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第211話 琵琶を奏でるは【前】

 蠱毒師こどくし。蠱毒。

 桃英タオインの言葉を反芻はんすうして、早梅はやめは、はっと思い出すことがある。


(蠱毒といえば……たしか、禁術だったはず!)


 蠱毒とは、呪いだ。その危険性から現在では禁じられた術とだけ、桃英から聞かされていた。それが、幼いころの梅雪メイシェの記憶として残っていた。

 そのため、毒の知識が豊富であった梅雪の記憶をたどってみて、かろうじて蠱毒という言葉を思い出せても、肝心の詳細が何もわからないのだ。

 一方で桃英は、蠱毒に関する知識がすくなくない口ぶりだ。


「失礼ですが、お父さまは、なぜ蠱毒のことを……?」

「二代前、私の祖父で、おまえの曽祖父に当たるザオ家当主が、蠱毒師だった」

「なんですって……!」

「むろん、呪殺などという馬鹿げた真似のために、蠱毒を修得したわけではない。お祖父様は、清廉潔白な方だった。蠱毒を治療法として用いることができないか、禁忌を承知で、生涯研究しておられた。桜雨ヨウユイは、そのお祖父様から医術を学んでいる。蠱毒に関しては、私より桜雨のほうが詳しいだろう」

「そうだったのですね……お母さまが」


 元より、桃英と桜雨は仲のいい兄妹だった。蠱毒について学ぶ桜雨の様子を見守っていたなら、桃英にもある程度蠱毒の知識があることも納得がいく。


「だが、三十年ほど前だったか。突如として蠱毒師たちが結束して武林ぶりんに暴動を起こした事件があった。禁術の再興が懸念され、事態を重くみた連盟は、各門派の掌門しょうもんをあつめ、蠱毒ならびに蠱毒師の撲滅をはかったと聞く」

「蠱毒師と名だたる武人による、戦争……ですか」

「そうだ。その結果、暴動を起こした蠱毒師は全滅。蠱毒に関する技法書なども、すべて葬り去られたはずだ。わが早家に厳重保管されていたものを除いて」


 外界とのつながりを遮断し、北のはずれの百杜はくとの地で独自の伝統を貫いてきた早家は、武功の猛者たちがつどう央原おうげん最大の組織、武林連盟に加入していない。

 武林も、早家に蠱毒師がいることまでは把握できていなかったのだろう。知られていたなら、暴動時に粛清の手が早家にまでおよび、梅雪が生まれてくることはなかったはずだから。


「桃英さまのお話を踏まえますと、三十年前の暴動で、じつは生き残った蠱毒師がいた。そしてその生き残りとまではいかなくとも、関係者といったところでしょうか? そちらのおふた方」


 一心イーシンが琥珀色の瞳で、蓮池に浮かぶ舞台上の影を見据える。


「……だったら、なに?」


 たっぷりの沈黙をへて、低い返答がある。

 ふたつ並んだ小柄な人物は、どちらも外套の帽子で頭をすっぽりと覆っているため表情は見えない。が、一心の言葉に苛立ちをにじませていることは、容易にうかがい知れた。


「無理やり連れてきた獣人たちを、地下牢に閉じ込めて、気まぐれに連れ出しては、蠱毒であやつる……こんなの、まるで人体実験じゃないか。おまえたちはそうやって、この燈角とうかくで、かつてのようにふたたび争いを巻き起こすその時を、虎視眈々と狙っていたんだな!」

「あーもう、うるっさいな……そんなこと、どうでもいいじゃん」

「そうだよ、皇子サマになんの関係があるわけ? 知ったってしょうがないでしょ?」

「だってアンタたちは、きょうここで」

「さいっこうにむごたらしく、死ぬんだから!」

「殿下!」


 いち早く反応した早梅の呼び声に、はっと我に返る暗珠アンジュ

 見ひらいた薔薇水晶の瞳のすぐ間近に、飛びかかる影を認め、暗珠は夢中で身をひねった。


「うっ……ぐぅ!」


 とっさに水面を側転して難を逃れた暗珠だが、完璧な受け身が取れず、小舟に背を打ちつけてしまう。その衝撃で、ちかちかと視界が明滅した。


「あーあ、惜しかったな」

「もうちょっとだったのにねー」


 わざとらしく上がる声とともに、シュウウ……となにかが蒸発するような音を、早梅の敏感な聴覚がひろう。

 見れば、先ほどまで暗珠がいた水面から、ツンと鼻を刺す刺激臭と、黒い煙が立ちのぼる。

 そのすぐそば、波打つ水面に浮かぶ蓮の葉上では、一匹の蜘蛛がうごめいている。


「なんだ、あの蜘蛛は……!」


 黒と紫と黄の、禍々しい斑もようのからだ。

 血のように赤い目が六つあり、早梅のこぶしよりも大きい、巨大な蜘蛛だ。


「アハッ! 冥王ミンワンの吐き出す糸の先は針みたいに硬く鋭くて、刺されたらひとたまりもないよ!」

「なにもかもわけわかんなくなって、一瞬でわたしたちのお人形さんになっちゃうの! キャハハッ!」

「毒液を注入する針糸……まさか、殿下をも餌食にするつもりなのか……!」


 飛龍フェイロンの配下であろう蠱毒師たちは、すくなくとも暗珠には危害を加えないだろう。

 それは甘い考えだったと、早梅は唇を噛む。


(いや、違う……そもそも皇室は、武林とおなじ正派《せいは》だ。陳《チェン》太守が飛龍の命を受けて獣人奴隷売買を主導していたなら、なぜ過去に敵対していた蠱毒師と手を組んでいる!?)


 いったい、何が起きているのか。

 にわかに、早梅は混乱に見舞われる。


「ぐぅ……うがぁッ!」


 そのときだ。黒皇ヘイファンが支えていたトウ族の少年が、暴れ出す。


「っ、梅雪お嬢さま!」

「おさがりください、ファン兄上!」

「──!」


 黒皇を振り払い、早梅へつかみかかろうとする少年。だが次の瞬間には、地面に叩きつけられていた。

 シアンだ。水面を跳んで駆けつけるや否や、少年を投げ飛ばしたのだ。すかさずうつ伏せの少年にひざで体重をかけ、後ろ手に拘束している。


黒俊ヘイジュン……!」

「俺のことはお構いなく。ですが……」


 爽は言葉を切ると、夜色の瞳を伏せ、背後をふり返る。


「へ……へへ……」

「ハイジョ、ハイ、ジョオオオ!」


 爽の視線の先では、先ほど爽に昏倒させられた獣人たちが、薄ら笑いを浮かべながら、ヨロヨロと起き上がるところだった。


穴道けつどうを突いても、意味がありません。彼らを侵す蠱毒の力が強すぎる……」

「死ぬまで、人殺しの人形としてあやつられるということか。……お嬢さま、これではキリがありません」

「あぁ」


 険しい面持ちの黒皇が何を言わんとするか、早梅も理解していた。


かしらを直接叩くほか、ないようだ」


 蠱毒師を倒す。

 猛毒に苦しむ獣人たちを一刻も早く救うには、それしか方法がない。

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