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第210話 水面の舞台にて【後】

 月が心細げに輝く夜。広大な蓮池の一角で、水飛沫が巻き上がる。


「ウォ……ウォオ……!」

「しつこいしつこい、しつこ〜いっ! おじさんに追っかけられて喜ぶ趣味なんかないってば〜っ!」


 水面に浮かぶ小舟から小舟へ飛び移りながら、たまりかねた九詩ジゥシーが絶叫する。

 九詩が相手にしていたのは、体格のいい男だった。父に似て九詩も長身であり、成人した今となっては一心イーシンと目線を並べるほどだが、男はそれより一回り大きい。まさに大男。

 それが、動いたものに飛びつく獣のごとく執拗に追いかけ回してくるので、鳥肌が立ってしょうがない九詩である。生理的嫌悪の意味合いで。


 軽功の心得があるのだろうか。九詩を追って水面をも走る大男ではあるが、足に込められた内功は乱雑であり、足首まで水に沈んでしまっている。

 が、足を取られながらも小舟だろうが水面だろうがお構いなしに蹴散らす有様で、そのたびに派手な水飛沫が上がるため、余計に九詩を不機嫌にさせた。


「僕がただ逃げてるだけと思ったら、大間違いだよっ!」


 九詩はとっ、と小舟へ降り立つやいなや、たんっと跳躍する。高く高く、遥か上空へ。


「っ!?」


 猛然と九詩を追いかけていた大男は、目標を捉え損ね、勢いあまって前方へよろめいた。

 体重を殺しきれなかった大男を受けとめきれず、小舟がぐらりと揺れる。


「遅い。止まってえるよ」


 夜闇に、薄緑色の眼光がまたたく。

 宙でくるりと後転した九詩が、落下の速度を利用し、一瞬で大男の背後を取る。


「あと、こっちがひょろいからって、舐めないでよ」


 逆さまの視界で、九詩の右手は、大男の襟首を的確に掴みとった。

 宙がえりの姿勢。九詩は渾身の力を込め、身をひねる軌道で大男を投げ飛ばす。


 ざばぁんっ!


 ひときわ大きな水飛沫が上がり、雨のごとく降り注ぐ。

 そのすこし離れた水面へ、涼しげな面持ちの九詩が降り立った。


「濡れるのやなんだよね。猫だもん」


 高所から水面への飛び込みは、石の床に生身でぶつかるのと同様である。

 九詩は投げ飛ばした大男を緩衝材に、着水の衝撃をやわらげたのだ。


「どうせなら、梅雪メイシェさまと追いかけっこしたかったよ。あーあ、つまんないの」


 脳震盪を起こした大男が仰向けに浮かぶのをしり目に、九詩はきびすを返した。



 一方そのころ。シアンは水面を疾駆していた。


(数が多いな)


 おのれを囲む敵の気配が、ひとつ、ふたつ、みっつ。

 三人の男たちが、代わる代わる、攻撃を仕掛けてきていたのだ。

 四方八方から襲い来る攻撃をいなしてはいたものの、このままでは埒があかない。


(ならば、一掃するまで)


