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第214話 名も無き者【前】

 一連の出来事を見守っていた黒皇ヘイファンが、早梅はやめに寄り添い、静かに言葉を紡ぐ。


四宵スーシャオさま……紫月ズーユェさまの、御母堂でいらっしゃいますね。よく似ておいでになる」

「あぁ……そうだね」


 すず色の髪も、あの面影も、琵琶の名手ということまで、間違いなく、話に聞いていた紫月の母親、四宵と一致している。

 だというのに、誰よりも四宵を必要としていた桃英タオインの呼び声は、非情にさえぎられた。


「紫月さまのお話では、四宵さまはもう……」

「彼女は間違いなく、四宵です」


 おもむろに、一心イーシンが発言する。

 断言してみせるからには、何かしら心当たりがあるのだろう。


「……では、一心殿。彼女に、いったい何が起きているのだ」

「彼女は、桃英さまのことを覚えていないのでしょう。ゆえに彼女は、四宵であって、四宵ではありません」

「何故だ……どういうことだ!」

「失礼ながら、僕から申し上げられることは、そう多くありません。『マオ族の機密事項』にふれますので」

「この期に及んで、何を勿体ぶることがあるというのか、一心殿!」

「『猫族の機密事項』……そうだ」


 先日一心から告白されたことを、思い出した。と同時に、早梅は葛藤する。


「いけませんよ、梅雪メイシェさん。……いまは、まだ」


 いまに開きそうになる早梅の唇を、いつの間にか歩み寄っていた一心の指先が、押しとどめた。


「一心さまっ……!」

「信じましょう。桃英さまならきっと、彼女を……」


 みなまで聞いていられなかった。

 早梅はたまらず、一心の胸にすがりつく。


 父が渇望する答えを、おのれは知っている。

 それなのに、言葉にすることができない。してはならない。


 無力感に打ちひしがれ、肩を震わせる早梅を、一心はそっと、抱きしめた。


「桃英さま、ひとつだけ申し上げられることがあるとすれば、此度の件……彼女が蠱毒師に力を貸しているのは、彼女の意思によるものではないでしょう」


 それは、一心のできる、最大限の助言だった。


「ならば……」


 桃英も、一心の心遣いを感じ取ったのだろう。荒ぶる呼吸をひそめ、瑠璃のまなざしを、脇へ寄こす。


「貴様らの仕業か。言え。四宵に、何をした」


 鋭い瑠璃の眼光に射抜かれた蠱毒師が、ハッと鼻を鳴らした。


「何って? ホントはわかってるくせに!」

「そうだよ。そこのおねーさんは、わたしたちのお人形さんなんだ!」


 それはつまり、四宵の体内にも、蠱毒が打ち込まれているということ。


「彼女は僕とおなじように、『空間支配能力』を持っています」

「となれば、私たちをここへ呼び寄せたのも」

「えぇ、彼女でしょう。そして、黒装束の彼らの縦横無尽な動きも、おそらく彼女の能力によるものです」

「四宵さまを利用して、戦況を有利に持っていこうと画策しているわけですか。涙ぐましい努力ですね」

「……外道めが」


 一心の見解に、蠱毒師への怒りが募った早梅が皮肉を返せば、桃英が低い声音で吐き捨てる。


「でも、だから何?」

「わたしたちの毒を、どうにかしようってわけ? どうにもできやしないでしょ!?」


 蠱毒は、呪いだ。

 獲物をがんじがらめに捕らえ、その生を貪り食う、忌まわしき毒。

 下手にほどこうとすれば、巻き添えを食らってしまう可能性さえある。だとしても。


「四宵……四宵」


 愛しいひとへ呼びかけることを、桃英は諦めなかった。


「君が私を忘れても、私が君を忘れたことは、一瞬たりとてなかった」


 沈黙。四宵は口を閉ざしたまま、身じろぎひとつしない。


「ある日ふらりと百杜はくとへやってきた君は、愛嬌があって、働き者なのに、どこかおっちょこちょいで、抜けていて、世話焼きな桜雨ヨウユイにいつも叱られていた」


 今一度、四宵の目の前でひざをつく桃英。

 差し伸べられた右手がほほにふれたとき、ぴくりと、四宵が反応を見せた。


「君と桜雨のやり取りを見ていると、なんだか私の気まで抜けてしまって、日々のしがらみを忘れられた。君が気恥ずかしそうに聴かせてくれた琵琶の音に何度聴き惚れて、何度君から目が離せなくなったことだろう」

「……私は、知らないことです」


 ふれる手を押しのけようとする四宵だが、その細い手首を、桃英がさらう。


「君は儚く見えて、強いひとだった。一族を飛び出して、たったひとりで生き抜いてきた。血のしがらみに縛られない意志の強さを、抗う勇気を、自由を望むことを、その生き様で、私たち兄妹に教えてくれた。君が、未来に絶望する私と桜雨を救ってくれたんだ、四宵」

