目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第212話 琵琶を奏でるは【中】

「威勢だけはいいけどさぁ、アンタたちが勝てるわけないでしょ?」

「やっちゃいな、おまえたち!」

「う……グ、ォオオオッ!!」


 蠱毒師の号令に、獣人たちが雄叫びを上げる。


「くっ……獣人たちを肉の壁にするつもりか!」


 早梅はやめたちは、獣人に下手な手出しができない。

 そうして早梅たちが怯んだ隙に、毒牙にかけようという算段なのだろう。


「獣人たちの動きを止めて、蠱毒師に近づくには、どうすれば……!」


 必死に考えをめぐらせる早梅だが、もはや猶予は残されていなかった。

 獣人たちは、すぐ目前まで迫っていたのだから。


「ハイジョ……コロス、殺スゥウウッ!!」


 一瞬、反応が遅れた。

 そんな早梅を、鋭い爪を剥き出しにした獣人の影が覆う。


「させません」

「なっ……」


 夜風になびく濡れ羽色の髪。

 呆然と瑠璃の瞳を見ひらいた早梅の視界を、ひろい背が遮る。


「この方には、指一本ふれさせない」

「っ、だめだ黒皇ヘイファンっ!」

「兄上っ!」


 早梅を背にかばった黒皇へ、獣人たちが襲いかかる。

 とっさに黒皇の袖を引っぱる早梅だが、黒皇はびくともしない。

 シアンが駆け寄ろうとするも、トウ族の少年を押さえつけているため、それが叶わない。

 この先に待ち受ける光景を想像して、早梅、そして爽から、さぁっと血の気が引いた。


 だが、事態は思わぬ展開をみせる。

 早梅たちに飛びかかる獣人が、突如としてすがたを消したのだ。


「なんだ……?」


 いや、消えたわけではない。

 早梅が気づいたときにはもう、獣人たちは遥か遠くの岸辺に転がっていた。

 苦しげにうめく獣人たちの全身には、鈍く光るモノが絡みついている。


「僕を忘れてもらっては困るな。残念だったね、黒皇」


 ヒュンヒュンと、夜闇を裂くような甲高い音が響く。

 黒皇は息を飲み、おのれを呼んだ声の主──一心イーシンを見た。

 かすかに笑みを浮かべ、若草色の袖をはためかせる一心の両の指からは、細い糸のようなものが伸びている。

 が何なのか、黒皇はすぐに理解できた。そして、早梅も。


「一心さま! まさか……!」

「ふふ、驚かれましたか? じつはあの子に鋼弦いとの使い方を教えたのは、僕なんです」


 あの子。一心が誰のことを言っているのか、みなまで言われずとも、早梅にはわかった。


「ただ、あの子は琵琶の弾き手でしたが、僕がたしなんでいるのは、琴でして」


 琵琶と琴。どちらも爪弾つまびく弦楽器だ。

 違いがあるとすれば──


「琵琶は四弦、琴は七弦。自分で言うのも何ですが、僕のほうが、ちょっと厄介ですよ?」


 一心の口もとが、三日月のごとく、ゆるりと弧を描く。

 琥珀色の眼光が、闇夜にまたたいた。


「はっ!」


 網の目状に張り巡らされた鋼弦いとが、蓮池に散らばる獣人たちを絡めとる。

 一心が義甲ゆびから鋼弦いとを紡ぎ、若草色の袖を振るたび、ひとり、またひとりと、網にかかった獣人が岸辺に放られた。


 圧倒的な技術だった。

 それは単に、あやつる弦の数だけによるものではない。


 ふれれば肉を裂き、骨をも断つ。それが鋼弦いとだ。

 驚異的な殺傷性能をもつ武器で、獣人に傷ひとつつけることなく、拘束するだけにとどまる。

 それは、一心が卓越した技術をもつ証明として、充分なものだった。


「おまえたち! モタモタしてないで、さっさと──」


 構わず命令を飛ばそうとする蠱毒師だが、不自然に言葉が途切れる。


 はらり、ひらり。


 ふいに、月明かりを淡く反射する『何か』が、視界を横切ったためだ。


「なんだこれ」

「つめたっ…………雪?」


 そう、音もなく舞っていた純白の結晶は、たしかに雪だった。

 夏の夜空のもとで、じつに不思議なことだ。


 花びらが舞うように、雪が闇夜を躍る。


「これは……!」


 爽の腕の隙間から、純白の冷気が入り込む。

 そしてうつ伏せに横たわる少年にふれた、その刹那。


 ピシピシピシィッ!