 そのとき、爽の目前にこぶしを振りかぶった男が現れ。


「ハイジョ……排除ォオ!」


 男のこぶしが襲うより先に、爽は視界の端に捉えた小舟のへりに、かかとを打ちつけた。と、その衝撃でくつの背部から仕込み刃が飛び出す。

 すかさず爽は、しなやかな身のこなしで、小舟の側面を右足で水面ごと蹴り上げる。


「ウッ……!?」


 水飛沫を浴びせられた男がひるむ。

 その一瞬の隙があれば、充分だった。


 小舟を蹴り上げた際、爽は沓の仕込み刃で、船体に固定されていたかいの縄を断ち切っていた。


「はぁっ!」

「ぐがッ!」


 櫂を手にした爽は、姿勢を低め、おのれの周囲を薙ぎ払う。

 ひとり、ふたり、さんにん。

 襲いかかる男たちを、立て続けに櫂で迎え撃つ。

 華奢な青年の細腕からくり出されたとは思えない殴打の衝撃に、肺での呼吸を損ねる男たち。


「ぐっ……が、ァアアアッ!」


 よろよろと体勢を立て直し、ふたたび襲いかかろうとするも、突然どさりと崩れ落ちる。

 小舟に乗り上げるようにして失神する男たちの腕や背には、クナイ型の暗器が突き刺さっていた。


穴道けつどうらせていただきました。いたずらな殺生は、嫌いなので」


 三人の男たちを、またたく間に戦闘不能に陥らせる。

 それは、数多の戦場を経験した爽にとって、造作もないことだった。


(それにしても、なんだ、この違和感は……)


 男たちと対峙する中で、爽は悶々とした違和感を覚えていた。


(粗末な身なりから察するに、訓練された警備兵ではない。しかし、高い身体能力を持つ彼らは、まるで……)


 そこまで思考をめぐらせ、はたと、爽は息を止めた。


(まさか、彼らは──!)


 たどり着いてしまった『真実』に、爽は戦慄する。


ファン兄上……梅雪さま……!」


 数々の死闘を経験した爽の直感が、本能が、けたたましく、警鐘を鳴らしていた。



  *  *  *



「……萌萌モンモン……萌萌……」


 萌萌。離れの地下牢に捕らえられていた、トウ族の女児の名だ。

 早梅はやめは驚愕し、蓮池の岸辺に横たわる少年へ飛びついた。


「君、萌萌を知っているんだな!?」

「……萌萌……おれの、妹……たった、ひとりの、かぞく……」

「なんということだ……!」


 うわごとのように、少年が発した言葉の意味。

 それが、わからない早梅ではない。


「一心さま! 彼らは!」

「えぇ、困ったことに、なっているようですね」


 早梅が確信を得たのと同様に、一心も薄々悟っていたのだろう。


「彼らは、僕らと同じ獣人です」

「それじゃあ敵は、俺たちを消すために、獣人奴隷たちを差し向けたってことですか!?」

「おっしゃる通りです、殿下」

「われわれが獣人たちに下手に反撃できないことを知って、か。……なんと下劣な」


 暗珠アンジュの驚愕に一心が重々しくうなずいてみせれば、桃英タオインも眉根を寄せる。


「やっぱり獣人だったの! ていうか、向こうにも僕たちが獣人だってわかるはずなのに、なんで問答無用で襲ってくるのさ!?」

「弱味をにぎられている、だけではなさそうですね」


 九詩と爽も状況を理解したようだが、いかんせん、不明な点が多すぎた。


「君、名前は? 萌萌が心配していたよ。君たちに何があったのか、教えてくれないか」

「おれ、は……萌萌……あぁっ萌萌! うぐぁあっ!」

「君!」

「お嬢さま、こちらへ」


 早梅が抱き起こしたとたん、突然狂ったかのように少年が頭を掻きむしる。かと思えば、げほごほ、と激しく咳き込み、何かを吐き出した。

 すぐさま黒皇ヘイファンが早梅を下がらせる代わりに少年を支え直してくれたため、衣服が汚れることこそなかったものの。


「なっ……黒い血だと!」


 少年が地面に吐き出したのは、炭のようにどす黒く、粘着質な血液だった。


「毒か。それも他者の自我を奪い、従属させるための毒……成程」

「他者を従属させる毒……そんなものがあるのですか、お父さま……!」

「残念なことにな」


 早梅が憑依した梅雪は毒に詳しいが、若くしてザオ家当主をつとめていた桃英の知識は、その比ではない。

 桃英は厳しく細めた瑠璃の瞳でもって、水面に浮かぶ舞台、その上にあるふたつの影を射抜いた。


「他者の体内を食い荒らし、意のままにあやつる生きた毒の使い手──おまえたち、蠱毒師こどくしだな」


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