやめは暗順応した瑠璃の瞳で、真正面に対峙した黒装束の男を見据えていた。

 全神経を集中させ、『その時』をうかがう。


 五分、十分。

 いや、実際は一分とたっていなかったかもしれない。


「強いな」

「……なんだと?」


 永遠にも思える沈黙で、ふいに黒装束の男が独りごちる。

 その真意をさぐるさなか、ふっ……と、男が笑った気がした。


「媚びず、怯まない、つわものの。強い女は、嫌いじゃない」


 ヒュルリ。男の周辺の風が流れを変える。

 身をひるがえした男によって放られたモノが、早梅の目前に迫る。


「なめるな!」


 瞬間的に、早梅は右手で叩き払う。

 そして、弾き飛ばしたモノが何なのか理解したときには、視界に煙が立ちのぼっていた。


「煙幕弾か!」


 煙を吸ってはいけない。早梅はとっさに淡色の袖で鼻と口を覆った。

 その一瞬の隙をついて、煙の向こうから現れた武骨な手が、早梅を捉えるも。


 ──ヴンッ!


 あとすこしで早梅の手首をつかむというところで、その軌道を、どこからともなく紡がれた鋼弦いとが断つ。

 灰色に煙る空間へ消える手。虚空を切り裂いた鋼弦いとが強くしなり、岸辺に打ちつけられる。

 その直後だった。ひろい手に力強く肩を抱かれたかと思えば、ビュオウッとすさぶ突風によって、早梅の視界を埋め尽くす煙が吹き飛ばされる。


 そろり、と早梅が首を持ち上げれば、三毛と濡れ羽の髪の青年らが、早梅をかばい立っていた。

 口もとはゆるんでいるが、目は笑っていない一心イーシンと、眉間に不快感を刻んだ黒皇ヘイファンだ。


「うら若き乙女にぶしつけにふれるだなんて。およそ紳士のすべきことではありませんね」

「ですから、梅雪メイシェお嬢さまにはふれないでいただきたいと、再三申し上げております」


 姑息な手段で、早梅が脅かされる寸前まで行ったのだ。

 ふたりの心境は、おだやかではなかった。

 一心、そして黒皇の気迫を一身に受けた黒装束の男が、ハッと鼻を鳴らす。


「ならばおまえたちのその自信をへし折って、ザオ家の姫を陛下に献上しようか」

「私がおとなしく従うとでも?」

「望むところさ。強い女を屈服させるのは、ゾクゾクするしな。『お手つき』さえしなければ、陛下もお怒りにはならんだろう」

「うわぁ……なんて変態に好かれてしまったんだ、私。ロリコンは陛下くそやろうだけで充分だって……」


 命のやり取りによるものではない恐怖で、早梅はからだの芯から身ぶるいをする。

 そんな早梅をよそに、黒装束の男はかまわず続ける。


「二年前、深谷しんこくの街。俺の師兄あにを殺したのはおまえだろう、早梅雪」

「おや、師弟おとうとさんだったか。そいじゃ、今夜は敵討ちにでも?」

「いや。負けたのは師兄あにが弱かったから。ただそれだけのこと」

「寂しいことを言うねぇ。お師兄にいさんは、あんなに師弟おとうと想いだったってのに」

「ふ……俺は師兄あにいわく不真面目な師弟おとうとだからな。馴れ合いだとか、暑苦しいのは好かん。ただ、暑苦しくて口うるさい師兄あにを黙らせたおまえがどんな女なのか、興味があってな。やっと会えた。陛下がご執心なのもうなずける。想像以上で嬉しいよ、俺は」

「え? 知らない人に二年もストーカーされてたってこと? うわぁ、うわぁ……」


 できれば知りたくなかった。これには腹の底からせり上がる嫌悪感で、ドン引きの早梅である。


「お嬢さま、斯様かような戯言を聞いてはいけません。お耳が腐ってしまいます」 

「僕の目の前で、僕の花嫁を口説くのは、やめていただけますか?」


 ふだんは温厚な黒皇もぶち切れているし、一心も笑いながら圧をかけている。


ファン兄上、一心さま。おふたりが出られるまでもありません。俺が」


 そうこうしていると、険しく眉をひそめたシアンが加わり、夜色の瞳で黒装束の男を睨みつけた。


「はーい梅雪さま、あっちの変態がいないところに行こうねぇ」


 そしてやたら笑顔な九詩ジゥシーに手を引かれ、安全な場所に誘導されるという。


「俺は姫と存分に楽しみたいんだ。邪魔をするなよ」

「うわぁあっ! 鳥肌! 気持ち悪くて鳥肌がっ! だぁれがあんたの『姫』だよ、梅雪さまに近づくな、変態!」

「こちらは姫を連れ帰ることさえできればいい。それ以外の者は──皆殺しだ」


 にわかに、黒装束の男を取り巻く空気が変わる。

 闇夜のもと、ひとり、またひとりと、仲間の男たちが集結。そしてたしかな殺気でもって、牙を剥かんとする。


 ──はらり。


 そのとき、対峙する双方の頭上へ舞い落ちるものがあった。


 はらり、ひらり。


 月明かりに淡く光る、純白の結晶だ。


(この雪は……!)


