(『空間支配能力』……私たちが地下牢からここへ連れてこられたのも、摩訶不思議な力によるものだった)
努めて冷静になり、思い返す
(そうだ、あのとき、琵琶の音が聞こえた……!)
そして、つい先ほども。
意識を集中させて首をめぐらせた早梅は、やがて舞台の奥、蓮池の対岸で、木陰に身をひそめた人影を捉える。
ベン、ベン……
琵琶の音は、外套に身を包み、笠をまぶかにかぶったその人物が奏でるものだ。
(どこか、似ている……けれど、違う)
琵琶の音に懐かしさのようなものを感じたのも、一瞬の夢だった。
幼いころ、こちらがせがむと、飽くほどに琵琶を聴かせてくれた最愛の彼は、この世にはもういないのだから。
早梅は唇を噛みしめ、静かにかぶりを振る。
「
警戒を、と続けようとして、早梅は異変に気づく。
琥珀の双眸を見ひらいた一心が、くだんの奏者を凝視していたのだ。
「この音色は……」
「一心さま……?」
様子を一変させたのは、一心だけではなかった。
「まさか……そんなことが、あるのか」
「お父さままで、どうなされたのですか……?」
驚くべきことに、
どんなときも冷静沈着だった桃英が、だ。
だが瑠璃の瞳を極限まで見ひらき、唇をわなわなと震わせている桃英のすがたは、幻覚ではない。
「間違うはずがない。この琵琶の音は、たしかに……っ!」
「お父さまっ!?」
うわ言のようにこぼしていた桃英が、ついにたまりかねたように、土を蹴る。
桃英に、早梅の呼び声は聞こえていなかった。
水面を蹴り、小舟を蹴り、広大な蓮池を疾走する。
「
「邪魔だてするな!」
黒装束の男が行く手を阻むも、かっと眼を見ひらいた桃英が、純白の剣で薙ぎ払う。
刃が男を捉えることは、やはりなかった。
が、煙のごとく消え失せた男に目もくれず、桃英は闇夜を駆ける。
早梅は、あっけに取られていた。
ここまで激情を剥き出しにする桃英を、はじめて目の当たりにしたためだ。
「お父さま、いったいどうして……?」
早梅は困惑の末に、その答えを、知ることになる。
とっ……と、対岸に降り立つ桃英。
桃英はそれまでの高ぶりを嘘のようにひそめ、静かなまなざしで、木陰に腰をおろした人物を見つめる。
ゆるやかに奏でられていた琵琶の音が、止んだ。
長い長い、沈黙が流れる。
早梅たちが息を飲んで見守る中、絞り出すように、桃英が言葉を紡いだ。
「……君なのか」
桃英の問いに、琵琶を抱く人物は、答えない。
わずかに、首をかしげるのみだ。
『何を言っているのか』と、言外に問い返すように。
「──ッ!」
一歩、桃英が踏み込む。
ぱさり、と。
桃英の右手に叩き払われた笠が、地面へ落ちた。
そして早梅は、言葉を失う。
琵琶を抱く人物。あらわになった素顔は、紫水晶の瞳をした、美しい女性だった。
その髪は、
彼女を目にするのは、はじめてだ。
だがその面影を、早梅は知っていた。
「あぁ……!」
感嘆をもらした桃英が、崩れ落ちるようにひざをつく。
そして、琵琶を抱く女性の手に、歓喜で打ち震える手をかさねた。
「生きていたのか、
一瞬の沈黙。
直後、ぱしんと、乾いた音が響く。
女性を抱きしめようとした桃英の手は、無情にも、叩き払われた。
「私に、人間の知人はおりません」
「……何を、言っている、四宵」
「私は、そのような名ではありません」
女性はわずかばかり桃英を見上げ、こう続ける。
「私は、呼ばれる名すらもたない、がらくたです」
それは、呆然と立ち尽くす桃英に対する、容赦ない追い討ちにほかならなかった。