目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第213話 琵琶を奏でるは【後】

(『空間支配能力』……私たちが地下牢からここへ連れてこられたのも、摩訶不思議な力によるものだった)


 努めて冷静になり、思い返す早梅はやめは、とあることを思い出した。


(そうだ、あのとき、琵琶の音が聞こえた……!)


 そして、つい先ほども。


 意識を集中させて首をめぐらせた早梅は、やがて舞台の奥、蓮池の対岸で、木陰に身をひそめた人影を捉える。


 ベン、ベン……


 琵琶の音は、外套に身を包み、笠をまぶかにかぶったその人物が奏でるものだ。


(どこか、似ている……けれど、違う)


 琵琶の音に懐かしさのようなものを感じたのも、一瞬の夢だった。

 幼いころ、こちらがせがむと、飽くほどに琵琶を聴かせてくれた最愛の彼は、この世にはもういないのだから。

 早梅は唇を噛みしめ、静かにかぶりを振る。


一心イーシンさま、あちらの琵琶奏者が、私たちをここへ連れてきた妙な術の使い手かもしれません」


 警戒を、と続けようとして、早梅は異変に気づく。

 琥珀の双眸を見ひらいた一心が、くだんの奏者を凝視していたのだ。


「この音色は……」

「一心さま……?」


 様子を一変させたのは、一心だけではなかった。


「まさか……そんなことが、あるのか」

「お父さままで、どうなされたのですか……?」


 驚くべきことに、桃英タオインが動揺を見せていた。

 どんなときも冷静沈着だった桃英が、だ。

 だが瑠璃の瞳を極限まで見ひらき、唇をわなわなと震わせている桃英のすがたは、幻覚ではない。


「間違うはずがない。この琵琶の音は、たしかに……っ!」

「お父さまっ!?」


 うわ言のようにこぼしていた桃英が、ついにたまりかねたように、土を蹴る。

 桃英に、早梅の呼び声は聞こえていなかった。

 水面を蹴り、小舟を蹴り、広大な蓮池を疾走する。


早桃英ザオタオインだな」

「邪魔だてするな!」


 黒装束の男が行く手を阻むも、かっと眼を見ひらいた桃英が、純白の剣で薙ぎ払う。

 刃が男を捉えることは、やはりなかった。

 が、煙のごとく消え失せた男に目もくれず、桃英は闇夜を駆ける。


 早梅は、あっけに取られていた。

 ここまで激情を剥き出しにする桃英を、はじめて目の当たりにしたためだ。


「お父さま、いったいどうして……?」


 早梅は困惑の末に、その答えを、知ることになる。


 とっ……と、対岸に降り立つ桃英。

 桃英はそれまでの高ぶりを嘘のようにひそめ、静かなまなざしで、木陰に腰をおろした人物を見つめる。

 ゆるやかに奏でられていた琵琶の音が、止んだ。


 長い長い、沈黙が流れる。

 早梅たちが息を飲んで見守る中、絞り出すように、桃英が言葉を紡いだ。


「……君なのか」


 桃英の問いに、琵琶を抱く人物は、答えない。

 わずかに、首をかしげるのみだ。

『何を言っているのか』と、言外に問い返すように。


「──ッ!」


 一歩、桃英が踏み込む。


 ぱさり、と。


 桃英の右手に叩き払われた笠が、地面へ落ちた。

 そして早梅は、言葉を失う。


 琵琶を抱く人物。あらわになった素顔は、紫水晶の瞳をした、美しい女性だった。

 その髪は、すず色。そう、ちょうど、桃英が後生大事にふところへしまっていた一本の筆と、おなじ色。


 彼女を目にするのは、はじめてだ。

 だがその面影を、早梅は知っていた。


「あぁ……!」


 感嘆をもらした桃英が、崩れ落ちるようにひざをつく。

 そして、琵琶を抱く女性の手に、歓喜で打ち震える手をかさねた。


「生きていたのか、四宵スーシャオ……っ! 私の……愛しい……」


 一瞬の沈黙。

 直後、ぱしんと、乾いた音が響く。


 女性を抱きしめようとした桃英の手は、無情にも、叩き払われた。


「私に、人間の知人はおりません」

「……何を、言っている、四宵」

「私は、そのような名ではありません」


 女性はわずかばかり桃英を見上げ、こう続ける。


「私は、呼ばれる名すらもたない、がらくたです」


 それは、呆然と立ち尽くす桃英に対する、容赦ない追い討ちにほかならなかった。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?