「知らないと言っているでしょう、さわらないでッ!」


 桃英を突き飛ばした四宵が、琵琶を引っつかみ、力まかせに弦を掻き鳴らす。

 絹を引き裂くような高音が鳴り響き、放たれた音波が、三日月形の衝撃波となって桃英の右肩を引き裂いた。


「ぐっ……」

「私とおなじ音功おんこうの使い手なのか! お父さまっ……!」


 すぐさま駆け寄ろうとする早梅だが、そのときだ。地中から突き出した氷の柱が、桃英たちの周囲を取り囲んでしまった。

 言うまでもなく、桃英の氷功によるもの。

 手出しは無用だと、確固たる意思表示に違いなかった。


「桃英さまほどの実力者であれば、彼女の攻撃を避けることなど、容易かったでしょうに……」


 だが、甘んじてその一撃を受けた。

 桃英が何を想い、何を成そうとしているのか、もしかすれば、一心はいち早く察したのかもしれない。

 近づくことが叶わぬいま、早梅たちは、行く末を見つめることしかできなかった。


「四宵、私はずっと……君に謝りたいと、思っていた」

「来ないで、ください……」


 衣が裂け、右肩に血をにじませながらも語りかけることをやめない桃英に、四宵がうろたえる。

 四宵が琵琶を抱きしめ、後ずさると、それよりも大きな歩幅で、桃英が歩み寄る。


「桃の花が見たいと。雪景色の中、身を寄せ合いながらともに春を待ちわびていたのに……私は、君のねがいを叶えることができなかった。子を授かったことも、私に迷惑をかけないようにと、君が独りで悩んでいたことも、気づけずに……私は、大切な君を守ることができなかった、大馬鹿者だ。本当に……すまない……」


 声を震わせた桃英が、懺悔するように、頭を垂れる。

 そのひたいが肩口にふれたとき、四宵の紫水晶の瞳が、ゆらめく。

 肩に感じるぬくもりを、知っているような気がして。


「だが四宵、これだけはわかってほしい。君が私の迷惑になるだなんて、そんなことはあり得ない。君が突然すがたを消して、私が発狂したことなど知らないだろう? 血眼になって、諦めも悪く何年とさがしていたことも」

「わたし、は……」

「紫月を目にしたとき、君の子だと、すぐにわかった」

「……ずー、ゆぇ」

「そうだ。紫月……旭月シューユェ。私と、君の子だ。あの子は梅雪をよく可愛がってくれた。愛してくれた。こんな私を……父と慕ってくれた。大切な、家族だ。でも、君が……君だけが、いなかった。私の世界は、満たされながらも、欠けていた。感じた幸せが、指の隙間からこぼれていくように……」

「やめ、て……」

「私には君が必要なんだ。ずっと……ずっと会いたかった。つたえたかった」

「それ以上は、もう……」

「四宵……君を、心から、愛している」

「──ッ! ちがう、違う違う違うッ!」


 ザン!


 でたらめに琵琶が掻き鳴らされ、桃英の左頬を音波が切り裂く。


「ちがう、ちがうわ……こんなの、知らない……私は、四宵じゃない……っ」


 からんからんと音を立て、琵琶が転がる。

 地面へ崩れ落ち、両手で顔を覆う四宵の震える肩へ、そっと桃英の右手がふれた。


「そうだな……私の想いが、君を苦しめてしまうかもしれない。けれど、どうか諦めてくれないか。私は君を、諦めることなどできない」


 ほほの傷から口の端へ血を垂らしながらも、桃英はうつむく四宵の目線までかがみ込む。そして両手で、四宵のほほを包み込んだ。


「君を、愛している」


 穏やかな声音に吸い寄せられるように、顔を上げる四宵。

 そこには、ひどく愛おしげに細められる瑠璃の瞳があった。

 はたと呼吸を忘れた四宵の背へ腕を回した桃英は、やさしげにほほ笑み、吐息を寄せる。


「……んっ」


 唇と唇が、かさなる。

 四宵が呆然と動けずにいると、よりいっそう抱擁を強めた桃英が、さらに深く口づける。

 しばしの間、ぼうっと熱に浮かされたように桃英へ身をゆだねていた四宵だが、突然かっと紫水晶の瞳を見ひらく。


「んぅっ……んんぅっ! ふはっ……やっ……!」

「逃げるな、四宵」


 胸を激しく叩かれても、桃英は四宵を手放そうとはしなかった。


「すこしの間だから……辛抱してくれ」


 そういって、決して四宵を逃がそうとはしない。

 真っ青になった四宵が吐き出そうとするものを──先ほどの口づけで四宵の口に含ませたおのれの血を、ふたたびの口づけによって閉じ込める。


「んん……んぅうっ……」


 なす術のない四宵が、こくりとそれを嚥下したとき、ようやく桃英は唇を離す。そして。


「うッ……あぁ…………あぁあああッ!!」


 四宵の絶叫が、闇夜に響きわたった。

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