「威勢だけはいいけどさぁ、アンタたちが勝てるわけないでしょ?」
「やっちゃいな、おまえたち!」
「う……グ、ォオオオッ!!」
蠱毒師の号令に、獣人たちが雄叫びを上げる。
「くっ……獣人たちを肉の壁にするつもりか!」
そうして早梅たちが怯んだ隙に、毒牙にかけようという算段なのだろう。
「獣人たちの動きを止めて、蠱毒師に近づくには、どうすれば……!」
必死に考えをめぐらせる早梅だが、もはや猶予は残されていなかった。
獣人たちは、すぐ目前まで迫っていたのだから。
「ハイジョ……コロス、殺スゥウウッ!!」
一瞬、反応が遅れた。
そんな早梅を、鋭い爪を剥き出しにした獣人の影が覆う。
「させません」
「なっ……」
夜風になびく濡れ羽色の髪。
呆然と瑠璃の瞳を見ひらいた早梅の視界を、ひろい背が遮る。
「この方には、指一本ふれさせない」
「っ、だめだ
「兄上っ!」
早梅を背にかばった黒皇へ、獣人たちが襲いかかる。
とっさに黒皇の袖を引っぱる早梅だが、黒皇はびくともしない。
この先に待ち受ける光景を想像して、早梅、そして爽から、さぁっと血の気が引いた。
だが、事態は思わぬ展開をみせる。
早梅たちに飛びかかる獣人が、突如としてすがたを消したのだ。
「なんだ……?」
いや、消えたわけではない。
早梅が気づいたときにはもう、獣人たちは遥か遠くの岸辺に転がっていた。
苦しげにうめく獣人たちの全身には、鈍く光るモノが絡みついている。
「僕を忘れてもらっては困るな。残念だったね、黒皇」
ヒュンヒュンと、夜闇を裂くような甲高い音が響く。
黒皇は息を飲み、おのれを呼んだ声の主──
かすかに笑みを浮かべ、若草色の袖をはためかせる一心の両の指からは、細い糸のようなものが伸びている。
「一心さま! まさか……!」
「ふふ、驚かれましたか? じつはあの子に
あの子。一心が誰のことを言っているのか、みなまで言われずとも、早梅にはわかった。
「ただ、あの子は琵琶の弾き手でしたが、僕がたしなんでいるのは、琴でして」
琵琶と琴。どちらも
違いがあるとすれば──
「琵琶は四弦、琴は七弦。自分で言うのも何ですが、僕のほうが、ちょっと厄介ですよ?」
一心の口もとが、三日月のごとく、ゆるりと弧を描く。
琥珀色の眼光が、闇夜にまたたいた。
「はっ!」
網の目状に張り巡らされた
一心が
圧倒的な技術だった。
それは単に、あやつる弦の数だけによるものではない。
ふれれば肉を裂き、骨をも断つ。それが
驚異的な殺傷性能をもつ武器で、獣人に傷ひとつつけることなく、拘束するだけにとどまる。
それは、一心が卓越した技術をもつ証明として、充分なものだった。
「おまえたち! モタモタしてないで、さっさと──」
構わず命令を飛ばそうとする蠱毒師だが、不自然に言葉が途切れる。
はらり、ひらり。
ふいに、月明かりを淡く反射する『何か』が、視界を横切ったためだ。
「なんだこれ」
「つめたっ…………雪?」
そう、音もなく舞っていた純白の結晶は、たしかに雪だった。
夏の夜空のもとで、じつに不思議なことだ。
花びらが舞うように、雪が闇夜を躍る。
「これは……!」
爽の腕の隙間から、純白の冷気が入り込む。
そしてうつ伏せに横たわる少年にふれた、その刹那。
ピシピシピシィッ!
少年の手が、足が、たちまちに凍りついてしまった。
「
静かな声音が響き、早梅は反射的に振り返った。
その先で、凛然と水面にたたずむ
ぱさりと右の袖をさばいた桃英の指先からは、凍てつく冷気と、純白の結晶がただよっている。
兎族の少年だけではない。岸辺に放られた獣人たちも、ことごとく手足が凍りついていた。
「これで、身動きは取れまい。案ずるな。凍傷に
「さすが桃英さま。お見事です」
にこりと笑みを浮かべた一心は、
一心、桃英。両者によって、早梅たちに差し向けられた獣人は、みな動きを封じられた。
これで残るは、蠱毒師と、ふたりが使役する毒蜘蛛のみ。
「チッ……うざいやつらだな」
「あーもう、ムカつくムカつくムカつく……」
形勢逆転。劣勢に立たされた蠱毒師だが、戦意を喪失するどころか、ぶわりと殺気をふくれ上がらせてゆく。
「ならもう、遠慮しなくていいよな」
「さっさと、死んじゃえよ」
とたん、肌が粟立つのを、早梅は感じた。
蠱毒師を取り巻く空気が、豹変したのだ。
「──残酷に、殺してやる」
蠱毒師たちが声をそろえたそのとき、月光をさえぎり、現れる影があった。
た、たんっと危うげなく小舟に着地して見せたのは、全身黒ずくめの覆面の男たち。ざっと数えて、五人はいるだろう。
「これはまぁ……どこかで見たことがあるような、趣味の悪い服装だな」
早梅は失笑した。
忘れるはずもない。あれは間違いなく、二年前、
つまり、獣人奴隷とは比べ物にならない戦闘能力の持ち主。暗殺のプロ集団だ。
「いやいや、一心さまじゃないんだし、どこから現れたんだよ。さっきまで全然気配がなかったよ?」
「まさに、『降ってわいた』ようだったねぇ」
ほほを引きつらせる
(詩詩《シーシー》の言うとおり、まったく気配がなかった)
只者ではない。早梅は全神経を研ぎ澄ませ、ひとりひとり、黒装束の男たちの動向を注視した。
が、はたと気づく。
「……四人……?」
一瞬たりとも、目を離したつもりはない。
それなのに、早梅の視界には、四人の男しか映っていなかった。
いや、違う。全部で五人いたはず。
──ベン。
「はっ……」
どこかで、弦を弾くような音色が聞こえた気がして。
「呆けるな、
矢で射抜くような叱責が飛ぶ。
それが父の言葉だと理解したとき、反射的に身をひるがえした早梅の目前で、ばちりと火花が散っていた。
いつの間にだろうか。早梅の背後を取った『五人目の男』が、抜き放った剣で斬りかかったのだ。
その斬撃を、軽功でいち早く駆けつけた桃英が、すんでのところで弾き返した。
桃英の右手には、純白に輝く両刃の剣がにぎられている。
「私の娘を害そうものなら、ただでは済まぬぞ」
「お父さまっ……!」
手首を返し、ぐっと踏み込む桃英。
華麗なる一閃が繰り出されるも、氷の刃が捉えたのは、男の残像のみ。
「
「わかっている。すこし遊んだだけだ」
「なん、だと……!?」
早梅は、信じられない光景を目の当たりにした。
いまのいままで背後にいた男が、蓮池の小舟に降り立ち、悠長に仲間と言葉を交わす光景だ。
まただ。この広い広い蓮池を、まばたきのうちに移動してみせるなど、軽功のなせる
それこそ、一心のあやつる『空間支配能力』のようなものがなければ。