 少年の手が、足が、たちまちに凍りついてしまった。


氷功ひょうこう──『花氷はなごおり』」


 静かな声音が響き、早梅は反射的に振り返った。

 その先で、凛然と水面にたたずむ桃英タオインのすがたがあった。

 ぱさりと右の袖をさばいた桃英の指先からは、凍てつく冷気と、純白の結晶がただよっている。

 兎族の少年だけではない。岸辺に放られた獣人たちも、ことごとく手足が凍りついていた。


「これで、身動きは取れまい。案ずるな。凍傷にかからぬよう、一定時間がたてばとけるようにしてある」

「さすが桃英さま。お見事です」


 にこりと笑みを浮かべた一心は、鋼弦いとを巻き取ると、はずした義甲ゆびを若草色の袖の中へおさめて、ぱちぱちと桃英へ拍手を送った。

 一心、桃英。両者によって、早梅たちに差し向けられた獣人は、みな動きを封じられた。


 これで残るは、蠱毒師と、ふたりが使役する毒蜘蛛のみ。


「チッ……うざいやつらだな」

「あーもう、ムカつくムカつくムカつく……」


 形勢逆転。劣勢に立たされた蠱毒師だが、戦意を喪失するどころか、ぶわりと殺気をふくれ上がらせてゆく。


「ならもう、遠慮しなくていいよな」

「さっさと、死んじゃえよ」


 とたん、肌が粟立つのを、早梅は感じた。

 蠱毒師を取り巻く空気が、豹変したのだ。


「──残酷に、殺してやる」


 蠱毒師たちが声をそろえたそのとき、月光をさえぎり、現れる影があった。

 た、たんっと危うげなく小舟に着地して見せたのは、全身黒ずくめの覆面の男たち。ざっと数えて、五人はいるだろう。


「これはまぁ……どこかで見たことがあるような、趣味の悪い服装だな」


 早梅は失笑した。

 忘れるはずもない。あれは間違いなく、二年前、飛龍フェイロンが早梅たちに差し向けた追っ手とおなじものだ。

 つまり、獣人奴隷とは比べ物にならない戦闘能力の持ち主。暗殺のプロ集団だ。


「いやいや、一心さまじゃないんだし、どこから現れたんだよ。さっきまで全然気配がなかったよ?」

「まさに、『降ってわいた』ようだったねぇ」


 ほほを引きつらせる九詩ジゥシーへ何でもないように返す一心だが、一切笑みは浮かべていない。


(詩詩《シーシー》の言うとおり、まったく気配がなかった)


 只者ではない。早梅は全神経を研ぎ澄ませ、ひとりひとり、黒装束の男たちの動向を注視した。

 が、はたと気づく。


「……四人……?」


 一瞬たりとも、目を離したつもりはない。

 それなのに、早梅の視界には、四人の男しか映っていなかった。

 いや、違う。全部で五人いたはず。


 ──ベン。


「はっ……」


 どこかで、弦を弾くような音色が聞こえた気がして。


「呆けるな、梅雪メイシェ!」


 矢で射抜くような叱責が飛ぶ。

 それが父の言葉だと理解したとき、反射的に身をひるがえした早梅の目前で、ばちりと火花が散っていた。


 いつの間にだろうか。早梅の背後を取った『五人目の男』が、抜き放った剣で斬りかかったのだ。

 その斬撃を、軽功でいち早く駆けつけた桃英が、すんでのところで弾き返した。

 桃英の右手には、純白に輝く両刃の剣がにぎられている。

 剣罡けんこう。氷功をもとにかたちづくられた、氷の剣だ。


「私の娘を害そうものなら、ただでは済まぬぞ」

「お父さまっ……!」


 手首を返し、ぐっと踏み込む桃英。

 華麗なる一閃が繰り出されるも、氷の刃が捉えたのは、男の残像のみ。


ザオ家の娘は傷つけるな。陛下のお怒りを買うぞ」

「わかっている。すこし遊んだだけだ」

「なん、だと……!?」


 早梅は、信じられない光景を目の当たりにした。

 いまのいままで背後にいた男が、蓮池の小舟に降り立ち、悠長に仲間と言葉を交わす光景だ。


 まただ。この広い広い蓮池を、まばたきのうちに移動してみせるなど、軽功のなせる範疇はんちゅうではない。

 それこそ、一心のあやつる『空間支配能力』のようなものがなければ。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?