 反射的に早梅が夜空を仰げば、降り注ぐ月明かりがさえぎられた。

 風になびくは、翡翠とすず色の髪。


「ねぇ待って! あなた怪我してるでしょう? 無理はだめよ、ねぇ桃英タオインってば!」

「そうはしゃがなくても、聞こえているぞ」

「聞いてないし、はしゃいでるのはあなたでしょ!? いーやーあーっ!」

「あれまぁ」


 空から父が降ってきた。

 いろいろとツッコミどころがあるが、読んで字のごとくなのでこれ以上どうしようもない。

 早梅は苦笑し、はるか上空から華麗に着地を決めた桃英を見やった。桃英は、悲鳴をあげてすがりつく女性を、軽々と抱いていた。


「ご無事でよかったです……おふたりとも」

「あぁ、問題ない」

「私、高いところは苦手だって言ってるのに……死んだわ……十回くらい死んだ気分だわ……桃英のばか! だいっきらい!」

「問題……ない、のかな?」


 半泣きで桃英の胸をぽかぽかと殴りつけている女性を見るに、問題ないことはない気もするが、「そうか。照れている君もいな」と当の桃英がにこにこと気にした様子がないので、早梅はあえてふれないことにした。


「ひさしぶりだね」


 折を見て女性へ話しかけたのは、一心だ。

 はたと泣きわめくのをやめた女性が、紫水晶の瞳で、一心を振り返った。


「そうね。前に会ったのは二十年以上も前かしら……今はなんて呼べばいいの?」

「一心と。君は?」

「星がふたつ流れたわ。二星アーシン四宵スーシャオではなく、二星と呼んでちょうだい。『字名あざな』は、紅娘ホアニャン

「それが今回の君の名か。似合ってるよ」

「ありがとう。あなたもね」


 流れるように言葉が交わされる光景を前に、桃英が整った眉をひそめた。


「親しげに話をするのだな」

「あれ、言ってませんでしたか? 僕と彼女、二星は、許婚だったんです」

「……初耳だが?」

「ただの、幼なじみ! もう……いくら年の近い男女を結婚させたがる風潮がマオ族にあるからって、言い方に悪意があるわ」

「そうだね。実際、僕も君もその風潮に真っ向から反発したからこそ、今があるわけなのだし。桃英さまも、ご安心くださいね。僕が女性として愛しているのは、梅雪さんだけなので」

「どちらにしろ安心できないのだが」


 桃英、正論である。

 嘆息した桃英は、ふと一心から視線を外す。


「すこし目を離したあいだに、悪い虫が寄りついているとは」


 そして厳しく細めた瑠璃のまなざしで黒装束の男たちを捉えると、袖をひらめかせ、右手をかかげた。


「私の娘にふれるな。──二度も言わせるな」

「ほう……これは」

「ッ! させるかッ!」


 早梅をねらっていた黒装束の男が面白そうにあごをさする一方で、仲間たちが弾かれたように桃英へ飛びかかる。が、一歩遅かった。


氷功ひょうこう


 またたく間に内功を集束させた桃英の右手に、純白の剣──ではなく、長弓がかたちづくられた。静かにつがえた矢に至るまで、すべてが純白。


「『月天翠雨げってんすいう』」


 ぎりりと引き絞ったつるを、夜空へ向けて解き放つ桃英。

 純白の矢が月へ吸い込まれていった直後、無数の矢が、流星のごとく降り注ぐ。


「くっ……この……!」

「ぐぁっ!」


 剣を払い、頭上からの猛攻を防ごうとこころみる黒装束の男たちだが、数多あまたの鋭い氷の矢は、容赦なく襲いかかる。


「私の家族を脅かしたことを、その身をもって悔いるがいい」


 やがて、月夜に降り注ぐ氷の雨が止んだとき、早梅たちの目前では、四人の男たちが血まみれで倒れ伏していた。

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